Custodia Admina
――機関者とは。
すなわち、かつての機関車に代わり、今なお列車や貨物を牽引し、その運行を支える存在である。
だが、彼らは単なる機械ではない。
人間に似た姿を持ちながらも、内蔵された複雑な機械部品と人工臓器によって、通常の人間には到底及ばない速度での走行や牽引力、そして精密な動作を可能にしている。
「出発、進行。発車」
ホイッスルの鋭い響きが夜空を切り裂く。
闇夜の中で、急行 星明四号が静かなマツガミ駅を力強く発車した。
満月が機関者を照らし、機関者の背部ユニットから伸びたパンタグラフが、星明かりを反射しながら静かに光を放つ。
この時間、駅周辺には誰の姿もなく、漂うのは春先の冷たい空気と凍てつく風だけだ。
腰部に装着された連結器だけが、音色を響かせ静寂を破る。
その音が、夜の静寂をわずかに乱し、再び広がる無音の世界に溶け込む。
機関者とは、風だ。
重い何両もの客車をその小さな身体で牽きながら、夜闇の彼方へと溶けていく。
「CA機関隊、整列!」
夜半、雪の積もるプラットホーム。
雪と泥、そして油が混じる大地の上に、鋼鉄の戦士たちは直立不動で並んでいた。
総勢二十名の隊員が、緊張した面持ちで整列している。
彼らの眼差しの先には、すでにホームを離れ、夜闇の彼方へと消えつつある急行 星明四号 の灯り。
寒気を切り裂くように響いた気笛の余韻が、まだ静寂の空気に漂っていた。
「……夜間演習、お疲れ」
照明灯の下に並ぶその姿は、フウカゲツ鉄道でも過酷な現場を生きる者たちの誇りだった。
シグルはその列の最後尾に立っていた。
彼の背後で、夜風が冷たく吹き抜ける。
「各員、遅くまでの任務、ご苦労だった」
その最前線で指揮を取るのが、このCA機関隊隊長、シゲアキ。
刻み込まれた皺と、白髪、歴戦を思わせる鋭い眼差し。そして、何より目立つのは、頬に刻まれた大きな古傷の跡。
名実ともに、CA機関隊を率いる男だ。
その姿を間近に感じられる、この濃密な空気感こそが、隊員達にとっての誇りだった。
そして、そのシゲアキの隣で、眉一つ動かさずに立っているのが、副隊長のヒデノリだ。
「本日参加した警四部隊および派遣隊の諸君、これをもって夜間演習を終了する。お疲れだった」
ヒデノリの声が冷えたプラットホームに響く。
「各隊、これより車両点検に向かい、異常がなければ本日の任務を解く。問題があれば即時報告。解散」
隊員たちが一斉に敬礼し、足音を揃えて動き出す。
人間と機関者が入り混じるその光景は、CA機関隊ならではのものだった。
CA機関隊――現場では“ロコモティ部”と呼ばれる彼らは、時に「機関者の子守り隊」と揶揄される。
だが、機関者なくして鉄道の安全は成り立たない。
シグルは整列が崩れるのを見届けると、無言のままプラットホームに残った。
ふと夜空を見上げる。冷たい風が、煤けたコートの裾を揺らした。
「HLC64-1030……シグル」
不意に形式名で呼ばれた。歩み寄ってきたのはヒデノリだった。
照明灯の光を背負い、その鋭い眼差しがシグルを真っ直ぐに捉えている。
暗がりの中で、目が合った瞬間、冷気が一層深まるような感覚がシグルを包んだ。
「新人隊員の様子はどう――」
「――問題ない」
シグルが即答する。しかし、その一言に込めた意味は、ヒデノリには見抜かれている。
ヒデノリは一瞬、口元をわずかに強張らせた。
無言のまま、数秒間の間を置く。
その間に、周囲の空気が張り詰め、思わず息を呑むような緊張感が漂う。
ロコモティ部の任務は鉄道の安全と秩序を守ること。それは全員が理解している。
だが、ヒデノリが本当に恐れているのは別の問題だった。
それは――機関者を導くこと。
機関者は人間ではない。
だが、感情を持ち、思考し、行動する。
その危うさを、ヒデノリは誰より理解していた。
「アイツらは、前の奴らと違って気骨がある。たかが人間二人くらい、俺が指導する」
ヒデノリが言葉を選ぶように、静かに口を開いた。
「貴様は指導される側であろう」
その声に、シグルは反応を示さなかった。
ただ、ひときわ冷たい眼差しをヒデノリへ向ける。
視線がぶつかる。
だが、シグルは微動だにしない。
「俺が何か仕出かすとでも? ご心配痛み入る」
低く冷えた声だった。
口元には、皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
「……安心しろ」
そう言い残し、シグルは背を向けた。
「――おい、貴様。待たんか」
ヒデノリの声が飛ぶ。
抑えた口調の奥に、怒気が滲んでいた。
しかしシグルは振り向かない。
背中越しにその声を受け流すように、歩みを進める。
足音が、静まり返ったプラットホームに響く。
シグルはふと足を止めた。
振り向いた先には、凍てつく夜の闇。
その向こうで、駅の照明が鋭く白く光っている。
シグルは何も言わず、その光を睨みつけた。
やがて再び歩き出す。
その背中を、ヒデノリは動かずに見送っていた。
闇に溶け込むように、シグルの気配はゆっくりと遠ざかっていく。
2
氷点下の風が、顔を突き刺すように吹き抜けていく。
その冷たさが皮膚の奥にまで染み込み、鈍い痛みを残した。
シグルはゆっくり息を吐く。
白い蒸気が、闇の中へと揺らめきながら溶けていった。
ふと空を仰ぐ。
無数の星が瞬いている。
冬の夜空は澄みきっていた。
遠く、どこか別の世界が広がっているかのように、冷たく静かで、手を伸ばしても届かない。
「……クソが」
そんな光景すら、今のシグルには煩わしかった。
星は何万年も昔から変わらずそこにある。
だが、自分の立ち位置は常に変わり続ける。
何をしようと、どこへ行こうと、結局はこの鉄と油の匂いのする世界からは逃れられない。
ロコモティ部の訓練の後、シグルは機関庫へは戻らなかった。
本来なら訓練後、指導役の人間とともに検修庫へ向かい、検査を受ける決まりになっている。
だがシグルは、そうした決まり事に執着しない。
勝手に姿を晦ますことも珍しくなかった。
それでも今夜だけは、自然と足が検修庫へ向いていた。
「……誰だったか」
――昔は、こんな静かな夜に、側にいてくれる誰かがいた気がする。
それは記憶の断片。
霞がかかったように輪郭が曖昧で、どうしても思い出せない。
今日は、少しだけ疲れていた。
機械仕掛けのこの身体でも、心の疲れだけはどうにもならないらしい。
シグルはその重さを振り払うように、闇を踏みしめて歩く。
やがて前方に、ぼんやりと灯りが見えてきた。
検修庫の明かり。
その手前に、小さな人影が一つ立っている。
見間違えるはずもない。
あの姿勢、あの雰囲気。
ロコモティ部の新人隊員――アカリだ。
彼女は検修庫を背に、仁王立ちしていた。
手に掲げたランタンの灯りが風に揺れるたび、横顔が淡く浮かび上がる。
その表情は、遠目にも分かるほど怒りに満ちていた。
「……面倒くさい」
だが、今さら引き返すのも億劫だ。
シグルは何事もないように、そのまま歩みを進める。
その瞬間、彼女の視線がこちらを捉えた。
「ちょっと、シグル!」
夜の静寂を破る声が響いた。
「どこ行ってたの? 訓練後は検査を受ける決まりでしょ。それなのに、急にいなくなって……」
一瞬、言葉を詰まらせる。
「……ほんとに、心配したんだからね」
足を止めるつもりはなかった。
だが、その声に引き留められるように、シグルの歩みは自然と緩む。
冷えた空気の中に、かすかに雪の匂いが混じっていた。
「……そうだな」
気のない返事。その瞬間、アカリの眉が跳ね上がる。
「“そうだな”じゃないでしょ!?」
彼女は一歩踏み込んだ。
ランタンの灯りが揺れ、怒りに染まった表情が浮かび上がる。
「前にも言ったよね? 自分の立場、ちゃんと弁えて行動しないとダメだって」
シグルは何も答えない。それが、余計に彼女の言葉を早めた。
「この前だって、警四部隊に絡んできた酔っ払いを取り押さえてたけど……。もし失敗してたら、どうするつもりだったの?」
その瞳が、真っ直ぐにシグルを射抜く。
「機関者や貨車の事故は、私たちの責任になる。列車が止まるだけじゃ済まない。脱線や転覆だって起こり得る」
ランタンを握る手に力がこもる。
「……大勢の人命が、かかってるんだから」
いつもの冷静な口調。
だが、その奥にわずかな焦りが混じっているのが分かった。
そんなに、心配だったのか。
ふと、胸の奥で何かが揺れた。
アカリはさらに言葉を重ねた。
それは正論だった。シグルの行動を責める言葉でもある。
だが、その奥に別の感情が滲んでいる気がした。
「――ちょっと、聞いてるの?」
強い口調のわりに、声はわずかに掠れていた。
「聞いている」
シグルはそう答える。
だが、その態度はどこまでも淡々としている。
それでも、彼女の言葉が妙に耳に残るのを感じていた。
確かにアカリの言うことは正しい。
検査は事故を防ぎ、運行を守るための義務だ。
そして、それを機関者に徹底させるのが彼女の役目。
だからこうして、夜中までシグルを探していたのだろう。
「なら、さっさと検査に行って。セイジも待ってるんだから」
アカリは手を組み直す。
冷えた指先をぎゅっと握りしめていた。
苛立ちを押し殺した声。
これ以上、無駄な時間をかけるつもりはないらしい。
シグルはそんな彼女を一瞥した。
白い吐息が、ゆっくり闇へ溶けていく。
「お前も大変だな」
ぽつりと漏らした言葉に、アカリは眉をひそめた。
「……え、何?」
「俺みたいな機関者を担当することになってさ」
冗談のつもりだった。
だが口にした瞬間、その響きにわずかな自嘲が混じっているのに気づく。
少しだけ、苦い。
アカリはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……ほんとよ。もう少し聞き分けのいい機関者なら、こんな苦労しなくて済むのに」
だが、その声から怒りはほとんど消えていた。
代わりに、呆れたような響きが混じる。
「でもまあ、それも私の仕事だからね」
肩をすくめる。
「ちゃんと最後まで面倒見るわよ。“死神”さん」
皮肉めいた呼び名。
だが、その語尾はほんのわずかに緩んでいた。
シグルはそれを聞き流しながら、夜空を仰ぐ。
星は相変わらず、冷たい光を瞬かせていた。
「……面倒な役回りだな、お前も」
「お互い様でしょ。さ、行こ」
アカリはランタンを掲げる。
揺れる灯りが、闇の中に細い道を作った。
彼女の影がシグルの横を通り過ぎ、検修庫へ向かう。
少し遅れて、シグルも歩き出した。
その背を追うように。




