第1話 離縁届に微笑みを添えて
「もっと可愛げのある妻が欲しかった」
夫がそう言った時、私は古代魔法文字の解読論文を書き終えたところだった。
インクの染みが右手の中指に残っている。五年分の研究の、最後の一滴。
……ああ、そう。
可愛げ。
この五年間、私がこの領地でしてきたことは、古代魔法陣の解読と、帳簿の管理と、税制の整備と、交易路の調整と、使用人の給与計算だった。可愛げとは、きっとそのどれでもないのだろう。
ディートリヒは書斎の椅子に深く腰を下ろしている。窓から差す秋の夕陽が、武勲で鍛えた広い肩を照らしていた。壁には三本の剣が飾られている。北方蛮族を退けた三度の戦い、それぞれで折れた剣。この人はあれを誇りに思っている。——実際、誇りに思うべきだと、私も思う。
ディートリヒは愚かではない。愚かなら、こんなに厄介ではなかった。
この人には、この人の世界がある。剣と馬と、兵站と戦術と、領民の命を背負って北方の荒野に立つ世界。父親を蛮族の襲撃で亡くし、十六歳で爵位を継いだ少年が、剣一本で領地を守り抜いた。その経験が「守れるものだけが価値を持つ」という信念を作った。
書物は剣を振るわない。論文は国境を守らない。
——だから、私の五年間は「道楽」だった。
理解はできる。納得はしない。
「イレーネの方が、よほど俺にはふさわしい」
隣の応接間から、ほのかに花の香りが漂ってくる。白薔薇の香水。……いつの間に屋敷にいたのかしら。
(知っていた)
知っていた。半年前から愛人を屋敷に入れていたこと。社交の場で「可愛げのある方」と紹介していたこと。イレーネが私の研究ノートを盗み見して、社交で知識を披露していたこと。
知っていて、黙っていた。
理由は一つ。研究が、まだ終わっていなかったから。
◇
ディートリヒが机の上に離縁届を置いた。分厚い羊皮紙に、教会の印章が押されている。
「……手回しがいいのですね」
「お前のためでもある。自由になれば、好きなだけ研究ができるだろう」
自由。
この人の口から、その言葉が出るとは思わなかった。五年間、朝五時に起きて帳簿をつけ、昼は領民の陳情を聞き、夜は地下の魔法陣に潜って制御式を更新し、深夜にようやく自分の研究ノートを開いた日々。
——自由になれる。
ディートリヒの意図とは、まったく違う意味で。
「承知いたしました」
ペンを取った。
ディートリヒの目が一瞬、見開かれたのが分かった。泣くか、怒るか、縋るか。そのどれかを予想していたのだろう。
(お前のためでもある、か。……この人は本気でそう思っている。残酷なのは、そこだ)
私は微笑んだ。五年間で最も穏やかな笑みだったと思う。
署名した。
インクの染みのついた右手で、自分の名前を書いた。
「ご自由にどうぞ、閣下。研究は終わりましたから」
ディートリヒの喉が動いた。何か言おうとして——「そうか」とだけ返した。声は平坦だった。この人の流儀だ。別れの場面で動揺を見せることは、武人の恥だと思っている。
私は席を立った。
◇
書斎を出て、廊下を歩く。
石造りの壁に蝋燭の火が揺れている。この屋敷の照明計画も、私が作った。魔法灯を効率よく配置するための設計図は、領地の帳簿と一緒に書棚に残してある。
(読めるかしら。古代文字で注釈を入れたけれど)
……いえ、読めないでしょうね。
研究室に入った。
五年分の研究ノートが、机の上に積み上がっている。古代魔法文字の解読記録、魔法陣の構造分析、制御式の季節更新マニュアル。
この全てが、ディートリヒの名前で王都に報告されていた。「辺境伯閣下の功績」として。
あの人にとっては、それすら善意だったのかもしれない。「女の名前で報告しても誰も読まないだろう。俺の名前の方が通りがいい」——その程度の判断。悪意ではない。ただの、無関心。
……悪意より、堪える。
ノートを一冊ずつ、荷箱に入れた。これは私の私物だ。嫁入り支度でもなく、領地の公文書でもない。私の頭と手で書いた、私の研究の全て。
最後の一冊を箱に入れた時、窓の外に丘が見えた。
あの丘の下に、古代魔法陣がある。八百年前の古代魔法文明が遺した、豊穣の祝福装置。この辺境の大地が実り豊かな理由。
そして、定期的に制御式を更新しなければ、祝福が反転して大地を枯らすもの。
更新できるのは、古代魔法文字を実用レベルで読める人間だけ。
この国に三人。そのうちの一人が、今この屋敷を去ろうとしている。
振り返った。
廊下の向こうに、ディートリヒの影が見えた。書斎の前で、壁の剣を見ている。折れた三本の剣。——あの人はいつも、迷った時にあの剣を見る。
最後に一つだけ、告げた。
「魔法陣の次の更新は冬至です。お忘れなく」
ディートリヒが顔を上げた。
私はもう、背を向けていた。




