本編 侯爵令嬢
民衆から悪魔の令嬢と罵られ、アイリーンは絶望していた。
膝から崩れ落ち、呆然とした表情で遠くを見ていた。
なぜなら、その視線の先、広場に設けられた処刑台の上では、首を落とされて死んでいる自分がいたからだ。
集まった人々が歓声を上げている。
国の祈りの要である、未来の『聖なる巫女』を毒殺しようとした侯爵令嬢の死を、喜んでいる。
(ちがう!あれは、そうしないと私が生きていけなかったから!だから彼女に毒を盛るしかないと…!)
でも、みんなが私の死を喜んでいる。
私になど、生きる価値はないと、口々に叫んでいる。
目の前で起こっていることを認識はできても、それを自分のことだと受け入れるなんて、とても、とても無理だった。
処刑台までの道のりはぼんやりと霞がかかったようで、はっきりしない。
誰かの助言に従うまま、あの子の飲み物に毒をいれ・・た?
上手くつながらない記憶に混乱しながらも、自分の首が切られた感触だけは覚えている。
指先が勝手に震え、息を吸うこともままならない恐怖が全身を襲い、強烈な吐き気が湧き上がってくる。
しかし、実際吐こうとしたところで、何も出てきはしない。
(だって私は、今・・・死んで・・・・。)
『ほらね、今の感情のまま過ごしていたら、未来はこうなっちゃうのよ。わかってくれた?』
場違いなほど穏やかで優しい声がした。
(・・・・え・・・?)
のろのろと視線を声のした方に動かせば、かがんで私を見つめている女性と目が合う。
いつからそこに?
いつの間にそこに?
いま、なんて言ったの?
動かない思考のまま、新たに混乱をもたらした存在を認識しようとして、息が詰まった。
彼女が身に纏う衣服は聖堂の天井に描かれた愛の女神のもので、眉を下げ困った顔をしていても神々しさが内から溢れている。
私の魂は、彼女がソレであることを理解していた。
間違いなく、疑いようもなく、そうなのだと魂が知っている。
「・・・め、がみ・・さま、たすけ・・わ・・たし、しに、たくない・・・!」
自分で何を言ってるんだろうって思う。
今、死んだくせに。
縋りつきたいのに、身体は鉛のように重くて動く気配はない。
だから、ガチガチと震える口を必死で動かしてそう伝えたら、女神さまは安心したように頷いて優しく微笑んだ。
『ええ、もちろんよ!だって、聖なる巫女になりたいって立候補してくれた子は、みんなみ~んな私の愛し子だもん!たとえ・・・聖なる巫女になれなくてもね。』
そう言って、私の頭をそっと撫でてくれる。
生まれてはじめて、誰かに頭を撫でてもらったのだと気付いた。
その暖かさに震えていた身体が、落ち着いてくる。
物心ついたころから貴族としての教育を厳しく受けてきた私には、与えてもらえない優しさがいま、目の前の尊い御方から与えられている。
身体を支配していた恐怖や絶望がほどけて、奥から湧き出てくる感動と安堵に視界がゆがむ。
『さあ、目を覚まして。そして忘れないで、私があなたを愛しく思っていることを。』
(・・・はいっ・・・女神・・・さま。)
感じたことのない温かな気持ちに身を任せた。
「・・・・・!」
声が聞こえる。
「・・・っかりなさい!」
意識が浮上する感覚を感じたと思ったら、パチッと目が開いた。
目の前に見えるのは、よく磨かれた聖堂の床。
頬に固くて冷たい石の感触がする。
おそらく床に横向きに倒れてしまっているのだろう。
「アイリーン候補生!大丈夫ですか!?」
私の肩を揺らし、必死な様子で声を掛けてくれているのは、聖なる巫女候補生の指導をしている、今代の聖なる巫女の補佐官の一人、キャロル様。母より少し年上の目元がきつい印象を与える女性が、珍しく取り乱した声を出していた。
どうやら私は、聖堂の女神像の前で跪き、他の候補生と共に祈りをささげている途中で意識を失ったらしい。
祈りの前に、候補生みんなで日課の掃除を終えたばかりだから、床が綺麗なのだと思い出した。
周りには、候補生たちが戸惑いながらも心配そうな表情を浮かべ待機しているようだった。
(そうよ・・・私、いつも通り朝の祈りをしようとして・・・・。)
記憶をたどった途端、首を切られた感覚を思い出す。
こみ上げる恐怖から反射的にえづけば、「アイリーンさま!」とすぐそばに誰かが駆け寄り、癒しの法術をかけてきた。
その法術は、つい先ほど味わった女神と同様の優しい温かさで、安心に包まれているようだった。自然とそちらに視線を向ける。
そこには聖なる巫女に一番近いと言われている候補生、クロエが床に膝をついていた。
平民の出でありながら、生まれ持った神力は高位の貴族に勝るとも劣らぬ強さで、次代の巫女と噂される少女だ。肩につかないくらいのふわふわとした黒髪に、琥珀のような瞳を持った愛らしい顔立ち。しかしその視線は、芯の強さを示すように真っ直ぐで揺らぎない。
彼女は心から心配そうに、まるで私の苦しみを自分の苦しみのように感じて顔をゆがめている。私に施しを与える様は、まさに『聖なる巫女』だ。
そんな様子に周りは息をのむ。
彼女は私にそんなに近寄ってはいけない。
だって、私はいつも彼女が側に来るたびに、近寄らないで!触らないで!と声を荒げ、拒絶し、無視してきた。
(でも・・・知ってる。)
私が処刑されると決まり、彼女がそれを何とか減刑させるべく刑が執行されるその瞬間まで奔走していたのを、朧げに知っている。
いつも酷いことばかり言って、自分が生きるために彼女を殺そうとまでした私なのに、彼女は言ってた。
『罪は償うものです!アイリーンさまは、正しく生きられる人です!』
どうして私をそんなにも信じられるのかわからない。
私だって自分をそんな風に信じられたことはないのに。
彼女の温かい法術のおかげで気持ちが落ち着き、恐怖が引いていく。
「クロエ・・候・・補生、・・・ありがとう、ございます」
つかえながらも伝えた礼に周りが息をのんだ。
それはそうだ。
今までの態度からはありえない言葉だと思う。
名を呼んだのも初めてならば、礼を言ったのも当然初めてで。
ただ、言ってみても、そんなに嫌な気分にはならなかった。
むしろ、気恥ずかしさと喜びに似た何かがお腹に灯る。
冷えていた指先が、少し温かくなったように感じた。
「いえ!そ、そんな!恐れ多いです!あの、ありがとうございます!」
私がゆっくり体を起こしはじめると、クロエが顔を真っ赤にしながらそんなことを言った。
(どうして、私に、お礼?)
首を傾げながらクロエを見れば、嬉しそうに緩んだ目と、滲む涙。
眉間にしわが寄っているのは、涙がこぼれてしまわないように、耐えているからだろうとわかる。だが溢れる喜びが、口元をふにゃふにゃと緩めていて、締まりがない顔というのはきっとこういう顔のことなのではないかしら、と、どうでもいいことを考えてしまった。
(あんなに、ずっとずっと冷たくしてたのに、私の言葉を喜んでくれる。)
それに驚きつつ、彼女の温かい法術を、体が回復するまでじっと受け入れていた。
倒れてしまったがために、その日の講義と奉仕が休みとなり、部屋で過ごすことになった。
候補生の居室は、神殿の敷地に立つ建物内にある。
昼間はみな奉仕作業に出ているから、とても静かだ。
まだ少し混乱している自分には有難い。
椅子に掛け、小さく息を吐く。
『ほらね、今の感情のまま過ごしていたら、未来はこうなっちゃうのよ。わかってくれた?』
頭をめぐるのは、夢で見た出来事。
ただあれは、夢だったのではと考えるには、生々しく。
しかし現実と感じるには朧気で・・・。
(女神さまからの戒告・・・と捉えるべきなのかしら。)
女神さまからのお告げは、そう頻繁ではないにしても、ないわけではない。
今までも、いろいろなお告げの体験談が神殿には寄せられているし、聖なる巫女であれば、その機会も比較的多いと聞く。
私はため息をついた。
(今の感情のまま過ごしてはいけない・・・か。)
その言葉に身を沈め、自分の今までを振り返るべく目を閉じた。
私は幼い頃から侯爵家の跡取りとして厳しく育てられてきた。
特に感情を表に出さないよう、相当の努力を強いられた。
貴族として隙を見せることは、没落を意味するからだ。
そして、領主となるべく俯瞰で物事を見る能力も、そのために必要な知識も強制的に学ばされてきた。
平民の子供のように、親に甘えることなど一度も許されることなく。
だが、支配階級の人間は皆そういうものだと私は思っていたし、両親もそうだった。
だから自分が感情的になることは、そうない。
いや、ないと思っていた、あの時までは。
2年前、私が14歳の時に、生まれたのだ。
弟が。
両親が喜ぶ姿を初めて見た。
「やっと跡取りが生まれたぞ!」
そう言って。
その言葉に足元が崩れたように感じた。
私は今までこの家の跡取りではなかったのか、と。
あんなに厳しい教育に必死でついていったというのに、私を跡取りと認識さえしてもらえてなかったのか、と。
当然、弟が生まれてからは、跡取りとしての教育は一切されなくなった。その代わり、淑女としての教育が増え、婚約者の選定が始まった。
たびたび見合いが組まれ、5歳年下から上は父親とそう変わらない男性まで、色々な貴族と会った。
同年代から下とは、共通の話題が全くなく話が弾まない。
かといって年上の男性は、跡取り教育を受けた私の受け答えに、「可愛げがないね」と肩をすくめる。
自分が生きていられる場所がどんどんなくなっていく感覚に、息が詰まって仕方がなかった。
「またダメだったか」と両親がため息をつくたび、「申し訳ありません」と私は頭を下げる日々だった。
屋敷にいることが苦痛に感じながらも何もできない日常に、その知らせはやってきた。
「アイリーン、『聖なる巫女』の候補生として、神殿に行きなさい」
父から告げられたその言葉と、差し出された神殿からの招集令状。
といってもこれは、国家がかかわる拘束力のある令状とは違う。神力をある程度持っている貴族令嬢なら、15歳になると必ず神殿からくる勧誘のようなものだ。
ただ、神力が規定に足りなければ来ないものでもあるので、来ることはある種のステータスではある。
だが、その年頃の貴族令嬢のほとんどが婚約者を持っており、淑女教育が特に忙しくなるタイミングのため、聖なる巫女を目指し候補生への道を歩むことは少ない。そもそも聖なる巫女の代替わりなど、頻繁には行われないし、たった3年間、候補生になる程度でつく箔もないからである。
貴族にとってみれば、孤児院の慰問とそんなに差はない認識なのだ。
(私は、捨てられるのね。)
跡取りでもなくなって、見合いも成立しない娘を手元に置いていく意味はないのだろう。
そして、私は候補生になった。
神殿は、息がしやすい場所だった。
跡取り教育を受けているから一般教養に困ることはなく、奉仕作業も苦ではなかった。
貴族令嬢がやることのない掃除、洗濯、炊事。そのどれも最初は慣れず失敗も多かったが、努力し手を動かせば結果がついてくることに、安心さえ感じていた。
そして、学びが進み神力を使った法術を使えるようになると、病院への奉仕活動に参加することになる。そこでは、普段は厳しいキャロル様からねぎらいの言葉をいただけることもあった。
候補生になって半年がたち、ここでの生活にもすっかり慣れたころ、ふと思った。
私、ここに居たい。
ここでは女神への奉仕しか求められず、できたことは成果として認められ、感謝をされることさえもある。跡取りでなくなった私でも、貰い手のない私でも、誰も気にしないのだ。それがまるで重要ではないことの様に。
ここに、居たい。
候補生の任期を終え屋敷に戻ったところで、両親には迷惑だろう。
跡取りはいるのだ。
私の帰る場所など、あの屋敷にはない。
聖なる巫女の候補生は、そのままその身を神殿にゆだね、女神さまと共に生きることを選び聖なる巫女の補佐官になる者もいる。
だが、貴族の令嬢の場合、それは稀有な選択肢でしかない。
特に私のようなの身分の令嬢が、平民のように労働し神殿で補佐官になるなど、常識として考えればありえないことなのだ。
貴族としてここに残るならば、侯爵家の令嬢としてここに残るのならば、聖なる巫女になるしかない。・・・が、それこそ望んだところでどうにもならないものだ。
結局ここも、私にとって期限付きの居場所でしかない。私が生きていることが許される場所など、もうどこにもないのだと再認識するだけだった。
その頃、ひとつの噂を耳にした。
今代の聖なる巫女、エステル様はご高齢ということもあり、近々その座を降りて補佐官になるのだという。理由は神力の低下となっているが、実際は女神さまから代替わりのご神託があったらしい。
そういう噂が神殿内で広まっていると、他の候補生たちが話しているのを耳にした。
候補生の中で神力が飛びぬけて高いのは、幸い自分だ。出自を思えば当然かもしれないが、次代のその席に、その居場所に、手が届くかもしれない。そんな大それたことを考えるようになってしまった。
(次代の聖なる巫女になれたら、私は生きていても、いい気がする。)
両親も私という娘がいたと、思い出してくれるかもしれない。
もしかしたら、弟が生まれたときのように、喜んでくれるかもしれない。
それは、何よりも価値があると感じた。
何を投げうっても、手に入れたいと。
そんな風に未来へ希望が見えてきたとき、彼女がやってきた。
平民のクロエだ。
彼女は私と同等、もしくはそれ以上の神力を持っていた。
一般教養や教義の出来はそう良いものではなかったが、神力を使う法術に関しては飛びぬけていた。それは、キャロル様が驚きで声を失うほどの才能だった。
ああきっと、次代の聖なる巫女は彼女に違いない。
無意識に理解してしまった自分がいた。
目の前が真っ暗になるようだった。
また、自分の居場所が無くなっていく。
私にはもう、それしか、聖なる巫女になる道しか残っていなかったのに。
どうしたら生きていけるのかわからなくなって、呆然と日々を過ごしていた。そんな時、たまたま聞いてしまったのだ。彼女が他の候補生たちと、下町でパン屋をしている両親の話を楽しそうにしているのを。
その上、候補生の期間が終わったら、そのパン屋を継ぎたいだなんて・・・。
私の体の中心に、どす黒い感情の塊が生まれたのが分かった。
頭がぐらぐらと沸騰して、手が震える。
彼女は次代の聖なる巫女という席があるというのに、帰る家も跡を継ぐ場所もあるというのだ。
私がどうしても欲しくて、でも手に入らないものを、全部持っている。
全部、ぜんぶ、ゼンブ!!!!
感情が止まらなかった。
貴族令嬢としてそれを露わにしないために、身につけた何もかもが役に立たなかった。
私は自分の居室に戻り、ベッドに蹲って声を上げて泣いた。ベッドのスプリングを何度も手で叩いていた。
初めてこんな風に泣いたと思う。
声を上げて泣いた記憶が、私にはなかった。
そこまで思い出し、机に肘をつき両手で顔を覆った。
あれは嫉妬だ。
私はクロエに嫉妬して、自分の体の中心に、どす黒い感情の塊を生み出してしまったんだ。彼女が羨ましくて仕方なくて。
でも今、ほとんどそれは消えてしまっているように感じる。そうでなければ、先ほど彼女に礼を言うなど、とても無理だっただろう。
彼女が何を持とうと、私が何を持ってなかろうと、彼女に怒りを向けるのは筋違いだと、今なら冷静に考えられる。
なぜなら、彼女は私から何も奪ってなどいない。
私が最初から、何も持っていなかっただけなのだ。
一度死んだ経験をしたおかげで、頭が冷えたのだろう。
自分のことを冷静に見つめることが出来た。
跡取り教育で繰り返し教えられたように、今の自分の状況を中心に俯瞰で考えることが出来ている。それに心地よささえ感じた。
見合いの相手からは顔をしかめられ、もう跡取りでもない私には不必要な感覚・・・と思って、頭の奥に追いやってそれをしないようにしていたけれど。
(でも・・・今更こんな風に考えたって・・・。)
答えなど、私の生きられる場所など、見つけられないかもしれない。
そう、考えを閉ざそうと思った瞬間、ふと女神さまの言葉を思い出した。
『忘れないで、私があなたを愛しく思っていることを。』
急に体が軽くなったように感じる。
そうだった、忘れてはいけない。
私自身が自分の価値を見つけられなくても、女神さまは私を愛しく思ってくれていた。処刑され、人々にその死を喜ばれるような私だったのに。
そう思えたら、お腹の奥から力が湧いてくるようだった。
(深呼吸をして、よく周りを思い出して・・・。)
コンコン。
そう大きくないノックの音に、意識が現実に戻る。「はい」と返事をし、顔を上げて椅子から立った。ここに侍女はいないから、自分でドアを開けることにも慣れている。
「アイリーン候補生、面会の方がいらっしゃっています」
そう呼びに来てくれたのは、神殿で表向きの対応を任されている補佐官の女性。そういえば、この方も高位ではないが貴族出身の令嬢だったはずだ。年を重ねても美しい所作が、それを裏付けている。
神殿には貴族が訪れることも多い。対応はマナーを知る貴族出身者が望ましいことも理解できる。
ハッとした。私でも、それならばここに居られるではないかと。
マナーならば叩き込まれている。それに、跡取り教育で国内外の王侯貴族には詳しいつもりだ。それならば、自分でも役に立てるのではないだろうか、と。
そんなことを考えながら、静かに補佐官の後についていく。
面会に来る人物は一人だけ心当たりがあった。
もちろん両親ではない。
あまり、会うのは得意ではないが、彼が来なければ私に面会したいと訪れる人はいないのだ。だから、拒絶できずに受け入れてきた。今までは。
「アイリーン!かわいそうに、元気だったかい?」
応接室のソファーでくつろぎながら、大げさに手を広げて見せたのは、父方の叔父だ。
淑女の礼をして叔父の向かいのソファーの横に立つ。
すると、座るように言われて「失礼します」と言葉を出してから、浅くそこに腰かけた。
「聞いてくれよ、アイリーン。全く兄上は何もわかっていないんだよ!やはりアイリーンが跡を継がなければ、侯爵家は先がない!」
叔父は父に対する不満を、私が小さい頃からずっと言って聞かせてきた。父を責められることに苦痛を感じながらも、感情的になることはダメなことだと教えられてきたので、ただただ堪え続けた。そうしているうちに、叔父は父への不満が溜まるたび、私にぶつけに来るようになったのだ。
先ほどまで考え事をしていたせいか、頭がぼんやりとしてくる。叔父は、父に不満ばかりだなといつものように聞き流そうとして、ふと気づいた。
叔父の体の中心に、どす黒い感情の塊がうっすら見えたのだ。
思わず息をのむ。
私と同じだ。
いや、私が先ほどまで抱えていたものと同じだ。
手が震えそうになって、慌ててぎゅっと握る。そんな私の様子には気づかず、叔父がふと思い出したように言った。
「そうだ、アイリーンを苦しめる、平民の候補生がいるそうじゃないか」
ハッと顔を上げたら、叔父がそれはそれは優しく微笑んで、上着の内ポケットから小さな瓶を取り出す。
コトリ。
目の前のテーブルに透明の液体が入った小さな瓶が置かれている。
その小さな瓶は、特別な装飾が施されているわけでもない、よく見かけるものだ。
貴族の持ち物というより、平民が持っている小さな香水瓶に近い。
ソレから目をそらすことが出来ない。
私の反応を見てどう思ったのか、叔父は嬉しそうな声を出す。
「これをあげよう。よく効く眠り薬だ。一度寝たら、二度と目を開けることはないかもしれないがな」
全身が泡立つようだった。
「オレは使えなかったが、アイリーンならまだ間に合うだろう?」
誰に使うつもりだったかなんて、聞かなくてもわかってる。
だって叔父は、自分がこの侯爵家の当主であればよかったのだと何度も繰り返し、幼い私に伝えてきたのだから。
声がのどに張り付いて出てこない。
(毒は、こうして、手に入ってしまったのね。)
そしてきっと、私はクロエが次代の『聖なる巫女』に選出された後の配膳係の時、クロエの飲み物に入れたんだわ。食事をする時、候補生の座る席は決められているから。
(でも、たまたま隣の子が手をぶつけて零してしまって。)
朧げな記憶の中で、その零れたものがその子の手にかかった途端、ジュっと嫌な音がした。かかったのは少量だったにもかかわらず随分大きく聞こえたのは、私が耳を澄ませていたせいかもしれない。
側にいたクロエがそれに気づいて、慌てて癒しの法術を使ったから大事には至らなかったけど、その毒を調べたら、外国から密輸された違法な薬物で・・・。
配膳係が疑われるなど、当たり前だったのにそんなことにも気づかないくらい私は・・・・。
「じゃあな!アイリーン。・・・・お前の望むようにな」
その言葉に小さく息をのむ。クロエに筋違いの嫉妬で追い詰められていた自分だったら、この言葉に背中を押されてしまっただろう。踏み出してはいけない一歩へ。
話を終えソファーから腰を上げる叔父に、私は小さな瓶はそのままに、急ぎ立ち上がり部屋のドアを開けに行く。貴族の叔父は自分でドアを開けたりはしないからだ。侍女のようなことを私にさせて、どこか満足そうに頷く。お前が侯爵家の跡取りだと私に言っておきながら、自分より下であることを確かめて安心しているような表情だ。その叔父のゆがみに、胸が痛く感じた。
部屋の外には叔父の執事が待っており、私に軽く礼をすると叔父の後についていく。私はその背が見えなくなったところで、先ほど呼びに来てくれた補佐官がいる隣りの事務室に急いだ。
「すみません。助けてください!」
少し取り乱した私の様子に、先ほどの補佐官が微かに目を見開き、素早くこちらに来てくれた。
応接室はこの隣にある事務室からも室内が見えるように、壁に小さな窓がつけられている。年頃の候補生を抱えるここでは、万が一のことが起こらないように、面会ではそういった配慮がされている。親族とはいえ、男女が密室にというのは外聞がよろしくないのだ。とはいえ、大声を出さないと音までは伝わらないけれど。
先ほどのやり取りを見ていたであろう補佐官は、私が叔父から何もされていないことを見ていて知っているからこそ、何があったのかと驚いているのだろう。
私は震える手を必死で握りしめ、補佐官に伝えた。
「助けてください。私、叔父に・・・毒を、毒を渡されて・・・」
声が震える。私はいま、叔父を裏切っているからだ。きっとこれで叔父は捕まる。所持していただけなら死罪にはならないだろう。その上、使わず私に譲ったのだから。
私だって、もう、あの毒を使いたいとは思わない。
それでも、あの毒の瓶には、どうしても触れたくなかった。
あれこそが、私の死を確定づけるものなのだから。
その後、神殿に配属されている国の騎士隊が駆け付けた。
私に事情聴取をした騎士の方々には、叔父の罪が軽くなるよう、私が叔父の意図を勘違いしているかのように説明した。せめて殺人を唆した罪だけでも、無くしたかったのだ。父を悪く言うところは苦手だったが、両親よりも気さくに私に話しかけてくれる、唯一の肉親だったから。
私はしっかりと顔を上げ、騎士の方の目を真っ直ぐ見て話す。叔父が以前から侯爵家の当主になりたかったがなれなくて、長く苦しさを抱えていたこと、そして・・・。
「叔父は、私が候補生でありながら、決して『聖なる巫女』にはなれないことを、深く思い悩んでいる、と察してくれたのだと思います。いつも、私を『かわいそうに』と慮ってくださいました」
嘘は言っていない。私は『聖なる巫女』になれないと思い、希望を失って生きていたし、叔父は何故か私とクロエの確執を知っていた。そして叔父は、私に会えば必ず『アイリーン!かわいそうに』と言っていたのだから。
「だからきっと、私が苦しまず命を絶てるように、渡してくださったのだと思います。そして、きっと叔父も、自分の苦しさから命を絶つことを考え続けて、所有していたのだと思います。でも使えなかったと・・・」
だって、叔父は誰に使うつもりかは明言しなかった。だから私がそう予想を立てても、誰も否定できないはずだ。
あとは、叔父次第だと思う。
叔父から渡された毒で、誰も被害に遭っていない。それこそが今は大事なことだと感じた。
「ただ・・・毒が目の前にあると思うと、とても恐ろしくなって・・・。私は事務室にいる補佐官に助けを求めました」
毒は、本当に怖かった。あれは私に死を連れてくると感じたからだ。首を切られた感触がよみがえり震えてしまう手をぎゅっと握る。事情を聴きに来た騎士隊の方々が帰るのを見送っていると、その中で見習いと思われる同年代の男の子が、私のところに戻ってきた。
何だろうと目を瞬かせると、その彼は私の握りしめている両手をそっと持ち上げた。
「怖い思いをしたな。もう大丈夫だぞ。大丈夫だ」
私の手をそっと揺らしながら、優しく笑って言葉を掛けてくれる。驚きつつ小さく頷けば、「よし」と言ってポケットから出した飴玉を私の手に握らせると、私がお礼を告げる間もなく立ち去ってしまった。
こんな風に人に励ましてもらったのも、隠している苦しい気持ちに気づいてもらえたのも初めてで、その飴玉は私の宝物になった。
それから、数か月たった頃、風の噂で叔父が罰金刑になり、伯爵から子爵へ爵位を落とされたと聞いた。
よく晴れた日。朝の聖堂の掃除をしているときに気づいた。今日は珍しく、神殿の窓越しに遠くの山並みまで、霞むことなく見えている。滅多にないその景色に、ハッと記憶がよみがえる。今日は聖なる巫女が候補生たちに、次代の聖なる巫女を指名しに来る日、だったはずだ。
(そう、今日なのね。)
久しく感じていなかった不安を伴う緊張に、一瞬だけ体が固くなったけれど、息を吐いてやり過ごす。
大丈夫、もう怖くない。
私は何も持っていないと思っていたけれど、ちゃんと身につけていたものがあった。候補生を終えた後、貴族の教養を糧に補佐官の道に進みたいと思う。高位の貴族令嬢が補佐官など、という人もいるとは思うけれど、両親はきっと、気にもしないだろう。屋敷に帰らないという選択は、むしろ歓迎されると思うのだ。少し、寂しいけれど。
気づけば体の中心にあったはずの、どす黒い感情の塊が跡形もなく消えていた。もう、クロエに対して嫉妬することも怒りを覚えることもない。そんな自分に心地よさを感じていた。
しんと静まり返る聖堂。
候補生たちが整列している前、女神像のそばに聖なる巫女エステル様が凛と佇んでいる。ご高齢での引退と聞いたけれど、年齢を言い訳にしてもまだ早いと思わずにいられないほどの大きな神力を感じた。
エステル様が候補生一人一人に視線を合わせていく。まさか自分にも目を合わせてもらえると思わず、ふわふわと落ち着かない気持ちになった。前回もこうだったろうか。そこは朧気で思い出せない。
キャロル様がエステル様の視線を辿り、おそらくすべての候補生を見渡せたであろうタイミングで、告げる。
「それでは、聖なる巫女から皆さんに、お話があります」
ピンと空間に緊張が走ったのが分かった。私は2回目なので、そんな様子に微笑ましささえ感じてしまう。そして、これから指名されるクロエをそっと見たら、クロエも私を見ていて目が合った。その途端、ふにゃふにゃ~と口元が緩んでる笑顔を向けられる。慌てて目をそらし、俯いた。
(えっと・・・なぜかしら?)
そう、クロエがおかしい。あの、初めてお礼を言ったときから、とても、その、私に懐いている気がするのだ。散々拒絶してきたはずなのに、何というか慕われているような気がする。いえ、そんなはず、ないと思うのだけど。
そんな風に別のことで動揺していたら、エステル様が軽く頷いて息を吸った。
「次代の『聖なる巫女』を指名いたします」
(さあ、いよいよクロエが呼ばれるわよ。)
少し胸が痛く感じたのを無視して、ぐっと顔を上げれば聖なる巫女と目が合った。
「・・・・アイリーン候補生、あなたを」
エステル様が厳かな声でそう言った。
私を真っ直ぐ見て。
「・・・・・・え?」
骨身に染みついていると信じ込んでいた貴族の所作が消え、幼い子供のような声が自分の口から出た。
エステル様がこちらに近づいてくる。周りにいる候補生たちがそっと避けて、私はその場から動けなかった。
(今、何を、言われたの?)
理解できなかった。
何を告げられたのか、全く理解できなかった。
だってクロエが指名されると私は知っていたし、一度それを見ている。
体が硬直して動けなくなっている私を、エステル様が微笑みとともに手を伸ばし、そっと抱きしめてくれた。優しいぬくもりに包まれて、もしかしたらこれは、現実なのか、と頭が勝手に錯覚してしまう。
動くことも、声を出すこともできない私の耳に、エステル様は小さな声でそっと呟いた。
「よく試練を乗り越えました。女神から与えられた死は、つらかったでしょう」
その言葉に息をのむ。
(どうして、それを・・・?)
驚きと戸惑いで何も反応できない私に、エステル様は「よく頑張りました。本当に、よく頑張りましたね」と私の頭を優しく撫でてくれた。
温かい言葉とぬくもりが、これを現実だと教えてくれる。
私が、次代の、聖なる巫女に、指名された?
(ゆめ・・じゃ、ない?)
わたしが、つぎの、せいなるみこに・・・。
目が熱くなる。鼻の奥がツンと痛くなり、視界がゆがんだ。喉が震えて声が出ない。立っていることもままならず、エステル様にそっと縋りつけば、見た目からは想像できないほど力強く抱きしめられた。
エステル様の腕の中で、私はぼろぼろと涙を零したまま、しばらく動くことが出来なかった。
それからは聖なる巫女の引継ぎのため、目が回るような忙しさとなった。候補生は雑用しかしていなかったのだなと、改めて再認識するほど覚えることが多かったのだ。
そして、次代の聖なる巫女に指名されてしばらくたった頃、父から手紙が届いた。今まで何も連絡がなかったのに、私が聖なる巫女になるからこちらを見てくれたのだろうか、と小さくため息をつく。口の中にうっすらと苦みを感じながら封を開けてみたら、書かれている内容にとても驚くことになった。
そこには跡取り教育の影響で感情が無くなった私を、ずっと心配していた旨が記されていた。弟が生まれたことで、跡取り教育から解放されればきっと感情が戻ると期待していたが、そうはならなかったこと。では見合いをと、良い相手を探しても、私を笑顔にできる者はおらず。
自分たちでは娘に感情を取り戻させることはできないのでは、と思い悩んでいたところ、候補生の招集令状が来て、藁にも縋るつもりで送り出したのだと書かれていた。
そして、聖なる巫女に指名されたことへの祝いとともに、つらいことがあればいつでも屋敷に帰ってくるように、ずっと待っているからとも書かれていたのだ。
ところどころに、滲んで少しこすった跡があった。心なしか、紙がたわんでいる。まるで水滴がいくつも落ちたような跡だ。それに震える指で触れてみる。
温かい、父の涙を感じた気がして、しばらく涙が止まらなかった。
私は候補生になって、初めて家族に手紙を書いた。書きたいことがたくさんあって、随分厚い手紙になったけれど、勇気を出して事務室にいる補佐官に、侯爵家の屋敷へ届けて欲しいとお願いした。
今日も聖なる巫女の執務室で、慣れない書類作業に奮闘している。エステル様が私の書いた書類に目を通し、改善点を教えてくれるのだ。それが最近の日常だ。このところ、直しが入らない書類も増えてきたように思う。それがとても嬉しい。
「そういえば、まだアイリーンには伝えていませんでしたね」
何かを思い出したようにそう言ったエステル様に顔を向ければ、穏やかに微笑んで話してくれた。
聖なる巫女に選ばれる者は、一度絶望し死を迎える未来を女神から与えられるのだそうだ。聖なる巫女になった者たちの間では『女神の試練』と呼ばれているそう。過去には、その試練を乗り越えることが出来ず、神殿を去った候補生もいたらしい。
(私にはあの頃、帰るところがなかったものね。)
私は試練を乗り越えたというより、他に行くところがなかっただけなのだと告げると、「それでいいのですよ」と返事がきた。
「アイリーン。今、死んだときのことを思い出せますか?」
その言葉に頷こうとして愕然とした。
女神からの言葉や頭を撫でてもらった感触は思い出せるのに、首を切られた感覚が全く思い出せなくなっているのだ。あんなに何度も反芻し、恐怖したというのに。
怖い夢を見たはずだけど思い出せない状態、にも似ていたが、より正確に言うのならば、そんな目に遭ったことがないのでわからない、だった。
「女神さまは、私達を導きはしても、苦しめたくはないのですよ。試練が終わればすぐに、その重荷を取り除いてくださいます」
エステル様が少女のように柔らかく微笑んだ。
「女神さまは、私達を愛してくれているから、ね」
その言葉に私も頬が緩み、「はい」と大きく頷けば、エステル様が穏やかな笑い声をもらす。それにつられて、私もそっと音を立てて笑っていた。
二つの笑い声が、部屋に優しく広がって、いつまでもこれを感じていたいと願うほど心地よかった。
とある王国の、聖なる巫女が代替わりをした。
そのお披露目は、聖なる巫女の生家が侯爵家であったこともあり、大層華やかなもので、侯爵家がご令嬢をどれほど大切に思っているかが伝わるものであった。
そして、国内外の王侯貴族から神殿に多くの祝いの品が届いたという。
新しく聖なる巫女となったアイリーンは、美しく滑らかな銀髪を腰まで流し、精巧にできた人形のような面立ちをしているが、時折みせる頬を緩め目じりを下げる笑みがとても愛らしく、民衆からは天使の令嬢だ、と口々に賞賛されたのだった。




