第10話 学術的にも、それ以外も
古代魔法文字が淡い光を放ち、八百年の眠りから、大地が目覚めた。
エルデの祭壇。第二の魔法陣の前に、私は跪いていた。
古代文字で「制御の意志」を刻む。石の床に、指先で光の文字を描く。形象——円環。配列——逆三角の後に二重円環。文脈——「遠方の同胞陣に呼びかけ、応答を得よ」。
五年間、フォルスト領の地下で繰り返してきた制御式の更新と、同じ手つき。ただし今回は、共鳴プロトコルを起動して——離れた場所の魔法陣に干渉するために。
怒りではなく。
判断として。
最後の一文字を刻んだ。
光が走った。床面の魔法陣が蒼白に輝き、紋様が波紋のように外側に広がっていく。光は壁を伝い、天井を昇り——東の彼方、フォルスト辺境伯領の地下に向かって飛んでいく。
共鳴が成立した。豊穣の祝福が、大地に戻る。
「……成功だ」
ルーカスの声。低く、確かな声。
立ち上がった。膝が泥で汚れている。
あの人のためにやったのではない。
領民のために——いや、それも正確ではない。
自分のためだ。怒りで判断を歪めた自分を、修正するために。学者が感情で結論を曲げたまま終わらせたくなかった。
それが、私の五年間を守ることだと思った。
◇
王都に戻った。一ヶ月が過ぎた。
ディートリヒの処分が確定した。
元老院の審議結果——北方蛮族侵攻を三度退けた軍功により、爵位の完全剥奪は免れた。ただし、学術成果の詐称および領地管理の不行き届きにより、領地は半分以下に縮小。王室監査官が常駐し、今後十年間の領地運営は監査付きとなる。
爵位は残った。剣も残った。
でも——「盾の辺境伯」が守るべき土地は、半分になった。
ハンスから手紙が来た。短いものだった。
『奥様。閣下は、処分を受け入れました。
一言だけ仰いました。「当然だ」と。
イレーネ様は先日、領地を離れました。
閣下は壁の剣を見ておられました。
ハンス』
手紙を畳んだ。
「当然だ」——あの人の流儀だ。
間違いを認めるのに「すまなかった」とは言えない人。代わりに「当然だ」と言う。武人の不器用な降参。
怒りは、もうない。哀しみとも違う。ただ——五年間の結婚が、こうして終わっていく静けさがある。
◇
研究室にいた。調査の最終報告書を書いている。
扉を叩く音。
「はーい、ヴェルナー嬢!」
マリアだった。
「一つ、お伝えしたいことがありまして」
「何かしら」
「学術発表会のこと、覚えています? あの場を設定したの、実は団長なんです」
ペンが止まった。
「エーレンフリート先生と相談して、帝国学術評議会に提案したんです。ヴェルナー嬢の研究を正式に発表する場を設けてほしいって。発表会の二ヶ月前に」
二ヶ月前。——ディートリヒの使者が来るより前。
「団長は何も言わなかったでしょう。あの人はそういう人なんです。——あ、ただし」
マリアが少し声を落とした。
「動機が完全に綺麗かって言うと、そうでもなくて。団長にとっても、あの発表会は意味があったんです。共鳴プロトコルの発見が正式に認められれば、調査団の予算が増える。それは——団長の研究にも直結する」
「……知ってる」
「え?」
「ルーカスは最初から言っていたわ。『俺は君の能力が必要だ。利用かもしれない』って」
マリアが目を丸くした。
「……団長、そんなこと本人に言ったんですか」
「ええ。正直な人よ」
「正直すぎて損する人ですよ、あの人」
マリアがため息をついて、部屋を出ていった。
◇
学院の庭に出た。
冬の初め。木々の葉がほとんど落ちて、空が広い。
ルーカスがベンチに座っていた。手元に古い地図を広げている。
「ルーカス」
「……ああ」
「マリアから聞きました。発表会のこと」
ルーカスの手が止まった。
「……あいつ、全部喋ったか」
「予算のことも含めて」
「——そうか」
少し間があった。ルーカスが地図を畳んだ。
「言い訳はしない。俺は——純粋な動機だけで動いたわけじゃない。自分の研究のためでもあった。それは事実だ」
「知ってる。最初から知ってた」
隣に座った。ベンチの木が冷たい。ルーカスとの間に、手のひら一つ分の距離。
「純粋な動機だけで動く人なんていない。私だって——遠隔安定化を拒否した時、安全性を理由にしたけれど、本当は怒りだった。あの人の領地を助けたくなかった」
「……知ってた」
「え?」
「分かっていた。安全性の問題は本物だったが、理由がそれだけではないことは——顔を見れば分かった」
「……それで、何も言わなかったの?」
「君が決めることだ。——そう言ったのは嘘じゃない」
沈黙。
風が吹いた。冬の入口の、冷たい風。
ルーカスが別の紙を取り出した。遺跡調査の計画書だった。
「新しい遺跡が見つかった。帝国の南部、旧王朝時代の魔法陣跡。同行を——頼みたい」
「研究者として?」
「——研究者として」
言いかけて、止まった。
ルーカスが顔を上げた。日に焼けた頬が、赤い。耳の先まで。
「いや。正直に言う」
この人はいつもそうだ。不器用に、嘘がつけなくて、弱みを先に差し出す。
「君と一緒にいたい。学術的にも、それ以外も」
——五年間、誰にも言われなかった言葉だった。
「必要だ」ではない。「戻ってこい」ではない。「利用する」でもない。
「一緒にいたい」。
不器用で、利己的な面も全部さらけ出した上での、その一言。
声を出して、笑った。
この物語の——いや、この人生の中で、初めて。
「……私も、です」
ルーカスが一瞬、目を丸くした。それから——不器用に、ぎこちなく、笑った。笑顔が下手な人だ。
それが、どうしようもなく愛おしい。
◇
馬車が王都の門を出た。
南に向かっている。新しい遺跡。新しい研究。
隣にルーカスが座っている。荷台には研究ノートと調査道具。マリアが御者席の隣で鼻歌を歌っている。
私は膝の上で、一冊の論文を開いた。六年前の卒業論文。ルーカスが余白に書き込みを続けた論文。
最後のページに白い余白がある。ルーカスが書かなかった——書けなかった場所。
ペンを取った。一行、書いた。
『続きは、一緒に。——C.V.』
閉じた。
窓の外を冬の陽光が照らしている。
振り返らなかった。
もう、振り返る必要はなかった。
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