第二話
わたくし、咄嗟になにも出来なくて。
きっとすぐに「御機嫌よう」と言えば良かったのです。そうすれば、ただ隣の組の御学友に声を掛けられただけで済みましたのに。
お嬢さんの今日の髪型は、両端のおさげで丸く耳元を隠すラジオ巻きです。いつもは後ろ頭に大きなリボンで三つ編みを束ねる、マガレイト結びにされているのに。
わたくし……知っていたんです。佐伯先生の噂の御相手が、こちらのお嬢さんだって。
佐伯先生に、いつもとは違う髪型を見せていらしたのかしら。そして先生は、お似合いになることを褒めていらしたのかしら。
明日わたくしがラジオ巻きにしたなら、佐伯先生は気づいてくれるかしら。マガレイト結びにもなにも仰らなかったから、無理かしら。
「あの、わたくし菊組の赤坂チヅと申します」
少し息が上がって上気した頬で、お嬢さんは名乗られました。存じ上げておりましたけれど、わたくしは「そうですの。御学友ですわね」と申しました。
「あの、お昼の……業間お休みのときに……わたくし、宗二郎さんとお話ししておりました」
胸が詰まるような、反対に爆発してしまうような心持ちでした。知っていますとも。わたくしは努めて抑えた声で「そうですの」と呟きました。
本当は叫び出したかった。
「あの、お姿を拝見しました。もし、なにか誤解なされていたら、と思いまして。わたくし、洋算がとても苦手で。分からないところを宗二郎さ……あ、いえ、さ、佐伯先生に……教えて頂いていたのです。そろそろ学校も御暇ですから。少しの時間も惜しかったのですわ。学べることは学んでおきたくて」
早口で仰るお嬢さんは、とても綺羅々々とした瞳で、とても愛らしい。恋をなさっているのね。分かるわ。わたくしも婚約が成ってから、いくらかは奇麗になったと言われます。
でも、それでは足りなかったのでしょうね。
わたくしがなにも申さずにおりましたら、赤坂さんはとても慌てたような、困ったようなお顔をされて、わたくしを御覧になります。困っているのはわたくしでしてよ、と言いかった。けれど慎みました。こんな人通りの多い処で言い立てるようなことではありません。
「そうですか。佐伯先生に宜しくお伝え下さいまし」
会釈して、踵を返しました。赤坂さんはそれ以上、追い掛けては来られませんでした。
家に着き、誰かに見咎められぬように息を殺して自室へと行きます。幸いにも、家人は皆店に出払っているようで、今は静かな時間が欲しいわたくしの気持ちを理解してくれているようでした。
祖母から譲り受けた朱珠杢目の三面鏡を開き、その前に座ります。三方から映されても、わたくしは赤坂さん程に美しくはありません。わたくしもマガレイト結びにしてみたのに、わたくしはわたくしでした。あんなに色白ではなく、そばかすが沢山で、瞳も小さい。懐紙で頬の水白粉を拭い、リボンを引いて、マガレイトを崩しました。
そして……懐から螺鈿細工の円手鏡を取り出して、伏せてそこに置きました。
「お嬢様、帰っておいでですか」
少ししてから、襖の向こうから嗄れた声が掛かりました。わたくしは卒の無い笑顔を作って「ええ、ばあや。おりますよ」と返します。
「佐伯先生がおいでです。お話ししたいと」
「そう。お店にお通しして」
「茶の間ではなく店ですかね」
「ええ、お店へ」
わたくしは、急いで海老茶色の袴を脱ぎ、汚してしまった浅葱色の色無地も脱ぎました。そしていつも着ている茶筅柄の小紋に着替え、前掛けをします。
そうすると女学生の姿はすっかり消え、柏木商店のカヨになるのです。
お仕事だと思えば。
そうすれば、母のように振る舞えるでしょうから。
佐伯先生は所在無さ気に店先に立っておいででした。いつもでしたら店の者たちと談笑したり、帳簿を預かってじっと御覧になっているのに、それもありません。まるで余所の人みたいだわ、と思いました。それは穿ち過ぎでしょうか。
「お待たせしてしまいました、佐伯先生。ばあや、冷たいお茶があったかしら?」
「はいはい、お出ししますよ」
白々しくわたくしが言うと、ばあやは台所へと向かいました。なにかを察したでしょうに、顔色にも出さずに。
店内には洋装の男女がいらして、店の者から来月入る額装の説明を受けていました。ときおり立ち寄られる画家の御夫婦です。わたくしがそちらに御挨拶し終えるのを待って、佐伯先生は仰います。
「あの……柏木君。中では駄目かい?」
「あら、こちらでようございますわよ。――寛太さん、後で今日の売り上げ帳を見せて頂戴」
「はいよ、お嬢」
店奥の帳場に置いている猫足の洋卓と、座板と背板に赤い天鵞絨の布張りがされた揃いの椅子を勧めて、わたくしが先にそこに座りました。海外で人気の、よく高級客船の内装に用いられる桃花心木という材木で作られたものです。父はこれだけは手放さないと言い、御得意様や高価な品物の交渉事があるときに用います。
わたくしがいつも父が座る席を譲らず、その隣の椅子に座ったことで、店の者たちは皆なにかを感じ取ったようです。けれど、心の賢い者たちばかりですので、余計なことを申しません。
そして、異変を感じ取ったのは佐伯先生も同じこと。
ゆっくりと、わたくしの向かい側に座られました。
「あの……柏木君。恐らく君は、今日の業間休憩のことを重く捉えているのだと思うが」
「今日の業間休憩が、いかがなさいましたか」
わたくしが尋ねたときにばあやが冷茶を運んで来ました。お互いにじっと黙って、ばあやが下がるのを待ちます。
そして、一気に冷茶を干されました。
「……菊組の赤坂チヅ君と、立ち話をしていた。彼女はもうすぐ退校するものだから、それまでに学業をしっかりと修めたいと」
「左様でございますか」
わたくしはそう相槌しました。佐伯先生は居心地が悪そうに座り直し、冷茶を見詰めているわたくしに仰います。
「怒っているのだろう? 見ように依っては二人きりで会っていたように思えたかもしれない。君が、立ち去る様子が見えた」
「左様でございますか」
「チヅ君は勉学熱心なだけだ。要らぬ懸念を生じさせてしまったのでは、と、君と話して思ったようで、彼女も心配している」
わたくし、思わず笑ってしまいました。声が出てしまったので慌てて口元を隠します。はしたなかったですわね。
わたくしのその反応を、どう思われたのでしょうか。佐伯先生もほっとしたような笑顔を作られて「分かってくれて嬉しい」と仰います。
「はい、いろいろ承知いたしました」
「良かった」
「はい。本当に良うございました。今なら結納前ですので」
わたくしは、佐伯先生の顔を真っ直ぐに見てそう告げました。余所の人が、言われたことの意味が分からなそうにわたくしを見返しました。その御顔を見たときに、端正な面立ちだと思いますけれど、もうわたくしの胸は高鳴りません。
「幸い、今父は国内におりますの。直ぐに連絡が着きます」
「どういうことだい、柏木君」
緊迫感のある声色。わたくしの述べることが、流してよいことではないとお気づきになられたよう。
「佐伯先生。わたくしたち、夫婦になるまでは教諭と生徒。なので、互いにそれを自覚するためにも、その距離を保ちましょうと約束しておりましたね」
「……ああ」
「赤坂さんは、佐伯先生を宗二郎さんとお呼びでした」
佐伯先生の目が見開かれます。わたくしは加えて「佐伯先生は、赤坂さんをチヅ君と御名前で呼ばれました」と言いました。
「それは、教諭と生徒の距離なのでしょうか」
「……君たち女学生たちは、名前で呼び合うではないか。なので、そちらの方が分かりやすいかと思ったんだ」
「わたくしたち、名前で呼び合うのは同じ組か、友人か、仲良しの気に入りの子だけですのよ」
店の中が鎮まり返っています。画家の御夫婦は無言で席を立たれました。申し訳ないことです。決して他言はなさらないでしょうけれども、耳にしたことはきっと心に刻まれたでしょうね。
佐伯先生は言葉を探しておられるようで、何度か口を開いて閉じてを繰り返されました。わたくしはその内容を待たずに、思ったことを告げます。
「わたくし、赤坂さんとは、今日の下校途中に初めてお話しいたしましたの。わたくしと赤坂さんが会話したことをご存じだなんて」
わたくしが校門前でヨシさんと別れて、まだ半刻程度なのです。どうして、わたくしと話した赤坂さんが、わたくしのことを懸念しているとご存じなのでしょう。
「こちらへいらっしゃる前に、校外でも赤坂さんと会われたのですね?」
きっと、赤坂さんがわたくしを追い掛けて話すことをご存じだった。
きっと、その結果を聞くために、約束をしておられた。
佐伯先生は血の気の引いた御顔をされています。
「違う、会っていない!」
「では、業間休憩のとき。御二人でなにを話されていたのですか?」
わたくしは、佐伯先生から目を逸らしませんでした。先生はあちらこちらと視線をやって、途切れ途切れに「ああ、午前の授業について」と仰います。
「今日、佐伯先生は午前の授業がなかったではありませんか」
「……赤坂君が受けた授業の内容を」
「それは教科の教諭に尋ねれば良いと思われませんか?」
「捕まらなかったのだと言っていた」
「どの教科?」
わたくしの心は、ひと呼吸毎に冷えて行きました。
「……外国語を」
「左様でございますか。わたくしも教わりとうございましたわ」
佐伯先生は英語が堪能なのです。そんな処も見込まれて、我が家の婿になる予定でした。
わたくしが心からの本音を申したのが伝わったのでしょうか。佐伯先生は居住まいを質してわたくしを御覧になり、仰います。
「なんだ、そんなことか。何時でも私に聞いてくれたらいい。確かに、教諭と生徒の距離と約束はしたが、カヨ君に私から教えることになんの障害があるだろう。ち……赤坂君のことは、余計な心配だ。なにも無い」
ほっとしたような笑顔です。こんな顔もされるのですね。わたくしも笑顔です。女学生として接されて以来、初めて「カヨ君」と呼ばれました。佐伯先生の肩が下がります。それを見ながら、わたくしは述べました。
「赤坂さんは、算術の質問をしていた、と仰いましたわ」
世の中から音が無くなって、時間が止まったのではと思う程でした。
先刻の、赤坂さんの訴えと、今の、佐伯先生の弁解で――
もう、なにもかも遅いのだ、と理解出来ました。
「寛太さん、佐伯先生がお帰りよ」
わたくしが店中に声を投げると、すぐに「はい、お嬢」と返って来ました。




