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煤煙の街と、夜明け行きの切符

宿の主人は、アストリッドの背中の剣を見てから、手元の宿帳を見た。


「お部屋にお持ちになるので?」


「はい。廊下や階段にはぶつけません」


「壁にもお願いします」


「気をつけます」


 その隣で、コンスタンスが申し訳なさそうに頭を下げた。


 主人は慌てて片手を振る。


「いえ、お断りしているわけでは。先月、猟銃を立てかけたお客様が壁紙を剥がしましてね」


「修繕費は、別に取っていいと思う」


「私もそう思っております」


 アストリッドが真面目に頷いたので、主人も真面目に頷き返した。


 二階の角部屋が一つ、空いていた。


 寝台は二つ。中庭に面した窓があり、厩はその向かいだという。アストリッドが最初に確かめたのは、部屋の暖房よりも馬に出す水と飼葉だった。


 その間に、コンスタンスは宿帳へ名前を書き、朝食の時間と駅からの連絡の受け取り方を尋ねた。


「復旧の知らせはこちらにも届きますか?」


「夕方には駅から掲示を持ってきます。もっとも、今朝の話では明日も難しそうですが」


「そうですか……」


「お急ぎでしょうが、街道へ出るのはお勧めしませんよ。峠の手前で荷車が詰まっているそうですから」


 主人が差し出した鍵には、歯車の形をした重い札がついていた。


 コンスタンスはそれを両手で受け取った。


     ◇


 部屋の壁際には、白く塗られた暖房管が並んでいた。


 時折、管の中で小さな音がする。


 コンスタンスがそちらを見ると、荷物を運んできた女中が笑った。


「初めは気になりますけど、夜には慣れますよ。窓は、汽笛が鳴る前に閉めてくださいね」


「汽笛?」


「向かいの工場が蒸気を逃がすんです。風向きが悪いと、洗ったばかりの髪まで煤臭くなってしまって」


 女中が窓の留め金を示す。


 その下の中庭では、アストリッドが厩番と話していた。セレスはすでに馬房へ入り、飼葉桶を調べている。


 コンスタンスは窓辺から手を振った。


 すぐに気づいた友人が、顔を上げる。


「部屋、どう?」


「とても綺麗よ」


「じゃあ、あとで行くね」


 声が中庭へ落ちていく。


 女中が扉を閉めると、急に静かになった。


 コンスタンスは帽子を外し、鏡の前で髪を整えた。汽車の揺れで歪んだ襟元も直す。母に会う日まで、この服をなるべく綺麗にしておきたかった。


 替えの手袋を出そうと旅行鞄を開ける。


 畳んだ肩掛けが、いつもと違う向きに入っていた。


「……あら」


 持ち上げた下に、茶色い革の筒があった。


 コンスタンスは手を止めた。


 片側の蓋に、三日月のような擦り傷。


 細い革紐の結び目。


 駅で拾い上げたものと、同じだった。


     ◇


「触らずに待っていてくれたの?」


 戻ってきたアストリッドは、開いた旅行鞄を覗いた。


「持ち上げてはみたの。でも、開けてはいないわ」


「そっか」


 剣を壁際へ横たえ、鞄の前に膝をつく。


 革張りの筒は、見たところ図面入れのようだった。留め具に鍵はない。表面には、細かな煤が擦り込まれている。


「お店で買ったものじゃないんだよね」


「ええ。駅で落とした方に、お返ししたの」


 コンスタンスは電信室の前であったことを話した。


 貴賓室から出てきた人々のこと。


 若い男のこと。


 筒を拾って返すと、一度だけ振り返ってきたこと。


 アストリッドは聞きながら、鞄の口金へ目を向けた。


「荷物を預けたのは、そのあと?」


「ええ。電報を出し終えたから、受け取り口で。あなたとセレスを迎えに行く間だけ」


「その時は鍵を?」


「掛けていなかったわ。受け取りの札を、中に入れてしまっていて……」


 そこで、コンスタンスの声が小さくなった。


「掛けておけばよかったのね」


「次からそうしよう。今は、これがどうして入っているのかだよ」


 責める調子はなかった。


 それでもコンスタンスは、膝の上で手を握った。


「荷物係の方が、私のものだと思ったのかしら」


「かもしれない。でも、それなら着替えの下に入れるかな」


 二人で筒を見る。


 アストリッドは、しばらく考えてから立ち上がった。


「宿の人に聞こう。知らないものが入っていたって。駅へ返すにしても、預かり証をもらったほうがいいと思う」


「私も行くわ」


「うん」


 アストリッドが筒を取り出そうとした時、蓋の内側から紙の端が覗いた。


 革紐に挟まれていたらしい。


 引き抜くと、切符ほどの大きさの紙だった。


 表には、急いで書いたような字があった。


『駅へ戻さないで』


 その下に、もう一行。


『青い屋根、真鍮の鳥。エッダに渡して』


     ◇


 アストリッドは紙を持ったまま、窓へ顔を向けた。


 向かいの工場から汽笛が鳴る。


 コンスタンスは反射的に窓を閉めた。少し遅れて白い蒸気が中庭の上を横切り、硝子を薄く曇らせる。


「あのお店ね」


「たぶん」


「でも……どうして、私に」


 筒を落とした男の顔が浮かんだ。


 汗の浮いた額。


 受け取る直前、一瞬だけ止まった手。


 あれは、自分の顔を見ていたのではなく、助けてくれそうな人間かどうかを確かめていたのだろうか。


 アストリッドは紙を卓上へ置いた。


「コニー。その人たち、何人いた?」


「五人。駅長さんを入れると六人だったわ」


「顔は覚えてる?」


「ええ」


 返事は、今度はすぐに出た。


「筒を落とした方は茶色い髪で、左の袖口にインクがついていたの。その前にいた方は、右手に指輪を二つ。取締役と呼ばれていた方は――」


 扉が叩かれた。


 二人の声が止まる。


「お客様」


 宿の主人だった。


「駅からお迎えの方がいらしています。お荷物に手違いがあったそうで」


 アストリッドが紙を裏返した。


 コンスタンスを見て、静かに人差し指を唇へ当てる。


「今、行きます」


 答えながら、アストリッドは筒を寝台の掛布の下へ押し込んだ。


 紙は畳んで、自分の上着の内側へ入れる。


 それから扉へ向かった。


     ◇


 階段の下に、駅員の制服を着た男が二人立っていた。


 アストリッドは踊り場で足を止めた。


 片方は帽子を両手で持っている。


 もう片方は、手袋を外さず、玄関に近い壁際へ立っていた。


 制服の裾から見える靴には、磨かれた床を傷つけそうな金属屑がついていた。荷物係の靴にしては、底が厚い。


「お手数をおかけしております」


 帽子を持った男が頭を下げた。


「お客様のお荷物に、会社の書類入れが紛れ込んだ可能性がございまして」


「どんなものですか?」


「茶色い革張りの筒です。図面の入った」


「荷物係の人が入れたんですか?」


「手違いがあったようでして」


 男は微笑んだ。


 質問への答えにはなっていなかった。


「お部屋を確認させていただければ、すぐに済みます」


「私たちが探して持ってきます」


「いえ、ほかにも不足品がございますので」


 男の片足が、階段へ掛かった。


 アストリッドは降りなかった。


 背後で、床板が小さく鳴る。


 コンスタンスが部屋から出てきていた。


 階段の下へ目を向けた途端、その足が止まった。


 帽子を手にした男。


 手袋の、右の親指にある濃い染み。


 今は杖を持っていない。


「……コニー?」


 アストリッドが顔だけを僅かに向ける。


 コンスタンスは返事をしなかった。


 できなかった。


 男と目が合った。


「そちらのお嬢様のお鞄ですね」


 柔らかい声だった。


 朝、駅長に指示を出していたのと同じ声。


 コンスタンスは、手すりに置いた指へ力を込めた。


「確認いたしますので……こちらで、お待ちいただけますか」


「ご一緒したほうが早いでしょう」


「着替えを、広げておりますから」


 かすれかけた声で言うと、宿の主人が横から頷いた。


「そういうことでしたら、こちらでお待ちを。お茶でもお持ちしましょう」


 ほんの僅か、男の笑みが薄くなった。


 それでも足を階段から下ろす。


「では、お願いします」


     ◇


 部屋へ戻ったコンスタンスは、扉が閉まるのを待ってから、アストリッドの袖を掴んだ。


「あの方よ」


「筒を落とした人?」


 首を振る。


「取締役と呼ばれていた方。駅長さんが、頭を下げていた……」


 アストリッドの表情が変わった。


 扉の鍵を回し、すぐに窓へ向かう。


「確か?」


「ええ。顔も、声も。同じ手袋をしているわ」


「分かった」


 それ以上は尋ねなかった。


 窓を開ける。


 中庭までの高さを見て、壁沿いの雨樋と、厨房の張り出した屋根へ視線を移した。


「アストリッド」


「うん」


「私、窓からは降りられないと思う」


 アストリッドが振り返った。


 コンスタンスの顔を見てから、窓の外をもう一度見る。


「……そうだね。別の道にしよう」


 扉の外で、足音がした。


 ゆっくりと近づいてくる。


 アストリッドは大剣の革帯を肩へ掛け、掛布の下から筒を取った。


「これ、持っていて」


 コンスタンスが両手で受け取る。


「重い?」


「大丈夫」


「鞄は置いていくよ。お金と切符だけ」


 小さな手提げへ手を伸ばす指が震えた。


 口金が、うまく開かない。


 アストリッドが手を添えて開け、卓上にあった財布と切符入れを中へ戻してくれた。


 扉が叩かれる。


「お客様。いかがでしょうか」


 コンスタンスは息を止めた。


 アストリッドが彼女を扉の正面から退かせる。


「もう少し待ってください」


「こちらも急いでおりますので」


 取っ手が動いた。


 一度。


 それから、もう一度。


 アストリッドは部屋の奥の細い扉へ目を向けた。女中が洗面用の湯を運び込んだ、配膳用の通路に続く扉だった。


 そっと開けると、薄暗い廊下の向こうに小さな階段が見えた。


「コニー。こっち」


 コンスタンスは頷いた。


 背後で、男の声が低くなる。


「開けていただけますか」


 アストリッドは返事をせず、友人を細い通路へ先に通した。


 その直後。


 客室の扉が、蝶番ごと大きく軋んだ。

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