文月
七月十五日、二時三十四分。
不意に目が覚めた。肌にじっとりと汗をかいている。
クーラーは既にスイッチが切れていて、部屋の温度は心なしか生温い。
べとつく肌の不快さに、もう一度寝ようという気にはなれなかった。ベッドを抜け出し、ひとまず洗面台へと向かう。
水道の蛇口を捻り、勢いよく流れる冷たい水を頭からかぶる。頭皮や肌の表面についた汚れを綺麗さっぱり洗い流してしまいたかった。
自分の中の不安も一緒に。
水を止めて、タオルに手を伸ばし、ガシガシと水気を拭き取る。鏡に映る自分の顔は、どこかしらいつもより生気の無い、暗い顔に見えた。
春雷の君をこの家に迎え入れて半月。表面上は何も変わったことは起きていない。歳神様の世話に加えて、春雷の君の世話が増えた。ただそれだけだったけれど。
逆に、何も起こっていないことが、心をジワジワと脅かす。
彼がこの家に留まれば、疫病神が集まってくる。穢れとはそういうものだと皆が言う。それなのに。
あれからまだ一度も疫病神は姿を現していない。
歳神様や父さんがきちんと祀り事をしているからかもしれない。それも考えた。
でも他に何か理由があるんじゃないだろうか。たとえば……春雷の君は、本当は疫病神達を手引きして、この家と歳神様の祠を乗っ取るつもり、だとか。
彼はこの家に留まることを何度も拒んだ。それを無理に押しとどめたのは父さんや歳神様の方。だから、これはオレの思い過ごしなんだと思う。
けれど、オレ達に何か隠し事をしていて、それがこの家や歳神様を害することであったなら。オレ達は何かとんでもない間違いをしてしまったんじゃないのか。
かと言って、そんなことを直接尋ねることは出来ない。歳神様の気持ちを考えたら、なおさら。
そうしてますます不安になる。考え出したら止まらなくなって、いつまでも思考の渦から出られない。
洗面台から離れて居間へ。窓と雨戸を開けて縁に出る。蔵の周囲はいつもより闇が深いように見えた。
二人の所へ行ってみようか。
これまでは真夜中の密やかな時間を邪魔するような気がして、用も無くそんな気分にはならなかったけれど。
サンダルを足に引っ掛け、庭を渡り、蔵の三重扉を順番に開けていく。しんと静まり返った夜の中に、扉の重く軋む音が響いた。燭台に灯した火が揺らめきながら弱々しい明かりを届けてくれる。
蔵の一番奥、最も闇が凝る場所。そこにあるのは小さな祠と、臨時に設けられた祭壇。
春雷の君のための祠はまだ用意が出来ていない。竹のような棒で四方を囲い、細い縄を張り巡らした、祭壇で最も高い場所。そこが春雷の君の住処だ。
彼は見えない壁を叩くように、祠のある方に向かって手を振り上げては下ろす動作を繰り返していた。そして、祠の扉にもたれかかって座っている歳神様の姿。まぶたを閉じ、ぐったりと俯いていて、春雷の君が何度呼びかけても反応がない。
何かがおかしい。胸の奥がザワザワと騒ぎ始める。
「……歳神様?」
燭台を近くの白木の台に置いた。春雷の君はオレを鋭くチラリと一瞥し、また祠の方へと視線を戻す。焦りの浮かぶその表情に、胸の奥のざわめきがより一層増した。
恐る恐る手を伸ばし、指先で歳神様の肩口に軽く触れると、まぶたがゆっくりと開かれ、鈍い光を帯びた瞳がぼんやりと顔を出した。
透けそうなほど青白い顔には疲れがこびりついていて、それでも彼女はいつものように穏やかな笑顔を浮かべようとする。
「……尚樹殿、でしたか」
「大丈夫ですか?」
彼女はゆるゆると首を左右に振った。
「……すみません。ご心配をお掛けしました」
扉に手をつき、体を支えながらゆっくりと立ち上がったけれど、気怠い様子で少し背を屈め、胸元を手で押さえている。
こんな風に弱ってしまった歳神様を見るのは初めてで、どうしていいかわからない。
「父さんを呼んできます」
歳神様から指を離そうとしたが、彼女の小さな手が引き止めた。
「少し休めば大丈夫です。もう夜も遅くなりました。尚樹殿もどうぞお休みください。あれらももう、今晩は来ないでしょう」
あれらって、何? というオレの問いには答えず、彼女は静かに祠の奥へと消えてしまった。扉の閉まる音が、今はそっとしておいてくれと訴えている。
春雷の君は、見えない壁に手をついたまま、ズルズルとくずおれた。彼の住処は、同時に彼を閉じ込めるための結界。自由に出入りすることは出来ない。
「あれらって……もしかして、疫病神ですか? 疫病神がここへ来たんですか?」
彼は忌々しげに顔を上げて、そうだ、と短く返した。
「今宵だけではない。あれらは毎夜この家の周囲から中を覗き、隙あらば祠を奪おうとしている」
「父さんには……」
首を左右に振り、歳神からそうするように頼まれた、と彼は答えた。体の向きを変え、背中を見えない壁に預けるようにして座り込む。
「……どうして」
オレの口から漏れた声は、喉に絡んでほとんど息のよう。
今までは、何かあれば少なくとも父さんには話してくれていたのに。
「……知ったところで、どうにもならぬ。節分の鬼やらいとは違う。……もっとも、当主殿は気付いているようだが」
春雷の君の声も弱々しく疲れきっている。
「家を守るのが歳神の役目。あの姫神は、役目を果たしただけだ。……ただ、今宵は数が多かった。それだけだ」
「それだけって……どうして今日は数が多かったんですか? ホントに今日はもう来ないんですか?」
まくしたてるように質問を重ねると、彼は煩わしそうに顔を顰めた。
何かを言おうとして、まあ良い、と独り言のように呟く。
「歳神の神域はこの家の四方の境まで。疫病神はその外側にいる。されど穢れがあれば神域は綻びていく。疫病神はそこを抜けて来るのだ。我がそうだったように」
わかったようでわからなくて首を傾げたら、春雷の君はやれやれというように溜息をついた。
「蚊帳はわかるか?」
「蚊帳? 蚊除けの、部屋の上の方から吊るす、でっかい網みたいなやつですよね」
「それに似たようなものだと思えば良い。綻んで開いた穴から虫が入ってくる。穴を見つけられない虫は入って来られない。されど穴が大きければ、入ってくる虫の数は増える。より大きな虫も入ってくる」
「じゃあ、歳神様の神域に穴が開いていて、しかも大きくなったっていうことですか?」
だったら、やっぱりまずいじゃないか。早く穴を塞がないと……!
焦り始めるオレに、彼は心配いらぬ、と苦笑いして淡々と先を続けた。
「綻びはひとまず直した。疫病神が活発に動き回る時刻も過ぎた。歳神は……疲れが溜まっているのであろう」
「休むだけで大丈夫なんですか? 何か他にしてあげられることは?」
彼は顎の辺りに手を置き、少し考え込むように目を細めた。
「そなた達は適切に日々の祀り事を行い、為すべきことを為している。あえて言うならば……祓いの力を持つものを上手く組み合わせることだ」
「祓い?」
「今の時期ならば、風鈴が良い。それも、出来れば金属のもの。澄んだ音色を疫病神は厭う」
風鈴なんて家にあったかな……。そういえば、じいさんが生きていた時には軒下に吊るしていたような覚えがある。リーン、と涼やかな音色が優しく揺れていた。
「されど、我が居る限り、効果はさほど期待出来ぬ」
彼の周囲だけ、闇がさらに濃く重くなった気がした。燭台から届いたごくわずかな明かりが、手のひらを見つめた彼の横顔を寂しく照らす。
「……己が恨めしい。穢れたこの身が厭わしい。歳神の身に触れることさえ出来ぬ」
そう言って春雷の君は両手で顔を覆った。微かにその体が震えている。
「あの。……春雷の君が歳神じゃなくなった時、一体何があったんですか」
触れられたくはないだろう話題。それはもちろんわかっているけれど。
「教えてください。オレも知りたい」
何があったのか。何が起こったのか。どうして守るべき家を滅ぼしたのか。何故あの疫病神達と行動を共にしていたのか。
これ以上深入りするなと父さんに叱られるだろう。歳神様達もあまり快く思わないかもしれない。
それでも、このまま何もわからずにいることの方が不安で。何か起こるんじゃないかと漠然と思い、必要もないのに疑い続けるのはもう嫌だ。
彼の手元から小さなくぐもった声がかろうじて耳に届く。
「……あの家は……我が遣わされた時には、既に異常な状態だった」
「歳神が天に帰らずに、家に留まっていたんですよね?」
手を顔から離し、春雷の君は頷いた。記憶を呼び覚ますように、ゆっくりと語り始める。
「四柱の貧乏神が祠に住まっていた。我と入れ違いで天に帰るはずだった歳神も祠へ戻り、貧乏神は五柱になった。
されど、異常だったのはそれだけではない。そなた、貧乏神が天に帰る方法を知っているか?」
尋ねられて、ふと気付く。
歳神が貧乏神になってしまう場合なら父さんや歳神様から教えてもらった。でも、その後どうやって天に帰るかは教えてもらっていない。貧乏神についてはほとんど何も知らないという方が正しい。
オレが何も答えないでいることを返事と受け止めたのだろう。低い声はそのまま続く。
「貧乏神が天へと帰るには、歳神であった期間と同じだけの期間、歳神であった時と同じように、人間に祀ってもらえば良い」
「もう一年、同じ祀り事をするってことですか?」
「そうだ。歳神が若者から老人へと姿を変えていくように、貧乏神は老人から若者へと姿を変えていく。
その家にいた貧乏神は、五柱目を除き、全て若者の姿だった。あれらは天に帰ることができる状態であったにも関わらず、帰らなかったのだ」
「帰らない? 帰れないんじゃなく?」
春雷の君は不愉快極まりないというように苦々しい表情を浮かべている。
「本来はあってはならぬこと。歳神は一年だけの勤め。天に帰ればそれぞれにやらねばならぬ役目がある。
貧乏神が家に留まることは、その家を滅ぼすことに繋がる。家が滅びれば貧乏神は再び老人の姿に戻ってしまう。祀り事を執り行う新しい家が見つからなければ、いつまでも天には帰れぬ」
貧乏神にとっては、万が一の場合のデメリットはかなり大きいように思える。それなのに、同じ家で、何年も続いて歳神が貧乏神に姿を変え、留まろうとするのは、何か特別な理由があるということか。
彼の瞳に浮かぶ苦渋の色はさらに濃さを増す。顔には陰惨とした翳り。青褪めた肌は病人のよう。
「あれらは……天に帰り、人に忘れられた神となるよりは、たとえ貧乏神となろうとも、その家の神として人に祀られる方が良いと考えたのだ」
「どういうことですか……?」
「遠き昔、我らは人と共に在った。互いに視線を交え、言葉を交わし、必要とあらば手を貸し、代わりに人は供物を捧げてくれた。
されど人は我らから遠ざかり、存在も忘れ、今では我らの姿を見ることも、言葉を交わすことも出来ぬ。いつしか我らは、人に思い出して欲しい、以前のように共に在りたいと願うようになった。
高橋の家はそれが出来る稀な家なのだ。我が遣わされたあの家もそうだった。あれらは人との繋がりが出来たことが余りにも幸せで、失うことが恐ろしかったのだろう」
まるで迷子になった子供のように、彼の姿はとても心細くて、とても寂しい。
「……我も、気持ちはわからぬでもない。されど、それを許すわけにはいかぬ。我は力づくであれらを天に帰そうとした」
「雷を呼んだんですよね?」
「あれらはそれを阻止しようとした。我が災いをもたらそうとしていると家の者に告げ、それを防ぐために我の真の名を呼べと言った。家の者は、我ではなく、貧乏神達を信じた。
そうして、我が雷を呼んでいる間に、人は我の名を呼んだ。我は歳神ではなくなり、春の雷の神に戻ってしまった。
我が呼んだ雷は、我の雷でありながら、我の雷ではなくなった。制御を失った雷は、人も、家も、焼き尽くした……」
虚ろな瞳が漆黒の闇を彷徨う。悪い夢を見ているかのように。
彼が救いたかった者は彼を敵とみなし、守ろうとした家の人間からも信じてもらえず、春雷の君は何もかも一人で引き受けたんだ。起きてしまった結果さえも。
そしてオレは、歳神様の力になりたいと言いながら、彼の全部を受け入れる心の準備なんて本当は出来ていなかったんだろう。その家の人間と同じように。
心臓をギュッと掴まれたように胸の奥が痛い。彼の姿をまともに正面から見られない。
目を背けたオレに、後はそなた達も知っての通りだ、と春雷の君は続けた。
「我はあれらと行動を共にし、祠を求めた。あれらを天に帰すために」
「……え? それって、まさか……」
「あの家が滅んだ時に、貧乏神は我を憎むあまり、疫病神に姿を変えた」
「ええ!? マジで!?」
脳裏に浮かぶ疫病神の姿。鬼やらいの後、彼らはつぎはぎだらけのボロを着た老人になって去っていった。でも。
「歳神様は、貧乏神も春雷の君の雷で滅んだって言ってましたよ!?」
「あれらは真の名を完全に失ってしまった。同時に、元の神気も失った。誰も気付かなかったとしても不思議はない」
「そのこと、歳神様は……」
もう話している、と溜息交じりの答えが返ってくる。
「あれらのために祠を奪い、人に祀り事をさせたこともあったが……名を失ってしまった故、上手くはいかなかった。
我も神力のほとんどを失い、名を忘れ、穢れを受けて疫病神となった。それでも我は、あれらを救ってやりたかった。そしてあれらは、天に帰るために我を利用することにしたのだ。
……あれらは我を赦しはすまい。あの家を滅ぼし、天へ帰る道を閉ざした我だけが、今こうして人に祀られ、天に帰る術を探している。全て、あれらから永遠に失われたものだ」
彼は立ち上がり、祠の方に目を向けた。身に纏っていた陰鬱な闇は彼がたてる衣擦れの音と共に去っていく。代わりに新たに身に纏うのは、息が詰まるほど清冽な意志。
「我が居る故、歳神には要らぬ負担を掛ける。全ては我が負うべきことで、この姫神には関係ない。我はどうなっても良い。されど、この姫神だけはなんとしてでも天に帰らせねばならぬ」
春雷の君はオレの方へと顔を向けた。真っ直ぐで、真摯な瞳がオレを鋭く貫く。そのきらめきは彼の雷のように火花を散らした。
「歳神のために力を貸して欲しい。我はあまりに無力で、何の役にも立てぬ」
冴え冴えと澄み渡り、ひたむきな表情からは彼の思いの強さだけが伝わってくる。気圧されそうなほどに。
その思いをしっかり受け止めたい。
きちんと応えてあげたい。
人として、彼らと共に在りたい。
そう思ったオレは、はい、と大きく首を縦に振った。彼自身がいつの日か救われますように、と願いながら。




