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去る年 来たる年  作者: 雪月 音弥
13/18

長月

 九月十日、十五時四十八分。

 外は台風で大荒れ。強風でほとんど横に降っている雨が、ひんやりと冷たい空気を一緒に運んでくる。最近は雨の日が多い。うちの家は今のところは問題ないが、日本各地で豪雨による災害が発生していた。

 一方、蔵の中は、外の荒れ模様とは全く縁がない。

 祠の扉の前には正座している歳神様。見た目はもう五十代半ばを過ぎて、顔や手に深い皺が年輪のように刻まれつつある。

 その隣の祭壇の、一番高いところで胡座をかいている春雷の君は、夏に比べると少し若返って、二十代後半ぐらいに見える。歳神様がどんどん老いていくから余計に若く見えるのかもしれない。

 そして、彼女達の側に飾られた、白や黄色、ピンクの菊の花が彩りを添える。いつも通り、穏やかで、しんと静まった空気。

 ぬるま湯に塩を混ぜた枡を用意して、春雷の君に差し出すと、彼は着物を脱いで中にそっと入った。みそぎ、というらしい。簡単に言えば入浴だ。

 いつもなら春雷の君の世話は父さんがするけれど、昨日から出張で一週間いない。

 彼は頭を丁寧に洗い、顔を塩湯で撫で、首を、肩を、腕を擦る。胸を、腹を洗い、背面はオレが榊の葉っぱでさすってやった。尻、足と磨き残しがないようにすみずみまで洗っていった後、手のひらをジャブジャブ擦り合わせて、最後に口の中を濯いだ。

 枡から出て、オレが差し出した小さな白い布を受け取ると、気持ち良さそうに大きく息を吐く。吐いた息の先で弾けた、淡い青の火花。

 彼が入浴すると、毎回最後に見られる光景。初めの頃は白い火花だったけど、禊ぎを繰り返すうちに、青味が濃くなった。透き通るような爽やかな色味。キレイだな、と毎回その瞬間だけは目を奪われる。

 水気を丁寧に拭き取り、脱いだ着物を身につけると、かたじけない、と彼は礼を述べた。

「えっと、この後は、湯を近くの川に捨てに行くんですよね?」

 でもこの天気じゃ、いくらなんでも今日は無理そうだ。せめて風だけでも止んでくれれば。

「今日中じゃないとダメですか?」

「我の身から落ちた穢れを含んでいる。家の中に置くのは良くない」

「うちの風呂場とか洗面所の排水溝に流すのは?」

 いけません、と歳神様の少し尖った声が飛んできた。

「排水溝に流せばそこに穢れが付きます。湯は川に流し、枡は焼却する。それが浩介殿との約束です」

「まもなく野分が来るだろう。あれに預ければ良い」

「野分……台風の神様、でしたよね」

 立秋前の節分に、迅雷の君がまくしたてるように言い残していった神様の名前。春雷の君の穢れを落とす手伝いをしてくれるっていう話だったような。……ん? 違うな、手伝ってくれるように迅雷の君が頼んでくれるっていう話だったっけ。

「どんな神様なんですか?」

 いつも急に神様がやってきて、よくわからないうちにどんどん話がまとまっていく。今日は父さんがいないから、何かあってもオレが自力で対応しなきゃいけない。性格がキツイとか、優しいとか、ちょっとでもわかっていたら、少しは失敗が減らせるかも。

「そうですね……」

 歳神様が口を開いた瞬間、蔵の入口の方からバタン、と何かが吹き飛ぶような音がした。外から風が雨や土の粒と一緒に入り込み、蔵の中を思うまま暴れ回る。目や口の中にジャリジャリと異物が飛び込んできて、慌てて顔を腕で覆った。

「うわさ話はよしとくれ」

 少し低めの女の声。風が収まって目を開けようとしても、ゴミのせいで痛くて開けられない。

「すまないねぇ、ちょっと乱暴だったかねぇ」

 そんなことは少しも思ってなさそうな、楽しげな笑い声がケラケラと後に続く。

 痛みに涙をこぼしながら声のする方を見ると、ショートカットの女の人が立っていた。神話に出てくる神様みたいな、白い布で出来た丈の長い服。紫色の竜巻模様が裾に入っている。首元には緑色をした勾玉の飾り。スラリと背が高く、女の人なのにオレと同じくらいの身長。

「久しいな、野分」

「あんた達も変わりなさそうだねぇ。……ちょっと、小さくなったみたいだけど」

 春雷の君へ親しげに笑い掛けてから、さらにオレへと視線を向けた。泣きぼくろが印象的な、少しキツそうな美しい切れ長の目。

「あんたが、次の当主殿だね?」

「は、はい。高橋尚樹といいます」

「あたしは野分。太郎ちゃんから話は聞いてるよ」

「太郎ちゃん……?」

 歳神様が、春風の太郎君のことですよ、と教えてくれた。

「あたしが地上に降りるって聞いて、すっ飛んで来てねぇ。くれぐれも頼む、なんて頭を下げるんだからねぇ。思わず笑っちまったよ」

「太郎君はお変わりありませんか?」

「あの男が変わりなんてあるもんかい。でもあんた達と、この家のことは心配してたよ」

 そうですか、と申し訳なさそうに歳神様が目を伏せる。それにはお構い無しに、野分様は春雷の君へと言葉を続けた。

「あんまり時間もないからそろそろ行こうかねぇ」

 彼女は祭壇に飾られていた菊の花を一輪手に取って、それを春雷の君に差し出した。彼は頷き立ち上がって、花の中央へと乗り移る。

 早くも状況がわからなくなりつつあるオレは、堪らず声を上げた。

「行くってどこに……?」

「何言ってんだい、この子は? 穢れを落としに行くに決まってるだろ」

「穢れを落とすのって、この家でやるんじゃないんですか?」

 少なくとも、オレはそう思ってたんだけど。

「馬鹿だねぇ。ここでちんたらやってたら、神議かみはかりまでに間に合わないだろ。疫病神共もほとんどが自由の身になっちまったし」

「え? 自由の身にって……まさか、あの五人の疫病神も?」

 焦ったオレに、野分様は面倒臭そうに、違う違うと片手を左右に振った。

「例の五柱なら、あたし達、秋告神が預かってるよ。迅雷は夏告神だからねぇ、立秋までに天に戻らなきゃいけない。けど、とっ捕まえた疫病神共を天に連れて行くわけにはいかないってことで、あたし達に押しつけていってそのまんまさね。でも例の五柱以外は、どうせ建前上のことだろうからねぇ」

「建前って、なんのことです?」

「建前は、建前だよ。見せ掛けだけさ。歳神、あんたならわかるだろ」

 急に話を振られた歳神様は困惑した様子で、おずおずと頷いた。

「……春雷の君に手を貸すために、他の神々から口を出されないよう、形だけ整えた、ということですね」

「そうさね。でも、こっちも面倒なんで、手の掛かるやつは放っておくことにしたのさね。そしたら案の定、ほとんどぜーんぶ逃げて行ったってわけさ。元はと言えば、歳神、あんたが悪いんだよ。春雷を助けようとするなって、迅雷が何度も使いを寄越しただろ?」

 え? と二人の女の神様を交互に眺めた。迅雷の君が使いを寄越していたなんて知らない。

「どういうことですか? オレ、使いの人が来てたなんて、今、初めて聞きましたけど……」

 もしかして、何度か祠前に来ていた雨神だろうか。オレや父さんが姿を見せると、いつも慌てたように姿を消してしまったけれど。

 眉根を寄せて黙り込んでしまった彼女に代わって、野分様がキツイ口調で返してくる。

「なんで人間に言わなきゃならないんだい? これはあたし達の問題だよ」

「……すみません」

 やっぱり口を出すのは図々しかっただろうか。でも歳神様や春雷の君の力になってあげたいのに、何が起きているのかわからなければ、何も出来ずに終わってしまう。

 野分様は、やれやれと息を吐いた。面倒なのはごめんだよ、と言いたげに。

「……一度疫病神になっちまった神には、手助けしないことになってるんだよ。助けようとして、代わりにヒドイ穢れを受けちまったら、その神も疫病神になるかもしれない。歳神なら、家を滅ぼす結果になるだろう。だから、今まで全部見捨ててきたのさ。穢れを受けたのはその神の責。ならばその穢れを落とすのも、その神の責ってね」

「例外を認めることは出来ません。認めるならば、今まで見捨ててきた者も助けるべきだと騒ぐ者が出てきます」

「それなのに、この歳神は春雷を迎え入れちまった。こうなると話が変わってくる。

 この家の人間まで巻き添えにするわけにはいかない。太郎ちゃんは、春告神である春雷にはなるべく早く天に帰ってもらいたい。野の神、山の神も手を貸すことに同意するだろう。歳神として地上に降りた時、自分達が同じような状態になったら、その方が都合が良いからねぇ。

 一方で、それを絶対に認めないっていう連中も大勢いるのさね。特別とか、例外なんてものは認められない。認めちゃいけない。特に雷神達は猛反対さね」

 そうであろうな、と春雷の君は眉間に皺を寄せながら言葉を引き継ぐ。

「我らの雷は天と地上を結ぶ数少ない手段。それ故、雷神達は他の神々より多くの戒めを自らに科す。その時の都合で判断を変えることを許しはせぬ」

 けれど、迅雷の君が彼らの穢れを落としてくれって頼んだことと理屈が合わない。

 そのことを指摘すると、野分様は、さあねぇ、わからないねぇと曖昧な返事をした。

「あれは春雷と迅雷の父親の考えだろ。雷神の長が何を考えているのか、あたしにもわかんないよ」

「お父さん……?」

 そういえば、迅雷の君が、親父殿が決めたってチラッと言っていたような……?

「雷神共は皆反対だ。でも、長の決めたことには逆らえない。だから余計に天は混乱してるよ」

「何か、お考えがあるのでは……?」

 歳神様の言葉にも、野分様はさあねぇ、と首を傾げた。春雷の君は腕組みをして難しい顔で考え込んでいる。

「春雷の君のお父さんって、どういう神様なんですか?」

「……父上は、雷神の長で、神議りの際は最終決定を下す方だ。恐らく今回の件も、父上が決断を下されるのではないか」

 彼の言葉に、野分様はそう聞いてるよ、と首を縦に振った。

「元々、春雷を地上に下ろすことだって、最終的にはあの方が決めたんだからねぇ」

「じゃぁ、お父さんを上手く説得出来れば、春雷の君や疫病神の処罰も軽くなるんじゃ……?」

 オレがそう尋ねると、三人の神様はそれぞれ顔を見合わせて、深く長い溜め息を吐き出した。その様子を見れば、やっぱり状況はかなり難しいようだ。

「……他の連中を納得させられるかどうか、それ次第だねぇ。自分の息子に甘い処分を下せば、あの方の立場も苦しくなるからねぇ。どうしてもダメだとなったら、たとえ雷神の長でもどうすることも出来ないよ。そうならないように、太郎ちゃんが必死で走り回っているけどさ……それでも多分、例の五柱は難しいさね。そもそも、神議りに間に合うように穢れを落とせるかどうかもわからない」

「……あの者達は今、どうしている?」

 苦々しい口調で春雷の君が尋ねた。心配そうに瞳を揺らしながら。

「なんとか穢れを落とせって迅雷に頼まれたからねぇ。川神や海神になんとか頼みこんで手伝ってもらいながら、禊ぎをさせてはいるよ。でも、思うようには進んでいないねぇ」

 少し疲れたように、野分様は首の辺りをトントンと軽く叩き始めた。

「あの連中、よっぽど穢れを溜めこんでるんだねぇ。きれいな水が足りないって川神に言われてさ。仕方ないから秋神に雨を多く降らせるように指示したら、今度は多すぎてねぇ……最近多いだろ、豪雨での水害が」

 ああ、それで各地で被害が出ているのか。ということは、被害が出ている辺りで疫病神が穢れを落としているのかな。

「ほんと、頭が痛いよ。人間の力は借りずに天だけで解決しようって始まったことが、今じゃ多くの人間を巻き込んでるんだからねぇ……」

 春雷の君が、すまぬ、と今にも消え入りそうな小さな声で呟いた。歳神様まで暗く物憂げな様子で俯いてしまったからか、取り繕うように野分様は妙に明るく振る舞う。

「まぁ、気に病んでも仕方ないさね。出来ることを順番にやるしかないねぇ」

「……あの。オレにも何か、手伝わせてください」

 オレの口から飛び出してきた言葉に、野分様の顔がきょとんとなった。

「何でもいいです。オレにも何か、出来ることはありませんか?」

 神様達にもいろいろと事情があって、守らなければいけない決まりがあるのはわかった。それが自分達や、オレ達人間を守るためのものだということも。

 いつの間にか、人が神様の存在を忘れてしまっても、彼らは変わらず人を守り続けてきた。

 あの疫病神達だって、元はと言えばそういう神様だったはず。そうして歳神になって、たまたま遣わされた家が、オレや父さんみたいに、神様の姿が見える人の家だっただけ。

「オレは、春雷の君だけじゃなくて、疫病神もなんとか助けてあげたいんです」

 疫病神達は祠を奪おうとして何回もやって来た。もし祠を奪われてしまったら、オレも父さんも母さんも、病気になったり、最悪、死んじゃったりするんだってことはわかってる。けれど。

「……ずっとずっと長い間、人から見向きもされず、感謝もされずに、ただ人を守ってきていた神様達が、やっと自分に向き合ってくれる人に出会って、大事に祀られて、きっと嬉しかったんだと思う」

 彼らは一所懸命、その家と人のために、出来る限りのことをやろうと考えたはず。

 そうして多分、その家の人間も、そんな彼らと共に在ることを望んでいたんじゃないのかな。オレが、歳神様や春雷の君のために何かしてあげたいと思うのと同じように。

 疫病神達がその家に留まりたいと思うようになるのは、むしろ当然のことのようにも思える。

「ただ人と共に在りたい。そう思うことが、そんなに悪いことですか?」 

 野分様は、ふーん、と目を細めて楽しそうな笑みを浮かべた。

「太郎ちゃんが、次期当主殿は甘っちょろいガキンチョだって言ってたけど…確かにその通りだねぇ」

 オレをたしなめるように歳神様が声を上げたが、まぁいいじゃないか、と彼女はケラケラ笑って軽く受け流した。

「あんたの言いたいことはわかったよ。でも気持ちだけ受け取っておく。これはあたし達の問題で、人が関わるようなことじゃない」

「そう、ですか……」

 やっぱりダメか、とオレが肩を落としたら、野分様がしゃんとしな! と急に声を張り上げたので、びくっと姿勢を正した。

「あんたみたいな人間、あたしは嫌いじゃないよ。……何か頼めそうなことがあったら、その時は宜しく頼むよ」

「……はい!」

 歳神様と春雷の君の顔に、安心したようなホッとした笑みが静かに広がっていく。

 歳神様と出会ってから九ヶ月。

 彼女達は確かに人にはない不思議な力を持っている。そして、人と同じように、誰かを大切に思い、守りたいと考えていて。

 オレには不思議な力はない。けれど、歳神様がオレ達にしてくれるのと同じように、彼女達のことを大切に思っているし、出来ることがあるのならしてあげたいと思う。

 彼女達の問題に人が関わるべきじゃないと言われるけれど、そういう壁を少しずつ取り除いていけたらいい。

 大事なものを守りたいという気持ちに、変わりはないのだから。

 神様と人が共に在るって、そういうことじゃないのかな。少なくとも、オレはそう思う。


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