煤煙の街と、夜明け行きの切符
コンスタンスが時刻表を開くのは、これで七度目だった。
アストリッドは向かいの座席からそれを眺め、窓枠に預けていた頬を上げた。
「さっきと変わった?」
「変わっていないわ」
「じゃあ、大丈夫」
「でも、乗り換えまで二十四分しかないの」
「二十四分もあるよ」
コンスタンスは時刻表から顔を上げた。
「セレスを降ろして、荷物を受け取って、次の列車に預け直すのよ?」
「……そう言われると、少し短いね」
「でしょう?」
ようやく心配を共有してもらえたらしく、コンスタンスの肩が僅かに下がった。
列車が大きく揺れる。
卓上の茶杯が受け皿の縁へ寄り、二人は同時に手を伸ばした。先に押さえたのはアストリッドだったが、その肘に触れかけていた菓子箱を救ったのはコンスタンスだった。
「ありがとう」
「こちらこそ」
向かい合わせに笑って、座り直す。
窓の外では、刈り入れを終えた畑が後ろへ流れていた。遠くの丘には風車が並び、その向こうに、細い煙の柱が幾筋も立っている。
東方に暮らす両親のもとへ。
そう決まってから、コンスタンスはこの旅を指折り数えて待っていた。
母に会ったら聞きたいことも、父に見せたいものもある。途中の街で買う土産まで考えた。
アストリッドは、そんなコンスタンスの旅に同行してくれている親友だった。東方の駅までは長い道のりで、乗り換えも多い。馬を連れて一人で向かうのは心細いだろうと、彼女が自分から付き添いを申し出てくれたのだ。
ただ、出発前に眺めていた路線図には、駅の階段の数も、荷物係を呼び止める難しさも、機関車の汽笛で自分の声が聞こえなくなることも書かれていなかった。
「コニー」
呼ばれて顔を上げる。
アストリッドが、菓子箱を指していた。
「それ、もう一つ食べてもいい?」
「ええ。そちらは旅の間に食べる分だから」
「よかった。お父様たちへのお土産だったら、今さらどうしようかと思った」
「その箱を開けた時にも言ったわ」
「覚えてる。念のため」
アストリッドは焼き菓子を一つ取り、半分に割った。
差し出された片方を、コンスタンスが受け取る。
窓から入った光が、友人の銀灰色の髪を明るく照らしていた。座席の脇には、厚い布で包んだ大きな剣が、革帯で固定されている。
アストリッドは旅の護衛を兼ねていた。剣を扱える彼女が同行してくれることを、コンスタンスの両親も安心して受け入れていた。
出発の駅では、それを見た駅員が三人集まった。
アストリッドが武器の持ち込みに必要な手続きを済ませている間、コンスタンスは隣で、何度も自分まで頭を下げてしまったのだった。
「次の駅でも、剣の説明をするのかしら」
「たぶんね。でも、今度はこの紙を見せればいいから」
アストリッドが上着の内側を叩く。
「ほら。ちゃんと取ってある」
「よかった」
「そんなに心配しなくても、なくさないよ」
「さっき、切符を菓子箱の下から見つけたでしょう」
「あれは、なくしていないうちに見つかったの」
コンスタンスは笑いかけて、結局、何も言わずに焼き菓子を口へ運んだ。
◇
最初に変わったのは、音だった。
車輪の規則正しい響きに、幾重もの金属音が混ざり始める。
窓の下を、別の線路が潜っていった。
その先には煉瓦造りの工場があり、大きな窓の内側で、革帯に繋がれた車輪が回っていた。屋根から出た配管が隣の建物へ渡り、曲がり角の弁から白い蒸気が噴き出している。
アストリッドが窓へ身を寄せた。
「コニー、見て」
コンスタンスも顔を向ける。
列車は、いつの間にか街の上を走っていた。
高架の下を荷馬車が行き交い、煤けた煉瓦の壁には洗濯物が何列も渡されている。その向こうでは、煙突よりも高い鉄塔に、銀色の飛行船が繋がれていた。
船腹には朝日が当たり、地上に落とす影だけが、ゆっくりと動いている。
「……大きい」
コンスタンスが呟いた。
絵葉書で見たことはあった。
けれど、尖塔も時計台も小さく見せてしまうほど大きなものだとは思っていなかった。
「あそこまで上がれるのかな」
「アストリッド」
「見るだけ」
「まだ何も言っていないわ」
「言いそうだったから」
友人は楽しそうだった。
コンスタンスも、時刻表を膝へ伏せる。
通りに面した店の窓には、磨かれた真鍮の器具が並んでいた。小さな歯車を腹に収めた鳥が、同じ動きで何度も首を振っている。
「あのお店……」
「帰りに寄る?」
「少し、見てみたいわ」
「覚えておこう。角に青い屋根のあるところ」
列車が減速した。
前方に現れた駅舎は、鉄と硝子でできた大きな屋根を広げていた。
その中へ入ると、日差しが急に細かくなる。鉄骨の影が窓を横切り、白い蒸気が流れて、向こうのホームに立つ人々を隠した。
ブレーキの甲高い音。
連結器が鳴り、車体が最後に一度揺れた。
コンスタンスは時刻表を閉じた。
「二十二分」
「まずセレスだね」
アストリッドが立ち上がる。
その時、通路の向こうで、誰かが大きな声を上げた。
「運休だと?」
◇
東行きの発車時刻は、黒板の上からすべて消されていた。
代わりに白い字で記されているのは、山岳区間の橋梁事故と、復旧見込み未定の一文だった。
コンスタンスは黒板を見上げたまま、手袋を嵌めた指で切符の端を押さえた。
すぐ隣では、立派な口髭の紳士が駅員に詰め寄っている。
「昨日の電報では、何も言っていなかったぞ」
「事故の報告が入ったのは今朝でございまして」
「代わりの馬車を出せばいいだろう」
「街道も現場への資材運搬で混み合っております。手配は順次――」
押し寄せる人の肩を避け、アストリッドがコンスタンスの袖へ軽く触れた。
「少し離れよう」
「でも、次の列車が」
「今日は出ないみたい。ここにいても、コニーが潰されちゃう」
二人は柱のそばまで下がった。
その間にも、荷物を抱えた乗客が窓口へ集まっていく。床を滑る旅行鞄の車輪と、駅員を呼ぶ声が重なった。
「……お迎えに来てくださるのに」
コンスタンスが切符へ目を落とした。
「お父様、駅で待ってしまうわ」
「電報を出そう」
「そうね。まず、連絡しなくては」
やることが一つ決まると、少し息がしやすくなった。
アストリッドは案内板を見回した。
「私、セレスを受け取ってくるね。コニーは――」
言いかけて、窓口の人垣を見た。
コンスタンスが小さく頷く。
「電信室へ行ってくるわ。荷物も、それまで預かっていただけるか聞いてみる」
「大丈夫?」
「ええ。聞くだけだもの」
少し力を入れすぎた返事になった。
アストリッドはそれを笑わなかった。
「じゃあ、あの時計の下で。困ったら、荷物の受け取り口にいるから」
「分かったわ」
友人の背中を見送り、コンスタンスは鞄の持ち手を握り直した。
アストリッドは剣を背負い直すと、蒸気の向こうへ迷わず歩いていく。
自分も動かなくては。
コンスタンスは電信室の矢印を確かめ、そちらへ足を向けた。
◇
電報の文面は、思っていたより短くしなければならなかった。
事故のことを書けば、心配をかける。
ただの遅延とすれば、今日中に着くと思われるかもしれない。
無事だと書いたあとに、怪我もないと付け加え、それでは怪我を疑わせるかしらと迷って消した。
「お嬢様」
受付の女性が、三枚目の用紙をそっと差し出した。
「列車運休のため当市に滞在、本人無事、予定が決まり次第連絡。そちらで十分伝わるかと」
「……ありがとうございます」
コンスタンスは頬を染めた。
「もう少し長く書いていただいても構いませんよ。料金は増えますが」
「いえ。教えていただいた文でお願いします」
送信先を書き終えて、ようやく肩の力が抜けた。
電信室を出たところで、隣の貴賓室の扉が開いた。
黒い上着の男たちが数人、通路へ出てくる。
駅長らしい制服姿の男が、その一人へ深く頭を下げた。
「取締役、お車は正面に」
「こちらで結構。荷物の移送だけ、先に済ませてくれたまえ」
「承知いたしました」
コンスタンスは壁際へ寄り、通路を空けた。
取締役と呼ばれた男は、銀色の柄の杖を持っていた。手袋の右の親指にだけ、濃い染みがある。
一行の最後にいた若い男が、大きな書類鞄を持ち替えた。
脇へ挟んでいた革張りの筒が滑り落ちる。
「あの」
コンスタンスは咄嗟に屈み、転がってきた筒を拾った。
「こちらを」
男が振り返る。
年は、まだそれほど上ではなさそうだった。
額には汗が浮かび、襟元が僅かに歪んでいる。
差し出した筒へ手を伸ばしたところで、その指が止まった。
男はコンスタンスの顔を見た。
次いで、彼女の足元に置かれた旅行鞄を見る。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
男は筒を受け取った。
それだけの、短いやり取りだった。
けれど、一行を追って歩き出した男が、一度だけこちらを振り返ったことを、コンスタンスは覚えていた。
◇
「怒ってる」
時計の下で落ち合うなり、アストリッドが言った。
「どなたが?」
「セレス」
駅の外へ出ると、荷捌き場の柵に繋がれた栗毛の牝馬が、こちらへ首を向けた。
アストリッドが近づいて鼻先を撫でる。
「ちゃんと来たでしょう」
セレスは彼女の肩へ鼻を押しつけ、それから、持っている荷物を探るように動かした。
「今は持ってない。あとで買うから」
「林檎?」
「うん。たぶん、それで許してくれる」
コンスタンスは小さく笑った。
アストリッドがこちらを見る。
「電報、出せた?」
「ええ。受付の方に手伝っていただいたけれど」
「よかった。厩の人に聞いたら、馬を預けられる宿も近くにあるって」
「お部屋は空いているかしら」
「行ってみよう。今日は同じことを考える人が多そうだし」
二人は荷物係の押す台車について歩き出した。
鞄は宿まで運んでもらえることになった。コンスタンスの大きな旅行鞄には、預けた時と同じ、青い布の目印が結ばれている。
その口金がきちんと閉じているのを見て、彼女は安心して前を向いた。
汽笛が鳴った。
頭上の高架を、小さな機関車が貨車を引いて通り過ぎる。
通りへ出たアストリッドの髪を、煙の匂いを含んだ風が揺らした。
「コニー」
「なあに?」
「宿が決まったら、あの歯車の鳥、見に行かない?」
コンスタンスは一度、駅の時計を振り返った。
もう、乗り換えの時間を気にしなくてもいい。
「……ええ。少しだけなら」
台車の上で、旅行鞄が小さく揺れた。
その中には、コンスタンスが荷造りした時にはなかった革張りの筒が、着替えに包まれて収まっていた。




