文化水準が高い街は静かで控えめになる
引っ越しは、思っていたより簡単に行われた。
人が生活基盤を動かすのだから、もう少し厳かに行われても良いのではという気もしたが、まあ業者にしてみたら単なる平日昼下がりに行われる案件の一つなんだろう。
何一つ個人的なやり取りが成されないまま事は進み、最後だけ簡単にサインをして終わった。
そのようにして僕は六本木から御茶ノ水に移り住むことになった。
誰もいないがらんどうの部屋に僕は一人佇んでいた。
上の階にはベッドがあるけれど、今いるリビングには何一つモノがなかった。
そこには本来ならば存在するはずのソファーやテレビはおろか、照明器具ですら取り付けていなかった。
まるでこの空間だけ世界から忘れ去られた様に。
何もない空間に一人でいると、世間自体から消え去っていく気がしてくる。
もともと社会に属していないようなものなので、もし仮に僕がこのまま空間に溶け込んでしまったとしても、おそらく困る人はいないだろう。
親族の一部と、願わくばメテムが嘆いてくれるのを祈るのみだ。
がらんどうの部屋には当然がらんどうの壁がある。
おそらくそこには時計が掛けられるのだろう。
僕はスマートフォンとコンピューターでしか時刻を確認することはないが、それでは収まりが悪いので何かしら購入しても良いと思った。
気の利いた絵画でも飾ろうかとも思ったが、それは本来の使われ方からズレるのではと思いとどまった。
せっかく手に入れた新居だ。
壁には壁の役割をこなしてもらおう。
一頻り頭の中で時計を考えた後、僕は二階においてある(唯一の家具でもある)ベッドへと向かった。
スマートフォンのヴァイブレーションが響いた時、僕は若干うつらうつらとしていた。
どうやらいつの間にか眠っていたのかも知れない。
睡眠というのは本当に静かにやってくる。
視点の定まらない中、スマートフォンの通話をオンにした。
誰だか分からないが、まあ電話回線越しに襲われることはないだろう。
「起きてるか?」
スマートフォンの先からは、果たして明るくそして安心する声が聞こえてきた。
「んー、正直少し寝てたよ」
「たっはー、やっぱりな。こっちが仕事してるっていうのに、お前はまた寝てたのか」
「メテム、今って何時なの?」
「今はもう夜の七時だよ、王子様」
「え、そんな時間?」
慌てて窓から外を見渡すと、確かに全体的に暗いトーンが見える。
街の明かりらしく地上は輝きがあったが、間違いなく夜だ。
「今って新居?」
僕の視界に割って入るようにメテムの声が続いた。
「うん、ベッドでゆっくりしてたとこ」
「そりゃ声を聞きゃ分かるよ」
メテムが冷たく言い放つ。
「今から行くよ」
「そう?」
「うん」
「迎えに行かなくて大丈夫?」
「大丈夫、もう覚えたから。じゃ20分後ぐらいに着くから」
それだけ言うとメテムは僕の返事を待たずに通話を切った。
いつもながらの唐突の切り方は、その電話回線の先のメテムのぶっきらぼうな性格を表しているようだった。
メテムはそれからきっちり40分経った後やってきた。
一人で来れるかどうか心配だったけれど、どうやらそれは杞憂だったようだ。
「お、少しずつ家具が入ってるじゃないか」
二階に上がるなりメテムはそう言った。
「まあ、最低限の暮らしはできるようにはなってるよ」
「最低限の、な。どれどれ、ガラス張りのトイレは、と」
メテムがトイレのあるバスルームへと移動する。
「たっはー、相変わらずこっちはあれだな。何一つ筒抜けだなあ」
確かに全面ガラス張りのトイレは何一つ隠せるものがなかった。
バスルームから脱衣所、そしてベランダへと続く通路まで丸見えだ。
「まあさ、誰かがお風呂入ってる時は、下のトイレを使えばいいよ」
そうやって僕はメテムを諭した。
「ユウキ、とりあえずさ、何か食べよう」
メテムが可愛くお腹をさすりながら言った。
「そうだね、蕎麦でも食べる?」
「蕎麦?」
素っ頓狂な声をあげる。
「いやほら、引っ越しの時は蕎麦を食べるっていうのが日本の文化だからさ」
「なんで引っ越しの時に蕎麦なんだ?」
「それはちょっと分からないけど……」
言葉を濁す僕。
「そんなものはどうでもいいからさ、何か甘いものでも食べよう」
風情も何も感じることが出来ない提案に苦笑しつつ、僕たちは外へと向かった。
御茶ノ水橋を越えて楽器店街のある坂を下ると、そこには学生御用達のカフェやらレストランが沢山ある。
更にその先は神田・神保町なので、カレーをはじめとするB級グルメ好きにはもってこいだ。
そんな賑わいを見せる坂を下りると、程なくしてカフェが一つ見つかった。
窓際にテラスもあるし、ゆっくり過ごすにはちょうどよい。
僕たちは中に入り、店員にテラスを使う旨を伝えて席についた。
手渡されたメニューを食い入るようにメテムは眺めたが、その勢いとは逆に、割とあっけなくオーダーが決まったよう。
程なくして注文を取りに来た店員に僕はアメリカンコーヒーを頼み、メテムはブレンドコーヒーとパンケーキと伝えた。
「メテムはさ、いつ来る?」
「んー、準備が色々あるからなあ。早くても来週かな」
僕がそう尋ねると、水の入ったコップをユラユラと揺らしながらメテムは答えた。
「そう、楽しみにしてるよ」
僕の精一杯の好意を込めた返答を聞いているのかいないのか、メテムは「ん」と喉を鳴らしただけだった。
「でもあそこでの新生活は楽しみだなあ。部屋は広くて綺麗だし、眺めも良いからねえ。しかも学生街だからB級グルメも沢山あるし」
「まあここいら辺雑多だよな。六本木とは違って健全な雑多さだけど」
「うんうん、ここいら辺はね。僕の住所は文京区湯島になるから文化水準の高い静かな場所だよ」
「ほー、文化水準ねえ。誰かさんには不釣り合いの場所だな」
そう言うとメテムは自分で面白かったのか、プッと軽い鼻息を出した。
「まあ楽しみだよ。何より君と暮らせるってのが一番だよ」
「思い出したように付け加えてくれてありがとう」
「いやいや、本当に。君とさ、色んな街を歩いて、沢山のものを食べよう」
「夏になったら涼しい所がいいなあ」
「この近くには大学が沢山あるよ。二人で紛れ込んでも楽しいかも」
「ああ、それは興味あるな。日本の大学とは果たして」
「それに図書館も沢山あるよ」
「文化水準高いからな」
「そうそう」
メテムはそれから「文化水準、文化水準」とうわ言のように繰り返した。
「甘いものは何かある?」
「んー、僕もまだ詳しくは見てないけど、何かしらあるんじゃない?学生だから若い食べもの多そうだけど」
「若い食べ物?」
「クリームが沢山のったクレープや、デコレートされたパフェとか?」
「なんだいそのデコレートされたパフェってのは」
メテムは想像だにできなかったのか、空を眺めて難しい顔をした。
そうこうするうちに僕らの手元にはアメリカンコーヒーとブレンドコーヒーが運ばれ、さらにしばらくするとパンケーキがそこに加わった。
「シンプルだね」
メテムのパンケーキを見つめながら僕は言った。
視線の先にあるパンケーキは、中央にバターが添えられ、蜂蜜が別添えの小さな容器に収まり、申し訳無さ程度にホイップクリームがあった。
「まあ、今日はこれぐらいでいいさ」
そう言うとメテムは器用にパンケーキを一口分だけ切り分け口に入れた。
おそらく満足のいく味だったんだろう。
分かりやすいぐらい笑みを浮かべる。
僕はその顔をじっと見つめていたのだけれど、メテムはその視点に気づき、別の勘違いをしたようだ。
「おい、一口もあげないからな。お前が砂漠で餓死直前だろうとわけてやるもんか」
そう言うとパンケーキのお皿を腕で隠すように覆った。
その仕草に僕は思わず笑みが浮かべる。
メテムはソレを「ふん」と小さな鼻を鳴らしながら返した。
「まあ、良い場所で良かったよ」
カフェを出て御茶ノ水駅に向かう途中、メテムが言った。
「うん、夜景も綺麗だったからね。楽しみにしててよ」
「ほう、夜景ね。都会の夜を一望、か」
そう言うとメテムは透き通るような口笛を吹いた。
音が夜を伝わり、遠くまで響く。
僕はその音色を聞きながら、ふとメテムがこのまま消えてしまうんじゃないかという錯覚に陥った。
慌ててメテムの手を後ろから握りしめる。
振り払う素振りを見せず、僕らはその様子で坂を上がった。




