絡新婦 陸
月丸が言うには、人に変化させるのではなく、人にする呪いをかけるというものであった。
雄座のような人から見れば、何となく理解できる。昔からよく語られる。人は恨みや怨念によって鬼にも魔にも姿を変える。何より、雄座はそのように変わった姿をその目で見た。河童化けである。その姿も、生き方も、その力も、元々人であったとは思えないものであった。無論、河童化けなどは、身勝手な欲望によって、自ら妖怪に姿を変えたのであろうが、自らの欲望もまた呪いであるのだろう。
「多恵子さん。呪を掛ければ貴女は人になる。しかし、人となり、貴女の願いが遂げられれば、呪は解かれることはないであろう。」
月丸はグラスを手に取ると、ジュースで口を湿らせた。
「私の…願いですか?」
月丸の言葉に女将が問う。月丸はこくりと頷く。すると女将は俯くと暫し沈黙した。やがて顔を上げると呟いた。
「私の願いは…。あの人の妻となり、子を成して、あの人を支えながら、歳を取って死ぬことでございます。」
月丸は女将の言葉に頷くと、言葉を返す。
「もし、その男が別の女に心移りしたら、願いが叶わず、呪が解かれる。そうなればもう人の姿になることは出来なくなる。それでも良いか?」
女将が応える。
「ならば、ずっと好いてもらえるよう、死ぬまで努力いたします。」
月丸が言う。
「逆も然り。貴女がその男に愛想を尽かした時、これも呪が解けてしまう。そうなればもう、人の姿になることは叶わなくなる。それでも良いか?」
女将が応える。
「あの人の良いところも、悪いところも、全て承知しております。そのような事にはなりませぬ。」
月丸が言う。
「その男が死ねば、おそらく貴女もすぐに死ぬであろう。長きを生きられる事が出来なくなるが、良いか?」
女将は穏やかな笑顔で応える。
「願いのままです。あの人が居ない世に未練はございません。」
女将の笑みに、月丸もふっと、微笑んだ。
「良いだろう。それだけの覚悟があるならば、どんな事があっても大丈夫であろう。」
月丸は雄座に顔を向けた。
「雄座。今から多恵子さんに呪を掛ける。妖から人に変わる術を見ておくが良い。」
雄座がこくりと頷くのを確認すると、月丸は女将に向き直した。
「本当に良いのだな?」
「はい。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
女将は月丸に向かって手を付いて頭を下げた。月丸は左の掌を上に向け、その上に右の手で宙に円を描く。その円は光を帯びた玉となり、ふわりと宙を舞うと、頭を下げたままの女将の周りを包んだ。
月丸は円を描いた右の掌を前に伸ばすとそのまま女将に向け、左手の二本の指を口元に当てると、聞き取れないような小さな声で何かを唱え始めた。雄座はその光景をただ見守る。
やがて、光る玉に包まれた女将の姿は、美しい娘の姿から、徐々に蜘蛛へと変わってゆく。黒く照り輝く体に長い足。そして黄色いマダラ模様は、先程雄座が見た姿であったが、女将を包む光の玉のせいであろうか、その大きさは人の姿の女将とさほど変わらない程度である。蜘蛛は時々、足をびくり、びくりと動かし、体を震わせる。その口からは、紫色の煙のようなものが、溢れる。苦しいのか、時々呻きをあげる絡新婦。そのような時間が一時間程続いた。
月丸が唱えるのをやめ、手を下ろした。
「終わったよ。」
月丸の言葉に声も無い女将に代わり、雄座が声を上げた。
「ちょっと待て月丸。これではあまりに…。」
雄座は眉を寄せ、困惑した。
終わったという月丸の視線の先には女将、多恵子がいる。が、その姿はあまりにも異形であった。
絡新婦の姿のままである。いや、そのままの姿では無く、頭に近い先の足は、多恵子の肌艶の良い人の腕になっている。最後の足も、太腿が露わになっている美しい人の足となっている。だがそれ以外は絡新婦のままであった。
「…失敗では無いのだよな?」
絞り出すような声で訊ねる雄座に、月丸は答える事なく、絡新婦に顔を向けたまま、静かに伝える。
「良いか。多恵子さん。呪をかけた今、貴女の体は三日程をかけて徐々に人に変わってゆく。その間、絶対に妖術を使ってはならない。妖の力を使えば、人となるという願いを自ら破棄することになる。」
絡新婦は月丸の言葉にこくりと頷いた。
「良いな。三日間は長門石とやらとも会えぬであろうが、辛抱しておくれ。」
月丸の言葉に、絡新婦は笑った。
「はい。会いたくとも、このような姿では会えませぬよ。大人しく此処で辛抱します。」
月丸は頷くと、雄座に目をやった。
「一応、俺は妖霊だぞ。失敗するわけがなかろう。」
雄座は頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「ああ。分かっているが、その…。ぱっと変化するものと思っていたのでな。」
月丸は手を前に伸ばしながら応えた。
「とは言え、体の端から徐々に作り替えてゆくのだ。そう簡単に種を超える事はできぬよ。」
雄座は安堵し、胸を撫で下ろした。今の女将の姿は、月丸の言う限り、一時的な姿であろう。三日間。この時間で体が蜘蛛から人に変わりゆく。説明では理解できるが、実際に目の前にいる絡新婦の姿を見ると、人に姿を変えると言うのが不思議でならない。毎度思うが、月丸の力に、改めて感心する雄座。ふと、気が付く。
「長門石、毎日来ているのであろう?この三日間は如何したものか。」
雄座の言葉に、答えたのは女将である。
「出来ることなら、会うことはできずとも、食事は作ってあげたい。あの人、此処でしか食事をしていないようなので。」
申し訳なさそうに呟く女将に、雄座もくすりと笑う。
「まあ、長門石らしい。彼奴は仕事となると寝るのも食うのも忘れるからなぁ。」
呪をかけられ、不安もあるだろうが、それでも長門石の体を心配する絡新婦を見て、雄座はふむ。と頷く。
雄座は時計を見る。既に夜の八時を回っている。長門石は今日の様に仕事の合間でも時間が取れればこの店に来ている様だ。せめてその間だけでも、何とかなれば良いのだ。そして絡新婦の作った食事を届けてやれば良い。
「長門石には弁当でも作ってやれば良い。俺が届けよう。明日の昼前にでもまた来るよ。」
絡新婦は軽く頭を下げた。心なしか、嬉しそうである。雄座と月丸はまだ動けぬ多恵子の代わりに食台の上を片付けて店を出た。
外に出ると、朝から降っていた雪が、夜の寒さも手伝って、僅かに路面を白くぼやかしている。二人は電灯や瓦斯燈の明るい光で街並みの輪郭を浮かべる銀座へとてふてふと歩き始めた。
「好いた者の為に人になりたい、か。」
薄らと積もる雪をしゃくしゃくと踏みながら、月丸は呟く。その小さな声を雄座は聞いていた。
「なぁ月丸。妖怪でも人でも、誰かを想う心は一緒なのだなぁ。姿形で奇異な者とした昔の人達に教えてやりたいよ。」
雄座の言葉に、月丸はくすりと笑った。
「人から見れば、妖怪は異形であろうが、妖怪にとっては、その姿が普通なのだ。その心は人とさして変わらぬさ。」
月丸の言葉に雄座はふむ、と頷く。
月丸もあやめも、妖怪である。だが、人から見ればその姿は人の感覚で見ても「美しい」姿形をしている。分身ではあるものの、月丸と銀座を歩けば、その愛らしい姿は街ゆく人の足を止めるが、誰も妖怪などと思わないであろう。あやめに至っては、見目の美しさに加え、服などにも気を使い、最早、街を歩くあやめが妖怪であることなど、雄座や月丸以外気付かないであろう。だが、女将、多恵子も絡新婦であっても、接してみれば誰かに恋する人の娘と何ら変わりなかった。しかし、あの蜘蛛の姿で人に会えば、きっと多恵子の心も知らず、恐怖の対象となるのであろう。
「姿が異なるだけで、思う事は人と変わらぬ。不思議とも思うが、確かにその通りとも思えるよ。」
雄座が感心するかのように言う。雄座の少し先を歩く月丸は、ふと足を止め、振り向くと、空に向かって両手を伸ばした。雄座もつられて空を見上げる。黒い空からちらりちらりと降る雪が、電灯の光を受けてきらきらと輝きながら落ちる。雄座の頭に、ふと、月丸と出会った時に見た夏の桜が蘇った。
「雪などは寒いだけだと思ったが、こうしてみると桜吹雪の如く美しいな。」
雄座が呟く。月丸はゆっくりと手を下ろすと、手のひらに落ち、溶けゆく雪をゆっくりと握りしめると、雄座を見る。
「俺もそう思った。拝殿の濡れ縁で眺めていることが多かったが、電灯の下で見る雪とは、これ程美しいのだな。」
月丸はにこりと笑うと、再び雄座の前を歩き出した。雄座も月丸の後を追う。
「守るべき者があり、その為に生きる。人も動物も、虫も、妖怪も。姿は違えど、同じなのだよ。美しい情景を美しいと思う心も。きっと、変わらないと思う。」
月丸が言葉を続ける。
「俺は師と出会うまで、人も妖も、俺を襲う敵でしかなかった。でも人や妖と接することで、その心が知れた。違うのは、その姿と力くらいだ。」
雄座は月丸の言葉を聞きながら、頷く。
「人は力もない。妖怪の姿を見て、心も知ろうとせずに恐怖だけを持つのだな。」
雄座の言葉に、月丸が応える。
「人の力は凄いぞ。術を使うわけでもないのに、今のこの景色のように、世代を越えて時代を作る力を持っている。長きを生きる妖にはこのような長き世に続ける力は持たぬ。」
応えながら、月丸の目は外灯が並び、街の輪郭を美しく映す銀座に向けられる。雄座の目も自然と銀座の街明かりに向く。
月丸が言葉を続けた。
「絡新婦が言ったように、人は山を開き、海を埋め、町を作り、景色を作り、時代を作ってゆく人は、妖から見たら恐ろしい存在なのかも知れぬな。」
月丸は歩きながら振り返ると、満面の笑みを雄座に向ける。
「お互い分からぬ者同士。怖がることもあるのだろうが、お前のように俺の友になってくれる奴も居るしな。やはり、怖いよりも面白い。」
月丸の笑みに雄座も笑う。
「あぁ。俺もだ。お前も、あやめさんも、多恵子さんも。恐ろしくなどない。楽しい友だ。お互いを知れるようならば、きっと世は俺たちのように妖怪も人も関係なくなるのであろうな。」
月丸はこくりと頷いた。
「絡新婦のようにな。」
二人はふわりと舞い落ちる雪の中、心地良く帰路に着いた。
いつも読んでいただけてありがとうございます。気付けば丸一年続けることができました。これも一重に、月丸と雄座を見守って戴けている皆様のおかげです。本当に感謝の言葉も御座いません。面白く書く技術は中々上がりませんが、これからも楽しんで参りますので、皆様の暇つぶしの一助となれば幸いです。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。




