月丸 弐
日が僅かに傾き始めたころ、月丸と吉房は山を下り、京へと入った。中央を通る朱雀大路から東。七条大路あたりから京へと入り、町へと向かった。
山の上から見ると、東西南北升目に広がる道路と並んだ家々は壮観であったが、目の前にすると、畑や田んぼが広がり、家も点々としている。遠くを見れば、家が並んで立っており、そこが栄えているのが分かる。恐らく町のはずれといったところであろうことを月丸は理解した。
吉房は辺りを見回すと、ひとつ、ため息をついた。辺りにはまばらであるが、人影が見える。通りすがる者、道端に座り込む者、ただ、ふらふらと歩いてい居る者。そのすべてに共通するのが、目に宿す絶望であった。六波羅探題での幕府陣営と討幕陣営の戦いは、京に住む者にも多大な被害をもたらした。家を失った者、家族を失った者、居場所がなく、このような京のはずれをさ迷う者を生んでいた。世を儚むその光景に吉房は心を痛めたが、月丸にはまだ理解が及ばなかった。ただ、京の地を踏んでから、何とも言えない違和感を感じる。
「なぁお師様。このまま帝のところに行くんだろう?楽しみだなぁ。」
月丸が見上げながら吉房に問う。
「今から行っては夜になってしまうわい。ちょいと先に畑をやっておる知った者がおる。そこに泊めてもらおうかのう。」
そう言うと吉房は大路を西に歩き出し、月丸は言われるまま、付き従いながらも辺りの景色を眺めると、都というには人も少なく、何より空気が重い。行きすがった村々やすずの居た村とはまるで違う雰囲気に、月丸は薄らと、都とはこの様な所という認識を持った。
吉房がいう家には暫し歩くとすぐに着いた。小さく、小屋とも呼べそうな家である。灯りはまだ付いておらず、家主が居るのかも分からない。
まだまだ右京からも離れた所であった。吉房は慣れた様に戸をどんどんと叩く。
「居るか?吉房じゃ。」
吉房が声を掛けると、先程までしんと静まった家の中でばたばたと音が聞こえる。
がらり
戸が開き、驚いた様な顔で現れたのは、凡そ農民とは思えない、汚れのない狩衣を纏った青年であった。
長い髪を後ろで縛り、目は切長だが鋭さはなく、公家の姫が好みそうな色男である。狩衣の上から見ても、体の線が細く、凡そ畑を耕しそうにない。
「吉房様!よくぞお帰りに!」
青年は深々と頭を下げ礼を取ると、すぐに頭を上げ辺りを見回す。
「吉房様…長旅でお疲れでしょう。どうぞ中へ。」
そう言うと、吉房を招き入れた。月丸も吉房の後ろを着いて行こうとした時、月丸の前に青年が立ち塞がり、月丸は足を止める。
「吉房様…この女子は…?」
青年は何かを警戒した様な表情で月丸を睨む。その青年の肩をぽん、と叩くと、吉房は笑って言う。
「心配するな。月丸と言ってな。儂の弟子じゃ。」
吉房に言われても、青年の顔は険しい。
「ですが…。吉房様…この者は…」
言いづらそうにしている青年に吉房は笑いながら応える。
「ほほう。修行は続けておる様じゃな。左様。この月丸はかの有名な妖霊じゃ。まあ、利口な奴じゃからそんなに心配せんで良い。」
月丸は利口と言われて気分が良くなり、睨みつける青年に向かって、にっと笑いかけたが、青年は驚きに目を見開いたまま動きを止めてしまった。
「お師様?」
動かない青年を指差しながら、どうして良いかわからない月丸は、奥の吉房に声を掛けた。
「安土。月丸も疲れておるんじゃ。そんな面白い顔を披露せず、中に入れてやれ。」
安土と呼ばれた青年は、我に帰ると月丸を屋内に迎え入れた。
「淡く感じる妖気…何やらの妖怪かと思えば…妖霊とは…」
小屋に入った月丸の後をぶつぶつと頭を抱えて呟きながら安土が付いてくる。月丸はちらちらと安土を見ながら疑問を持つ。畑仕事を生業とする者はこれまでの旅で見てきたが、皆、汗にまみれ、土に汚れていた。「畑をやっている者がいる。」、吉房はそう言ったはずだが、安土は皺もなく整った狩衣を纏い、体は汚れ一つない。
そんな月丸の疑問に気付いた様に、吉房が尋ねた。
「安土よ。木衛門が居らぬな。まさかとは思うが…。」
安土は吉房の言葉に深々と頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。木衛門殿は先の戦に巻き込まれて、お亡くなりになりました。」
履物を解く吉房の手が一瞬止まった。
「そうか…。あの様な下らぬ戦の犠牲になっては、木衛門も浮かばれぬな…。」
如何やら吉房の言った木衛門が農民だったのであろう。その者は既に亡くなっている。いつもとは違う、寂しそうな吉房を見ながら、月丸が尋ねた。
「なぁ、お師様、戦って?」
訊ねる月丸にまず応えたのは安土であった。
「後醍醐天皇と幕府の戦いでな。幕府の六波羅探題を襲撃した後醍醐天皇の軍勢が都で散々戦いおったのだよ。多くの民が巻き添えになった。それもこれも…。」
「止めよ。安土。お前の思うとる事は迷信に過ぎん。」
安土の言葉を遮る吉房。
「ですが!此奴が地に現れてから後、この国には様々な厄災が降り注いでいるのですぞ!あまつさえ、天を二分する今の様な世になったのですぞ!」
安土は声を荒げ言う。その恨みのこもった目から、安土の言う「此奴」が自分のことである事を月丸は理解する。
「俺は何もしてないぞ。」
流石の月丸も、身に覚えのない事でここまで怨念をぶつけられると、不快を覚える。安土を見据えると、安土は臆した様に後ずさる。
「月丸も。止めんかい。まぁ、旅をしていても、朝廷が妖霊退治を命じていたのは知っておったが…。安土よ。目の前の妖霊を見てみよ。伝承だけでは分からぬこともある。」
吉房に言われ、安土は月丸を見る。先程の様に恨みの篭った眼差しには、恐怖の色も見てとれた。
月丸はこの度で学んでいた。月丸に近づく者で、優しく接してくれる人は、皆、微笑んでいた。すずもそうであった。だから、安土のよく分からない感情を宥めようと、月丸は微笑んでみせた。
そうする事で、安土が安心するかも知れない。ただ、そう思ったのだが。
「ひい」
安土はびくりと肩をすくませ、顔を青くし、月丸は思った様な反応ではなかったため、唖然とした。
一時後、囲炉裏を囲み、白湯を啜りながら、やっとこの安土の正体を知る。
この安土。陰陽寮にて朝廷に仕える陰陽師であった。陰陽師としては然程のものではないが、歌や花、茶にその才能を開花させた安土は、歌風を好む北朝において皇位に就いた光厳天皇に気に入られていた。
だが、人の世は混沌の一途を辿る。後醍醐天皇蜂起後、各地で幕府に対する反乱が起こり、京においてもそれは変わらなかった。
そして朝廷内でも、様々な謀により、命を落とすものも多かった。時の天皇の目に留まる安土は、権力を得ようとする者達の標的となっていた。元々争い事を嫌う安土は、野の陰陽師で帝の信頼も厚い吉房に助けを乞い、こうして野に降りたと言う事らしい。
「なぁお師様?人同士の争いは分かったけど、何で俺のせいになるんだ?」
話を聞き終え、月丸が訊ねる。自分はこの地に降りてから、自ら争いを撒いた事はない。降りかかる火の粉を払っていただけである。疑問を持つのも当然であった。
「先の世にも妖霊がおってな。無論お前が生まれたつ以前のことじゃ。その妖霊は怒りと怨みに染まり、生きとしもの全てを屠らんと暴れたそうじゃ。妖霊の毒気はこの国全てに広がる様に、人も、妖も、獣も神ですら、負の思念に駆られ、世は大混乱に陥ったのじゃ。」
吉房はそう言うと、にっと笑い横に座る月丸を撫でた。
「無論、お主のことではないがな。この安土は、その昔話の妖霊とお前を同じに見ているだけだ。」
何だ、ただの勘違いか。と、月丸は安堵した。やってもいない悪事を自分のせいにされては堪らない。まだ幼稚な月丸にとって、勘違いとわかれば、それで良かった。
「な?俺は何もしてないと言っただろう?」
月丸は得意げに安土に向かって言う。しかし、安土は警戒の色を解かない。
「しかし、吉房様!伝承の妖霊はこの様な童の姿ではない。育てばきっとこの国に厄災を招く者になるやも知れぬ!」
真面目に反論する安土に、吉房は笑うと、月丸に言う。
「そうじゃ月丸。如何やらこいつは腹が減って頭が回らんのじゃろう。残った栗でも分けてやれ。腹が満ちれば、考えるに足るじゃろう。」
吉房の言葉に月丸は足元に置いていた風呂敷を広げると、三つ、四つ、栗を摘み安土の前に置いた。
「お師様の分からあげるからな。俺の分からはやらん。」
そう言いながら、自分の分として、栗を分けながら安土を見る月丸。
呆然と栗を見る安土。
「がはは。構わん。月丸は甘いもんが好きじゃからな。お前の栗はお前が食えば良い。ほれ、安土。お前も食えば良い。」
安土よりも早く、月丸は自分の栗を割って食べ始めていた。その姿と栗を交互に見ながら、安土は茫然としたまま、暫しの時を過ごした。




