葉月
八月六日、六時三十七分。
「……それじゃ、疫病神は、追い返すだけ?」
本当にそれだけ? と、オレは念を押す。
「ええ、それだけです」
歳神様の返答に、思わず春雷の君に目を遣った。彼は表情を変えるでもなく、いつもと同じように眉間に少し皺を寄せ、ただ静かに座っている。
「でも、それじゃあ、また次の節分にここへ来るんじゃないですか?」
それに、あの疫病神達を助けるために春雷の君は地上に降りたはず。
「他に方法は無いんですか? 春雷の君みたいに、何か……」
尚樹殿、とオレを遮る歳神様の声に混ざるのは、ピンと張った糸のような緊張感。
「今日は私の言うことに従ってください。彼らを助けるかどうかは、別の問題です」
「別……?」
「お気持ちには感謝します。ですが、今回は追い返すのみです。
この家の周囲には、あの疫病神達の他にも多くの疫病神が集まってきています。五柱の疫病神だけを無理に助けようとして、皆様を危険に晒すことは出来ません」
キラリと光る澄んだ瞳が、彼女の意思の強さを伝えてくる。春雷の君も無言で頷いた。
二人は視線を交わす。歳神様の表情には翳りは見えない。いつもと同じように清々しく、凛としている。春雷の君は表情こそ変えないけれど、彼女をまっすぐに捉える瞳が、心配ない、と言っているように見えた。
「では、皆様、宜しくお願いいたします」
歳神様はそう言って、祠の扉の向こうへ姿を消した。祠前の祭壇に供えられた桃の実が甘い香りを放っている。
蔵の外は激しい雷雨。時折、閃光が辺りを照らし、轟音が耳をつんざく。
対象的に中は静まり返っている。微かな音や息遣いさえも躊躇われるほど。
父さんが近くの壁に立て掛けていた弓を手に掴む。
祠の隣に設置された臨時の祭壇では、春雷の君が目を閉じたまま、一番高いところで胡座をかいている。その周囲を囲むように、竹のような棒が四隅に立てられ、間に縄が渡されている。
古ぼけた祠にフワッと灯りが一つ灯った。橙色の、仄かに温かみを感じられる灯りは、二つ、三つと数を増していく。くすんだ灰色の木目は真新しくツヤツヤとした輝きを取り戻し、鈍い光を放っていた金銀細工も本来のきらめきを見せ始める。
——始まった。立秋前の節分。鬼やらいが。
背後の暗闇で、何かが動く気配がする。こちらの様子を伺うように、ゆっくり、少しずつ密度を増しながら。
凝り固まっていく闇はどこか恨みがましく、どこか愉しげに笑い、そして弾けた。
ズルズルと何かを引きずるような音を立てながら、五体の疫病神が姿を現す。
赤の疫病神は、恨めしそうに血走った目で。
青の疫病神は、怒り散らして黄色い歯を剥き出しにしながら。
緑の疫病神は、嘆きに目を落ち窪ませ。
黄の疫病神は、誰かを蔑むように歪んだ笑いを浮かべて。
黒の疫病神は、不満げに荒々しく息を吐きながら。
それぞれが金棒を担ぎ、振り回し、あるいは足元をドンドンと突きながら、祠へと向かって行く。
祠の扉が音もなく開き、中から歳神様が進み出てきた。白髪混じりの長い髪をゆるく結い上げ、紅い着物にたすき掛けをし、片手に杖と薄桃色の巾着袋を持って、凛と背筋を伸ばし、仁王立ちになる。
彼女が姿を現した途端、桃の甘い香りが一層濃く漂う。榊と一緒に祭壇に飾られていた笹が風もないのに揺れて、サラサラと優しい音を奏でた。
「……アノ歳神ダ」
赤の疫病神の、地の底から響き渡るような恨み声。オレの心臓は冷や水を浴びせられたように凍えた。
呼応するかのように、他の疫病神も言葉を紡ぐ。
「アノ歳神ガ居る。太郎兄者モ」
「太郎兄者、ズルイ」
「祠、欲シイ」
「ココニ、住ミタイ」
彼らは闇に潜む者に相応しく、ニタリと妬みに歪んだ笑みを浮かべた。ゆっくりと、用心深く、さらに歩みを進める。
歳神様が手に持っている杖で足元を二度、強く叩いた。
「高橋家の歳神より、穢らわしく悪しき疫病をもたらす神々に申し上げる」
静かに、けれど朗々と響き渡る彼女の爽やかな声は、暗闇に差す一筋の光のよう。
「この家の四方の境より内は、この歳神の神域。荒らすことは許さぬ。速やかに立ち去れ」
疫病神達は耳障りな声で下品にせせら笑った。そのしわがれた声に、オレは胸焼けしたように気分が悪くなってくる。
「早う立ち去れ! さもなければどこまでも追い掛け、滅ぼしてしまうぞ!」
ドンドン、と杖で足元を叩く歳神様を指差し、疫病神はさらにけたたましく笑い、跳ね、金棒を振り回す。
血走った眼は釣り上がり、肌には気味の悪い出来物がボコボコと盛り上がっていく。彼らが笑えば笑うほど、口は左右に大きく裂け、汚れて黄色くテラテラと光る歯が顔を見せる。ボサボサに乱れた髪は逆立ち始め、薄汚れてボロボロの服は裾からビリビリと破れた。
「歳神、ズルイ!」
「太郎兄者、ズルイ!」
「コノ祠、欲シイ!」
「ココニ、住ミタイ!」
「歳神ヲ追イ出セ!」
金棒でガンガンと足元を激しく打ち付け、声を揃えて叫ぶ。
「追イ出シテシマエ!」
疫病神は一斉に歳神様に向かって駆け出した。春雷の君が片足立ちになり、剣の柄に手を掛ける。
父さんが弓の弦をビィン、と弾く。ギャッ、と呻き声を上げて立ち止まる疫病神達。歳神様は巾着袋から桃の種を掴み取り、彼らに向けて迷うことなく投げ付けた。
「鬼はァァァ外ォォォ!」
「ギャアァァァ!」
勢いよく投げられた種はビシビシと音を立てて疫病神達にぶち当たった。
「福はァァァ内ィィィ!」
間を空けることなく、次の種がまじないと共に投げ付けられる。悪神達は叫び声を上げながら、右へ左へと逃げ惑う。
「鬼はァァァ外ォォォ! 福はァァァ内ィィィ!」
オレも腹の底から声も枯れんばかりにまじないを叫び、父さんは間断なく弦を弾き続ける。
歳神様のまじないは祈りのように清々しく響き渡り、疫病神の悲鳴と怒号は呪いのように鬱々とこだまする。
泣き、叫び、怒り、悲しみながら彼らは走り、転び、また立ち上がって逃げ回る。
「太郎兄者ダ」
「太郎兄者ヲ引キズリダセ!」
黄と黒の疫病神が雄叫びを上げながら春雷の君へと飛び掛かる。春雷の君はぐっと前屈みになって抜刀の体勢に入ったが、二体の悪神は彼を囲む立方形の結界に弾き飛ばされた。さらに容赦無く歳神様が種を撒き散らす。
種を投げ付けられる度、彼らの乱れた髪は一房、また一房と抜け、肌の出来物は小さくなっていく。釣り上がった眼は力なく垂れ下がり、涙がとめどなく溢れた。大きく裂けた口元は小さくなって、顔中に深い皺が刻まれていく。肌の色も人のそれに近くなり、腰が曲がり、傷んだ衣服にはつぎはぎがされて、金棒は木の杖へと変わる。
そうして何度も繰り返し、やがて彼らはみすぼらしい姿の老人になった。細い木の杖でなんとか体を支え、おうおうと泣きながらヨロヨロと逃げ回る。
「……歳神、強い」
「強い、勝てない」
「でも、祠、欲しい」
「でも、ここに、住みたい」
「太郎兄者、ずるい」
疫病神達は弱々しい声でボソボソと呟く。歳神様がチラリと春雷の君に目を遣った。彼は剣の柄から手を離し、静かに立ち上がる。
なんとかうまくいったか、と思ったその時。
「……いいこと、思いついた」
粘っこく絡みつくような疫病神の声。
その禍々しさに、ぞわぞわと全身の産毛が逆立つのを感じた。嫌な予感が心を占領していく。
「いいこと?」
「何だ?」
「祠、住めるか?」
「ここに、住めるか?」
他の疫病神も色めき立ち、頭を寄せ合い、辺りを憚りながらヒソヒソと言葉を交わす。声は聞き取れないが、チラチラと祠や歳神様を盗み見るその様子が嫌らしくて気に障る。
春雷の君の尖った鋭い声が空気を切り裂いた。
「……歳神よ、結界を解け」
「え……?」
「早うせよ。それとも我に力づくで破らせたいか」
低く噛み付くような声に、歳神様は、ただいま、と困惑しながらも応じた。
さらに彼は、オレと父さんを手招きし、祠のすぐ脇に立つように指示する。
顔をひどく強張らせて、焦ってイライラしているように見える。言葉を発していないのに、危険だと叫ぶ彼の声があちこちで飛び交っている気さえした。
なんだろう。何が起きようとしているんだろう。
小さな小さな声で何かを呟き、歳神様が手のひらをパンッと合わせると、シャラン、と澄んだ鈴の音が鳴り響いた。待ち兼ねたように春雷の君は祭壇の端まで駆け寄って力強く踏み切り、一気に疫病神達の前まで跳躍した。
「……天に帰りたくば、早うここから立ち去れ」
怒りが青白い光となって、彼の体を包み、火花を散らす。
「……天には帰りとうない」
「ここに居たい」
「祠、欲しい」
「ここに、住みたい」
「太郎兄者、ずるい」
春雷の君の右手が再び剣の柄に伸びる。片足をスッと後ろに引いた。
「ここ、人が居る」
「人が居る、わかる」
「いいこと、教える」
「我ら、ここに住まう」
「皆、幸せ」
疫病神はニタリと目を細めて笑った。隠しきれない悪意に、クツクツと咽喉を震わせながら。
「太郎兄者、ずるい」
「我らもここに住まう」
「人に、いいこと、教える」
「この家の、歳神の名」
「この家の、歳神の名は——」
最後の言葉が耳に届く前に、春雷の君の声が爆発したかのように空気をかき混ぜた。
「やめよ!!」
即座に抜かれた剣から稲光が走る。青白い光は枝分かれしながら疫病神達に向かう。しかし、それらが彼らの体に触れるよりも先に、別方向から黄色味を帯びた稲妻が手を伸ばし、彼らを縛り上げ、捕らえてしまう。
もう一つの稲妻の先には、男が一人立っていた。三十代くらいのその男は縄を引っ張るように稲妻を掴み、ギャアギャアと喚き立てる疫病神達をギリギリと締め上げた。
「……兄上!」
春雷の君の上ずった声に、男は不敵な笑みを口の端に乗せて、よう、と返した。男らしく力強い目元が春雷の君とよく似ている。けれど体の大きさが違う。春雷の君は歳神様と同じように小さな人形くらいの大きさ。新たに現れた男はオレと同じくらいだ。
白いサラシを腹に巻き、赤い半纏を羽織り、黒い股匹に足元は下駄。半纏の背中には春雷の君と同じ、直線が渦を巻く金糸の紋様。
「ちょいと待ってな」
男は事も無げにそう言って、さらにギリギリと疫病神達を稲妻で締め上げ、荷物でも背負うようにヒョイと彼らをそのまま肩に担いだ。
「久しいなぁ、春雷。小さくなっちまって。歳神もよぉ。元気にしてたかい」
「迅雷の君。ご無沙汰しております」
歳神様が丁寧にお辞儀をする。春雷の君は剣を鞘に収めた。
「とりあえず、鬼やらいを終わらせてくんな」
ただいま、と彼女は慌てて祠の中へと戻った。扉が音もなくスッと閉まる。
祠に灯っていた橙色の灯りは一つ、また一つと消えていく。美しい木目も金銀細工も、くすんで輝きを失う。元の古びた祠へと姿を変えて、祀り事が終わったことを告げた。
黙ってその様子を見届けた男は、彼の背中でまだギャアギャアと喚いている疫病神達を煩わしそうにチラリと一瞥した。チッ、と男が耳打ちした瞬間、彼らを縛りつける稲妻がバチンと激しく火花を散らし、悪神達のしわがれた短い悲鳴が上がる。
なんだか恐い。春雷の君も、時折厳しい一面を見せることがあるけれど、この神様は、もっと冷淡で容赦がない。
やがて歳神様が祠から再び姿を現した。そして父さんとオレを男に紹介する。男は短く、そうかい、と答えた。
「弟が世話んなったな」
父さんの肩を軽く叩く男に対し、急な展開に呆気にとられたのか、さすがの父さんも、はあ、と気の抜けた言葉しか返せない。
「ジンライ、とおっしゃいますと……」
「雷の中でも疾く烈しき方です。夏の訪れを告げる神でもあられます」
歳神様がそう言うと、どこか誇らしげな笑みが迅雷の君の顔に広がる。
「急いでるんでな。用件だけ伝える。
この疫病神共は、これより迅雷が預かる。次の神議りで罪を明らかにし、処罰を決定する」
え、とオレは思わず声を漏らした。
「春雷、お前もだ。申し開きをしたけりゃ、さっさと穢れを落としな。必要なら、野分に掛け合ってやる」
「……兄上、かたじけない」
「歳神、お前については新年を迎えてからだ。それと、この辺りにいる他の疫病神共は、こっちでとっ捕まえる。立秋ギリギリまでな」
「……宜しいのですか?」
「仕方ねえ。親父殿がそう決めた。話は終わりだ」
オレや父さんには目もくれず、じゃあな、と言った瞬間に黄色味を帯びた稲光に姿を変える。バチン、と音を立てて、疫病神ごと天へと光が伸び上がり、そのまま消えてしまった。
展開の早さにオレの頭は全くついていけない。
「……え? 何、今の? 全然、わからないんだけど」
カミハカリ? ノワキ? 歳神様は来年って何のこと? 言いたいだけ言って、さっさと行ってしまったけど。
「……まもなく年に一度の神々による話し合いが行われるから、それまでに春雷の君は穢れを落とすように、ということです。野分という秋告神、人が台風と呼ぶ神にその協力を頼んでやると」
「処罰って言ってましたよね。あれは? 疫病神を助けるって神様達が話し合って決めたから、春雷の君が地上に降りてきたんですよね? なのに処罰されるんですか? 疫病神も、春雷の君も?」
「それだけ、一連の出来事は重大だった、ということです。彼らを助けると決めた時は事実がわかっていなかった。
守るべき家を歳神が滅ぼす行為は一切禁止されています。彼らがしたことも、春雷の君がなさったことも、その理由に関わらず、許されることではないのです」
「じゃあ、歳神様のことは? 新年を迎えてからって言っていたのは、来年になったら何かの処罰をするって意味ですよね? 何も悪いことしていないのに?」
それは……と言って、歳神様は俯き、押し黙る。代わりに春雷の君が重い口を開いた。
「……我のせいだ。この家にまだ穢れを帯びている者を迎え入れた。穢れは疫病神を呼び寄せる。家の滅びに繋がることは罪とされる」
「そんなの、おかしいよ!」
オレの口から言葉が暴発する。
「なんで? 春雷の君を助けるためだろ? 春雷の君だって、家と疫病神を助けたいって思ったからやったことじゃないか! 疫病神達は、ただ、人と一緒にいたいって思っただけじゃないか! それがそんなに悪いことなのか!?」
蔵の中は、しんと静まり返る。歳神様は俯いたまま。春雷の君は眉間に深い皺を刻んで、険しい顔をしている。父さんが、はあ、と深い溜息を吐いた。
「尚樹が失礼をいたしまして申し訳ございません」
「はあ? なんだよ、本当のことだろ」
「本当のことでも、神々には神々の事情がある。それには口を挟むべきではない」
「こんなの、納得出来るかよ!」
疫病神がやったことは、自分勝手で、人を傷付け、滅ぼすことだったかもしれない。でも、彼らはただ寂しかっただけだ。
春雷の君は、彼らをなんとか天に帰らせようとして、それを疫病神達に邪魔された。家を、人を、滅ぼすつもりなんてなかった。
歳神様は、ずっと捜し続けた大事な人を救いたかっただけ。
他の神様達が、彼らのために何をした? 救いの手を差し伸べた神様がどれだけいる?
安全なところで、何の危険にも身を晒さずに高みの見物をしていたヤツらに、どうして彼らが処罰されないといけないんだ。そんな理不尽なことがあっていいのか。
春雷の君がボソリと呟く。静かな水面に一滴の雫が波紋を広げるように。
「神議りは避けて通れぬ。してしまったことの責は取らねばならぬ」
「そんな……!」
「人は神議りについて意見することは出来ぬ。例え、此度の件に深く関わっている者であっても」
「じゃあ、このまま黙って処罰されるしかないんですか。本当にそれでいいんですか」
納得いかない。ふつふつと湧き上がる苛立ちをどうすることも出来ない。二人にぶつけても意味が無いとわかっていても、こらえきれない。
「……春雷の君と私に関しては、きちんと申し開きをすれば、事情は汲んでいただけるのではないかと……問題は、疫病神達です」
歳神様の声にはいつものような張りが無く、苦々しいやるせなさが顔を出していた。
「自分達が地上に留まりたい、ただそれだけの理由で春雷の君の名を人に伝えた。先ほども、私の名を口にしようとしました。歳神の名を人に告げた者は厳しく処罰されます」
「処罰って、どんな……?」
「降格。あるいは神格の剥奪。……あるいは、存在そのものの否定」
「否定……?」
「この世界に存在することすら許されない。つまり、人でいうところの、死を意味します」
沈黙が蔵の中に満ちていく。二人の顔を暗い陰がゆるゆると覆った。
彼らが助けたかったもの。それらは失われるしかないのか。諦めるしかないのか。
いくらオレが力になりたいと思っても、やっぱり人と神様が共に在ることは難しいことなのか。父さんが言うように、距離を置かないといけないのか。
蔵の外で鳴り響く雷鳴は、オレ達には見向きもしない。答えを知っているなら、教えて欲しいのに。
虚しさとやるせなさが、棘になってオレの胸をチクチクと刺した。




