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去る年 来たる年  作者: 雪月 音弥
10/18

挿話:七夕

 隣に並んだ祠の前で、姫神が興味深そうに目を輝かせている。春雷はその様を表情にこそ出さなかったが、内心では愉しみながら見つめていた。

 姫神の視線の先には若い人間の男が一人。細長い紙に文字を書いては、笹に括り付けることを繰り返している。

 おそらくは彼の父親に言いつけられたのだろう。時折、子供のようなあどけない表情を見せている。

「ーーそれは、何だ?」

 春雷が問いかけると、尚樹はきょとんとした顔を向けてきた。

「何をしている?」

 重ねて問うと、ああ、これですか? と青年は笹を少し持ち上げてみせた。

「七夕の笹飾りですよ。短冊に願い事を書いて、笹に飾り付けるんです」

 こんな感じで、と彼は短冊を数枚、ひらりとこちらへ向けた。乱雑な文字。読みづらい。

「ご存知ない、ですか?」

「知らぬ」

 素っ気なく応えた。

 全く知らないというわけではない。ただ、己が良く知っている風習とは違うというだけだ。

 機を織り、天から降りて来た水神を迎え、一夜限りの妻となる娘。棚と呼ばれる高床の小屋に籠るその娘を棚機津女たなばたつめと呼んだ。

 穢れなき娘を天へ連れ帰る水神もあった。それを羨む神もいた。だが、人間の命はあまりに短い。永きを生きる神々には刹那的に過ぎる。僅かな記憶ーーあるいは思い出と呼ばれるものーーのために人間を側に置くことは、愛というよりは、自己満足に近いのだろう。

 しかしそれも、今は廃れてしまった。水神のために機を織る娘はいない。風習は形を変え、有り様も意味合いも変わってしまった。人間には忘れ去られた儀式。忘れ去られた水神達。

「そうですか。……折角だから、何か願い事を書いてみませんか?」

「ーー願い事など」

 ーー人間がすることだ。

 神はそれを聞いてやるのが役目。時折、気まぐれに叶えてやるのが役目。

 春雷がきつく眉根を寄せたのを見て、尚樹は気まずそうな顔をした。

「私はやってみたいです」

 朗らかな声が玉のように響き渡る。見ると、姫神がウキウキと期待を隠しきれずに顔を綻ばせている。

 意外だった。春雷がよく知っている彼女は、人間の真似事を進んでするようなことはなかった。ただ春雷の後ろに従って、言われるままに、春雷に倣って行動していた。

 それが今では目をキラキラと輝かせて。彼女もまた、あの悪しく穢らわしき者共のように人間の影響を受けつつあるのか。

「じゃあ、どの色の紙にします? 赤、白、黄色、水色……」

 取り出された色とりどりの紙。暫く悩む風を見せた彼女は、あのぅ……、と小声で言った。

「私、願い事が二つあるのですが……いけませんか?」

 おずおずと顔色を窺うようにして。人間を相手に、そのような必要はないにも関わらず。

「全然、構いませんよ! 好きなだけ書いていいんです」

 青年はニコリと笑うと、自身が書いた短冊を彼女の目の前に広げてみせた。

「オレなんて、健康第一だろ、お金が欲しい、彼女が欲しい、美味いものが食いたい、それから……」

 尚樹は順番に読み上げていく。まるで欲の塊だ。これで穢れなき身であるということが不思議なくらいだった。

 姫神はクスクスと笑む。母のように温かく見守るような瞳で。

「では、二枚、いただきますね」

 そう言って、薄桃と赤の紙を選んだ。尚樹が筆を渡そうとするが、彼女には大きすぎた。

「言葉には力があります。文字にせずとも、口の端に乗せるだけで良いのです」

 彼女はそう声にして穏やかに断ると、片手で短冊を持ち、もう片手をそっと紙に添える。

「私の一つ目の願い事。それは、高橋家の皆様がこれからもずっと良き日を過ごされますこと」

 優しい響きを奏でながら、彼女の口から溢れでた言葉。淡い光を帯びたそれが紙に触れると、一瞬、文字が浮かび上がり、儚く消えた。尚樹が不思議そうな面持ちでそれを眺めている。

 新しい紙を手に取り、二つ目の願いを口にしようとした姫神に、彼は制すように口を挟んだ。

「二つ目の願い事、オレが当てても良い?」

 馴れ馴れしいと眉を上げたくなる言葉にも、彼女はやんわりと微笑んで、どうぞ、と答えた。

「春雷の君が無事に天へ帰れますように! だろ?」

 思ってもいなかった応えに、春雷は耳を疑った。しかし、尚樹も、姫神も、ニコニコと満面の笑みを浮かべて己を見ている。聞き違いではないらしい。

「当たり、です。さすがは尚樹殿。お見事です」

 春雷が呆気に取られている間に、彼女は人間が口にしたものと全く同じ言葉を唱えた。紙に刻まれた仮初めの言葉。再び泡のように消えて行く。

「ーーそれは」

 願い事ではない。願っても、神々が聞き入れるはずがない。

 そう言いかけて。

 ーー止めた。

 尚樹はともかく、姫神は理解っているはずだった。それをあえて願ったのだ。

 ならばそれを否定することは。

 彼女の思いを否定することは。

 春雷には、出来ない。

 彼女から受け取った短冊を、尚樹は手際よく笹に括り付けた。そして、新しく何も書かれていない短冊を手に取り。

「さあ、春雷の君も、どうぞ」

 晴れやかな笑みと共に差し出した。

 暫しの逡巡の末に受け取る。藍染の、少しザラザラとした手触り。

 二人の視線がじっと向けられて。居た堪れないような、むず痒いような、そんな感情が内から湧き上がる。顔の表面が熱を帯びる。

「ーー願いは他人に聞かれぬようにするものだ」

 照れ隠しにそう言い放ち、春雷は静かに目を閉じた。ゆっくりと息を吐き、吸い、心を落ち着けて。

 尚樹にも姫神にも聞こえぬよう、小さく、小さく、呟いた。

「ーー我の穢れは、我の他には誰も穢さぬ」

 願っただけでは叶わぬと知りながら。

 それでも、胸の奥で繰り返す。

 何度も、何度でも。

 強い思いが望みを現実に変えてくれると信じて。

 ーー己も姫神と同じように、人間に歩み寄ってみるのも良いかもしれぬ。

 紡がれた言の葉は淡く青い光を放ち、短冊に刻み付けられ、そして跡形も無く消え失せた。

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