第一話
こんな夜更けに未完新連載かよ
見てはいけないものを見てしまいました。第二時限目の算術を終えた後の、業間休憩中に。
校舎の裏側へ行ったのは、予感が、どこか胸に迫る切なさがあったからです。たまたまではありませんでした。
そこにいらしたのは、わたくし柏木カヨの、婚約者である佐伯宗二郎先生と――もうひとり。
朝方に少しだけ降った雨の残り香の中、急いで立ち去って、自分の教室へと駆け込みました。
佐伯先生の呼び声が、幽かに聞こえた気がいたしました。
佐伯先生は、本日第二時限の授業をお持ちではありませんでした。愛しい婚約者様のことですもの、存じ上げております。
だから、時間に余裕があって、先に行って待つことも出来たのでしょう。
今日この日を選んで裏庭を覗いたわたくしは、勘がいいのかもしれません。
先生は……お隣の菊組の可愛らしいお嬢さんと、ひっそりと寄り添い、微笑み合っていらしたのでした。
それは、まるで、恋人のように。
わたくし、泣きもせず、喚きもしなかった。
ただ目にしたありのままの現実が、胸に重しのようになって心を屈ませます。
佐伯先生は、父の商いで長く懇意にしている、卸問屋の御次男です。初めてお会いしたのは、わたくしが十のとき。三つ揃えの茶色い背広がお似合いでした。
誰にも申したことはございませんけれど、それからずっとお慕いしておりました。初恋でしたの。
授業を受けながらも、頭の中を取り留めない言葉が行き巡りました。口を開けばきっと愚かな言葉を述べたでしょう。
でも、声が出ませんでした。それで良かった。
わたくし、愚かな女になどなりたくないですもの。母のように賢く、良い妻として家を守るのが夢なのです。
「一家の主婦は、常に家の中を整えて、家族の者が、皆愉快に暮らすことが出来るように心掛けねばなりません。また、家計に注意して、無駄を省き、蓄えをなすことが大切であります」
修身の授業を担当されている教諭が、朗々と読み上げた教科書のその内容は、正しく母を言い表しているのでした。わたくしは言葉に依らず、母の行いにおいてそれを学んで参りました。
父は、店を大きくするため時には外国まで買付けに行き、飛び回っています。文句のひとつも言わずに支える母の背はとても大きく、強く、美しい。我が家の入り婿として、店をひとつ任されることになる佐伯先生の、妻として。わたくしもそう在りたいと思って参りました。
母は、こんなとき、どうするのでしょうか。
夫が、他の女性と寄り添っている場面を見たら。
わかりません。想像もつきません。
修身の授業は、わたくしの知りたいその処を上手く避けて進んでいるようでした。
詰めていた息を静かに吐いて、思い出したように胸一杯に空気を吸い込みます。そしてふとまた息を止めては、同じことの繰り返し。
なので、それに気づいたのは、いろいろな想いを整えながら午後をやり過ごし、本日最後の振鈴が鳴らされた後。裁縫の授業を終えた時でした。
「……あら、嫌だわ。袂が汚れてしまったのね」
校舎の陰を通るときに、泥を跳ねてしまったのでしょう。手でいくらか叩いてみましたけれど、ぴくりともしません。
せっかく、父が祝いにと仕立ててくれたばかりの色無地でしたのに。
「……わたくしには、まだ早い、と謂うことかしら」
未婚の女学生らしい矢絣柄を脱いで、早々と大人ぶった自分を、わたくしは嗤いました。
実は、いくらか前に、耳にしておりました。
佐伯先生には、好い人がいるのだと。
背が高くて、わたくしより九つ歳上で、何処か遠くを御覧になっているような眼差しの、奇麗な笑顔の素敵な男性。
そんな方ですから、女学生から人気があります。なので、婚約を持ったわたくしに、やっかみを込めて囁く方もいらしたのです。
ただの噂だと思いたかった。
でも、目にしてしまった。
着物の合わせから、小さな円い螺鈿細工の手鏡を取り出しました。こちらは、婚約が成る前に、佐伯先生から頂いたものです。
わたくしの顔を映しました。あのお嬢さんのように愛らしくはなく、水白粉を薄く刷いても透けてしまうそばかす顔。
佐伯先生は、わたくしが鏡を厭うのに気づいておいででした。だからこちらをくださったのです。
「貴女のそのそばかすは、貴女らしくて素敵だよ」
その笑顔に、わたくし、もう一度恋をしたのです。
泣いたりしません。惨めですもの。
それでも、円く小さい鏡面に映るわたくしは、どこか歪んで見えました。
「卒業面にちょうどいいわね」
鏡をぎゅっと握って、わたくしは呟きました。今まで考えもしなかったことです。女学校を卒業する、と謂うこと。
それは、年頃の娘としてとても恥ずかしいことです。
皆さん、学生のうちに婚約がまとまり、卒業を待たずに寿退学なさるのが『普通』なのです。修身で学んだ『良妻賢母』に成り得ると見込まれたなら、良縁があるものだとされています。わたくしの藤組も、半数まで生徒が減りました。
でも、良い方を見つけられずに、そう出来ない方もいらっしゃいます。そんな方は、陰で不美人の札を貼られて「卒業面」と呼ばれてしまうのです。昨年卒業されたお姉様方が、何人かそう囁かれていたのを知っています。
「カヨさん、どうなさいましたの。ぼんやりされて」
同じ藤組の級友である、ヨシさんがおっしゃいます。こんなに遣る瀬無い気持ちなのに、こんなに打ちのめされているのに、わたくしは努めて笑顔を作り、応えます。
「わたくしったら、せっかくのお着物を汚してしまったのよ」
「まあ、そちら、初めてお召しになられたのではなくて? とても素敵な浅葱色だわ」
「そうよ。仕立てたばかりなの。情けないわ」
ヨシさんは気遣わし気に舶来物の奇麗なハンケチを出して下さいました。でもわたくしは「あら、ありがとう。でももう乾いてしまったから、家で染み抜きをいたします」と申しました。
そして、ずっと黙っていたのに、口を開いてしまったからでしょう。少しだけ、本音がこぼれてしまいました。
「……とても、辛いわ」
「そうね。落ちるといいわね」
ヨシさんは、とても善い方。真剣に、そう言って下さいました。
わたくし、ただうなずくことしかできなかった。
昨年、佐伯先生の御実家から父を通してお話が来たとき、わたくし、言葉を失う程に驚きました。
父も、母も、否やはございません。兄もとても喜んでくれた。
けれど、午後の授業の間、ずっと考えておりました。
先生の、いつも遠くを御覧になっている佐伯先生の、お嬢さんを見詰める瞳。わたくしは、あんな熱い眼差しで見詰められたことはあったかしら。
記憶に、なくて。
……わたくしは思い詰め、思い切りました。
この御縁は、きっとわたくしの夢だった。都合のいい、歳若いわたくしが、自分のために見た夢だったのです。
そう思うことにいたします。
だって、わたくしではない、他の誰かを想う方を、夫として慕うことができるかしら。
この人はわたくしではない方を好いておられるのだわ、と思いながら、妻として支えることができるかしら。
わたくしには、まだ十六に過ぎないわたくしには、そんな覚悟は、持てません。
なのでわたくしは、このそばかすのある卒業面で、女学校を卒業しましょうか。
そう思うと、少しだけ気分が上向きます。父にお願いして、父の店の女主人を気取ってみようかしら、なんて考えて。それって、とてもハイカラじゃないかしらと思うのです。
それに、断髪して流行りのモダン・ガールになるのはどうかしら。怒られてしまうかしら、と、いろいろ思いを霧散させました。
空元気でも、出さぬよりは増しでしょう。
でも、そう考える傍ら、もしかしたらと謂う気持ちもあるのです。わたくしの心はとても弱いのだな、と思います。
少しの希望を、可能性を、考えてしまいます。
ただ二人は、そこでたまたま行き会って、挨拶をしていただけかもしれない。
不適切な距離ではあったけれど、転びかけたお嬢さんを、佐伯先生が支えただけかもしれない、と。
そう思いながら、佐伯先生本人に尋ねることは恐ろしいのです。
ヨシさんと下校するときに、佐伯先生と廊下で行き合ってしまいました。
その眼差しは、とても強く……これまで、わたくしに向けられたことのないものでした。
わたくし、今までとは違う胸の高鳴りを覚えました。とても逼迫して、居ても立っても居られない程の。なので、帳面や筆箱の入った風呂敷包みを確と両手で胸に抱き締め、ヨシさんと一緒に会釈して通り過ぎようとしました。
「――柏木君」
低い声のその呼び掛けは、どこか切迫したものに思えたけれど、聞こえなかったことにいたしました。わたくしが早足で外へ向かうのを、ヨシさんは慌てて追い掛けて来られました。
「ねえ、カヨさん? 佐伯先生がお呼びではなかった?」
「そうかしら。わからなかったわ」
少し、不自然だったかもしれません。でもヨシさんはとても善良な方なので、疑うことなくただ不思議そうな顔をされただけでした。
わたくし、それが少し可笑しくて。うふふ、と笑いました。少しだけ涙が滲みました。
――佐伯先生、言い訳をなさろうとしたのだわ。
――きっと、わたくしが見てしまったことに、気づかれたのね。
「さあ、行きましょう! 愛しい我が家へ帰りましょう!」
わたくしが声を張り上げると、ヨシさんは笑って「イエス、マム!」と、お互いに夢中で読んだ海外の翻訳小説の台詞を言いました。その瞬間は、わたくしも本当の笑顔になりましたわ。
すっかり雲がなくなって、晴天の校庭を歩くと、誰も彼もがわたくしをじっと見ているような気分になりました。なにも隠し立てできず、わたくしの気持ちは全て筒抜けで、皆がわたくしのことを嗤おうと待ち構えているのではないかと錯覚したのです。
だからこそ、殊更背筋を伸ばして歩きます。
負けません。誰にも。わたくしの矜持は、誰にも折らせません。泣くものですか。
ヨシさんとは、校門の処で「また明日ね」と会釈して別れます。
「あの、ヨシさん」
「なあに?」
「……いえ。……今度、一緒に、喫茶室へ参りませんこと?」
「まあ、素敵ね! 流行りの三色アイスクリンを喫したいわ!」
「ええ、わたくしも!」
本当はもう少しお話ししたかった。今のわたくしの胸の内を聞いて欲しかった。けれどそれは、言うべきではないことを口にするだけだと思い、誤魔化して話を切り上げました。母なら、きっとそうすると思ったからです。どんな労苦があっても決して弱音を吐かない、母ならば。
それは、正しかったと思います。
歩き始めて少し経ったとき、駆け寄る小さな音が背後にあって、鈴のように美しい声で呼び掛けられました。
「あの、もし。蝶華女学校の、藤組の……」
繁華街に差し掛かる道すがら、人の出入りは多くありました。けれど、わたくしの通う学校は蝶華です。そして藤組とのことですので、恐らくわたくしのことでしょう。
そう思い、振り返ると――
そちらにいらしたのは、業間休憩の折に佐伯先生と裏庭で一緒にいらした、菊組のお嬢さんでした。
深く後悔いたしました。




