第2話 引き継ぎ資料は学術論文形式にて
嫁入り道具の中で、最も重いのは本だった。
木箱を三つ。中身は全て研究ノートと参考文献。衣装箱はひとつで十分だったのに、本だけで馬車の荷台が軋んでいる。
侍女のリーザが心配そうな顔で見ている。
「奥様……いえ、ヴェルナー様。本当にこれだけでよろしいのですか」
「十分よ。ドレスは学院では着ないもの」
嫁入り支度金の返還手続きは昨日のうちに済ませた。領地の公的帳簿は全て書斎の棚に戻した。ディートリヒの署名入りの受領書も取った。
引き継ぎ資料は、別途まとめてある。
——完璧に。
税収の過去五年分の推移、交易商人との契約一覧、使用人の給与体系、冬の備蓄計画、そして古代魔法陣の制御スケジュール。
全て、古代魔法文字の学術論文形式で。
注釈も古代文字。索引も古代文字。見出しだけは帝国共通語にしてあるから、どこに何が書いてあるかは分かるだろう。読めるかどうかは、別の話だけれど。
(学術的に正確な形式で記録するのは、研究者として当然のこと)
……ええ、当然のこと。嫌がらせなどではない。断じて。
◇
荷造りを終え、屋敷の正門に向かった。
秋の朝の空気が冷たい。吐く息がかすかに白い。
ハンスが門の前で待っていた。
白髪の老執事。この屋敷に四十年仕えた人。三年前、孫のエミールが高熱を出した時、私が薬草を調合して看病した。あの夜から、ハンスは私を「冷たい奥様」と呼ばなくなった。
「奥様」
「ハンス。……もう奥様ではないのよ」
「——奥様は、奥様です」
老人の声が震えていた。深い皺の刻まれた顔に、ハンスらしくない何かが浮かんでいる。
(泣かないで。泣かれると、私まで——)
「どうかお元気で、奥様。この老いぼれには、何もできませんが」
「何もできないなんて。あなたには——」
続けようとして、声が詰まった。
五年間、この屋敷で私の味方は二人だけだった。地下の魔法陣と、この老執事。
「……ありがとう、ハンス」
唇を噛んだ。奥歯に力を入れると、頬の内側に鉄の味がした。
——ここで崩れたら、この五年間が「可哀想な女の物語」になる。
私は可哀想ではない。
私は、研究を終えて帰る学者だ。
馬車に乗った。扉を閉める前に、丘の方を見た。あの下に、八百年分の知恵が眠っている。冬至の更新は——もう、私の仕事ではない。
馬車が動き出した。
振り返らなかった。
◇
王都ケーニヒスブルクに着いたのは、五日後の夕暮れだった。
王立学院の正門が見える。石造りの門柱に、開学三百年の紋章。ここで六年前、私は古代魔法文字学を首席で修めた。
——そして、政略結婚で辺境に嫁いだ。
研究員寮の受付で名前を告げると、受付の老婦人が目を丸くした。
「まあ、クラウディアちゃん! エーレンフリート先生が、今朝もあなたの話をしていましたよ」
先生。
研究員寮の階段を上った。二階の角部屋。窓から学院の庭が見える。六年前と同じ景色。
——違う。私が違う。
部屋の机の上に、一冊の論文が置いてあった。
古びた表紙。角が擦り切れて、何度も読み返された跡がある。
……これは。
私の卒業論文だった。
「古代豊穣祝福陣の構造分析」——六年前に提出したもの。図書館の保管庫にあるはずの一冊。
表紙をめくった。
余白に、細かい字でメモが書き込まれている。私のものではない。几帳面で、それでいて熱のこもった筆跡。ところどころ下線が引かれ、「この仮説の検証方法は?」「実地調査で確認可能か」と問いかけが書かれている。
何年分ものインクの色の違い。古いものは褪せて、新しいものはまだ鮮やかに紺色をしている。
最後のページに、短いメモが挟んであった。
『研究室は隣です。——L.B.』
L.B.。
知らない名前だった。
窓の外で、学院の鐘が夕刻を告げている。
……ここが、これからの私の場所。
卒業論文を胸に抱えた時、廊下の向こうから穏やかな声がした。
「おかえりなさい、クラウディア」
エーレンフリート先生が、杖をついて立っていた。白い髭と、七十年分の皺と、変わらない優しい目。
「——ただいま戻りました、先生」
息が、震えた。喉の奥が詰まって「ただいま」の声がひどく掠れた。




