蛇足 それは、ありえなかったけれど
ルシアン・アインホルン男爵。王都でも有名な薬屋の二代目店主として敏腕を振るう彼の元にその手紙はもたらされた。
長年の友人である、ミハイル・ライン伯爵からの頼み事である。簡単に断ることはできない。
夜の書斎で彼は頭を抱えていた。
この手紙を渡すべきか否か……。幾度となくため息をつき、日の落ちた空を窓から見上げた。
どれほど悩んだだろう。もう、リビングから賑やかな声は聞こえない。そっと書斎から出ると、旅に必要なものを頭の中で整理しつつ、妻の待っているだろう寝室へと向かう。
遠出をすることを、愛する妻に伝えなければならない。子どもたちは寂しがるだろう。
それでも、この手紙は……。
「おかーさん! 大変だよ!!」
「リオ?」
洗濯をとりこむ手を止め、私は慌てて走って来た少女視線に合わせてしゃがむ。すると、足元で戯れていた黒と白の斑猫と、三毛猫が戯れ合いながら走って逃げていった。
リオはまだ7つにもならない子だが、のんびりした子で滅多に声を上げない。彼女が慌てるなんて何があったのだろう。
「リオ、一体どうしたの?」
「ハンナがね、町の子を殴っちゃったんですって!! それでさっき戻って来たんだけど、お部屋に閉じこもっちゃってね、いんちょーせんせーも困っちゃったって!」
「まぁ、ハンナが?」
ハンナはリオよりも年上で、それこそ年長者として施設員の手伝いをしてくれたり幼い子たちが怪我をしないようにと見てくれる優しい子だ。そんなハンナが簡単に手を出してしまうとは思えない。
そう思っていると、一緒に手伝って洗濯をとりこんでいた子たちが、あとはやるからと私の手から洗い立ての服を持っていく。
私は礼を言うと、早足で施設へと戻った。
40になろうとする体は、若い頃のように走ることはできない。息を切らしながらハンナの部屋に向かうと、部屋の扉の前に院長と数人の施設員がいた。
「院長……」
「鍵はかかっていないが、私たちが話しかけても答えてくれんくてなぁ……」
ハンナたちの部屋の前で、どうしたものかと目を伏せた。
「私もお話を聞いてみますね」
「あぁ。聞いた話だと、町の子と口喧嘩をして、ハンナが手を出してしまったらしいんだ」
「喧嘩の内容は……?」
「……相手の子もハンナも教えてくれないのだ……だが、おそらく……」
「そう、ですか……」
息を整え、部屋に入る。
ハンナの姿はすぐには見つけられなかった。
探すと、棚と壁の間に小さく体を丸めて隠れるようにじっとしていた。
少し泥が服についていて、泣いたのか目元が赤く腫れている。
そんなハンナを心配そうにトラ猫が寄り添っていた。
「ハンナ、怪我はない?」
そう聞くと、彼女は顔を上げて私を見る。そして、なぜかみるみるうちに涙が溢れ出し、声を押し殺して泣いてしまった。
辛いことがあったのだろう。
静かに横に座ると、そっと肩を抱いた。
「大丈夫よ」
それから、どれだけ経っただろうか。
寄り添っていたトラ猫が丸まって眠り始めた頃、泣き止み、落ち着いたハンナはぽつりと言った。
「……偽物の家族とお母さんごっこしていて楽しい? って言われたの」
けんかの理由はある意味単純で、どうしようもないことだった。
ハンナは町の子に孤児院の子どもと馬鹿にされたのだ。親のいない子、施設員の人々との関係を。
「そうだったのね」
修道院の隣にある孤児院。ここには、多くの子どもらがいる。
彼らは親に捨てられた子、親が死に引き取り手の居なかった子などが大半だ。
そんな心無いことを、彼らに言うなんて。
「辛かったのね」
「……」
またハンナの目に涙が浮かび上がって、ポロポロと落ちていく。
トラ猫が目を開けるが、すぐのまた目を閉じた。まるで寄り添うようにハンナに頭を擦り寄せる。
「でも、だからといって手を出してしまうことはいけないことよ」
「……」
ハンナは暴力がいけないことだとわかっている。それでも、それでも許せなかったのだろう。
ハンナも謝りにいかなければならないが、相手側ともしっかり話す必要がある。
私が部屋を出ていくと、院長だけが残っていた。
壁が薄いので、少しだけ聴こえていたようだ。
「相手は、この孤児院をよく思っていなかった一家の子でな。きっと、親の話を聞いて言ってきたのだろう」
「まだ小さな子どもにとって、親とは世界のすべてですからね……」
それでも、良いことと悪いことはある。それを教えるのが、大人の、子の保護者たる者の役割なはずだ。
やりかけだった洗濯物が気になり向かうと、もう取り込み終わって、数人の子どもが遊んでいるだけだった。中で畳んでくれているのだろう。
それを手伝いに行こうとすると、遠くから誰かが馬に乗ってやってくるのが見えた。
もしや、ハンナが手を出してしまった子の保護者かもしれない。思わず近くにいた子に院長を呼ぶよう声をかけてから、その誰かに会いにいく。
徐々に見えてくる。
どこか聞き覚えのある声が聞こえる。
彼はーー
「エレノア姉さん!」
「ルシアン?」
私の弟だった。
すでに三児の父であるルシアンは、年に数回家族を連れて、もしくは一人で修道院にやってきていた。
だが、こんな連絡もなしに急にくることはいままでなかった。
「どうしたの、ルシアンっ! なにか、あったの?」
神妙な顔つきのルシアンに、思わず身構える。
両親かルシアンの妻や子がまさか、いやそんなことはないはず。
とにかく表情が暗くて固くて、悪い報告なのだろうと身構えた。
「これを、預かってきたんだ」
そう言って、少し黄ばんだ封筒を出した。
大きく検閲済みというハンコが押され、封はされていない。
まさかと、受け取る手が震えていた。
「オスカー、さま?」
もう、会うことはない、会えるはずのない元婚約者様の名を呟いた。
「僕は読まなくてもいいと思う……殺人鬼からの手紙なんて」
ルシアンはそう言うが、その表情は苦しそうだった。
きっと、悩んだのだろう。この手紙を私に届けて良いものかと。
ルシアンは、あの惨劇を見たうちの一人だ。私を追いかけて、血塗れの彼を見てしまったのだ。
それでも、この手紙は届けられた。
「ありがとう、ルシアン」
すぐに手紙を読む勇気はなかった。あれから、幾つもの季節が巡ったというのに。
握る手は意識しないと震えて、声がうまく出なかった。
ルシアンは、苦々しそうに手紙を見つめていた。
そんな私たちを子どもたちに呼ばれてきた院長が見つけて、私たちは客室へと連れてかれた。
エレノア様
貴女がこの手紙を読んでくれることを願って
貴女と別れてから20年、短いようで長い時間が過ぎました。
貴女に、どうしても伝えないといけないことがあり、こうして筆を取りました。
私は塔に送られて、初めて自由を感じました。今思えば、馬鹿なことです。
人のような何かと常に接していなければならなかった頃よりも、ずっと自由だとその当時はそう思っていたのです。
けれど、それはある青年が来たことで終わりました。
彼は、婚約者を私に殺されたと言いました。
私は、私を愛していると言った方しか殺した覚えはありませんので、彼の婚約者は婚約相手がいるにも関わらず関係のない男に愛を囁いたと言うことです。それでも彼は復讐に来ました。
それを、私は馬鹿正直に伝えましたが、彼は復讐を止めることはありませんでした。
檻が壊れず、鍵が見つからないので火を放とうとして捕獲されました。その中で、彼は叫び続けていました。
許さないと、殺してやると、お前の大切な者を殺してやると。
その時の私にはよくわかりませんでした。
どうして物が壊れただけでそんなに叫ぶのか。
それに、私には大切な物なんてないから、殺したところでなんとも思わないのに。
それなのに、ふと貴方の顔が浮かんだのです。
もしも貴女が殺されたら、と。
彼と同じように彼を殺しに行っていたのだろうか。
なぜそんなことを考えたのか、すぐには分かりませんでした。
私にとって、貴女が大切なモノになっていたことに、その後気づいたのです。
それから、彼と私が同じことを思っているとようやく気付きました。
彼は私と同じなのだと。
彼は私と同じ、生きている存在なのだと。
なら、私が弟を殺したと思い込み、私を殺そうとしたあの人は?
やはり、私と同じ生きている存在だった?
それから、ずっと考えました。
時間だけはありましたから。
生きていると言うことを、ずっと考えていました。
私がただ愛したいという身勝手な理由で殺した彼女たちは人だった。彼女たちを愛していた誰かがいた。
それがどう言うことなのか、私がした事はなんだったのか、ようやく理解したのです。
こんなに長い時間がかかってしまいました。
けれど、ようやくあなたの言いたかったことが少しわかった気がします。
私はようやく、自分の罪を本当の意味で知ることーーーーーー
一筋の涙を流した姉に、ルシアンは動揺して思わず手紙を奪おうとした。
やはり、あの男の手紙など受け取らなければよかったのだ。
だが、エレノアは首を振ってその手紙を離さなかった。
友人ミハイルの養母ヒルダ・ラインからおおよその話は聞いていた。あの姉の元婚約者オスカーがされていた虐待、それによりどんな思考を持ち、何を行ったのか。
ヒルダは数年前、そこにはいないオスカーに謝りながら亡くなった。病死だった。
養子をとり、穏やかに暮らしていると思っていたのにとエレノアが泣いて悲しんでいた姿を思い出す。
ずっと姉だからと弟を守ってくれていたエレノア。
もう、エレノアには泣いてほしくなかった。
大人がいないからと劇場に入れなかった時、もう少し大きかったら弟に見せられたのにとにじんだ涙を隠していたこと。
弟の誕生日を二人だけでお祝いした日の次の日、薄暗い夜明けに一人で裏庭に出て泣いていたこと。
弟が出かけている間に、今は亡き兄の亡霊に囚われ続ける両親に、なぜ愛するつもりもないのに弟を産んだのだと、愛しているのなら行動を示せと泣きながら抗議したこと。
彼女が隠そうとしていた寂しさを知っている。
エレノアには、もう傷ついてほしくなかった。
「ルシアン、ありがとう」
エレノアは微笑んでいた。
一筋流れた涙はもう拭われ、それ以上落ちることはなかった。
少しだけ胸が痛む。けれど、それ以上に姉が吹っ切れたように微笑んでいるのなら、何もいうことはない。
いや、自分にはそれ以上言えない。
静かに、姉は窓の外を見た。
暗い夜空を見て、ぽつりと何かを呟いた。
手紙を読み進めるうちに、涙が一筋溢れてしまった。
それは嬉しかったのか悲しかったのかわからない。
ぬぐえばすぐに消える。
手紙をルシアンは奪おうとした。だいぶ心配をさせてしまったのだろう。
大丈夫。私は平気だからと微笑む。
「ルシアン、ありがとう」
手紙を届けてくれて。きっと、葛藤もたくさんあっただろう。
彼は少し安堵したようだった。
まだ読みかけの手紙を大事に握りしめて窓を見た。
暗い夜空が広がっている。
どこまでも繋がっている空を、無性に見たかった。
愛とは、なんだろう。
何度も繰り返し考える。
親から子への愛。虐待や言葉の暴力はもちろんだが、甘やかすことだけが愛ではない。正しいことを教え、生きていく術を伝えていく事も愛だと私は思う。
けれどそれだけでもないのだろう。
きっと、答えはない。正解もない。
たくさんの愛の形があって、愛された者にはその愛をどう受け取るのか選択があり、周りの者たちはそれをどう解釈するのか委ねられる。
歪な愛に囲まれて育った彼は、ようやく世界を知った。
生きていること。当たり前が当たり前ではなかった世界で独り生きてきた彼を、私は……
「愛したかったわ」
そのすぐ隣で。
生まれたかもしれない命と共に。
お互いが一人では歩けなくなるほどの時間を……寄り添い、歩いていきたかった。
3話で終わらせたつもりでしたが、長いこと考えて蛇足をさせていただきました。
ここまでお読みくださりありがとうございました。