絡新婦 伍
「月丸…。本当にそんな事が出来るのか?」
雄座の問いに月丸は事も無気に頷き、女将に向き直すと、女将はくすりと笑った。
「ありがとうね。月丸ちゃん。でもね、妖を人にするなんて、それこそ神様や大妖様でなければ出来ないのよ。そもそもそんな事、出来るわけがないのよ。」
月丸が慰めに言ったと思われたのであろう。女将は月丸にお礼を言うと、俯いた。
月丸はグラスのジュースを口に流し込むと、ふう、と息を漏らす。雄座の鼻にも、蜜柑の香りが届いた。ことりとグラスを置くと、月丸が訊ねた。
「まあ、そう言わずに。良かったら聞かせてくれないか?何故人になりたいと思える程、その男に惹かれたのかを。」
月丸の問いに雄座も興味を持つ。長門石は仕事は熱心で、周りに気を配れる良い奴だ。雄座も友としての長門石の良さは知っている。だが、妖怪が惚れると言うのは如何いったものなのかは気になる。
「あの人とお会いしたのは、もう、10年以上前になります。まだあの人が子供の頃でした。」
ふと、雄座が問う。
「長門石は、ニ年程前にこの店を見つけたと言っていたが、違うのかい?」
雄座の問いに女将は微笑む。
「ええ。人の姿となり、この店を二年前に開きました。あの人を癒したくて、術を使って、この店に導きました。」
当時を思い出しているのか、懐かしむ様な目で語る女将。しかし、はっとしたように、補足する。
「あ、術といっても、この店まで長門石さんが足を向けるようにしただけで…。この店を知って欲しかっただけですよ。人に害を成すような術は使っておりません。」
ほう、と雄座。
そう言われれば、そんな怪談もあった。山に住む蜘蛛の妖怪で、美しい娘に化ける。娘は辺りに糸を張り巡らせ、その糸に触れた者はふらふらと蜘蛛の元まで導かれる。そして美しい娘の姿に騙され、気を許したところで喰われてしまう。
そんな話であった。目の前の女将が使ったという術も、昔語りに繋がるものがあるが、今の女将を見るに、この店を知って欲しかっただけであろう。
女将が改めて言葉を続ける。
「話を戻しますと、私は長門石さんの家にただの蜘蛛として住み着いておりました。元々は東京の西に住み着いておりましたが、明治になってから、人は山を開き、野を開き、どんどん建物を増やして行ったでしょう?そんな事を容易く出来る人が、私は怖くなりましてね。妖怪なんぞと知られたら、何をされるやら…。私はただの蜘蛛として、更に山奥に身を隠していたんです。」
月丸は小さく頷きながら静かに聴いている。
「たまたまでした。私が身を隠していたのは長門石さんの家だったのです。」
懐かしむように、目を輝かせながら女将は話を続けた。
「長門石さんは、私の巣を綺麗といってくれました。あの人のご両親が、巣を払おうとした時も、『こんな綺麗なものを壊してはいけない』と、守ってくれたのです。そして毎日、毎日、私にいろいろな事を語りかけてくれました。
あれこれが楽しかった、どこそこの景色が綺麗だったなんて。あの人が東京で働きに出るまで、それこそ毎日。私も、気が付いたらあの人が声を掛けてもらえるのが待ち遠しくなっていました。」
蜘蛛はその姿から、恐れられる事が多い。しかし、土地によっては縁起の良い虫であったり、仏の御使いとも言われる。何にせよ、長門石は絡新婦を恐れなかったのであろう。普段の長門石を思い出し、雄座の頬が緩んだ。
「あの人が東京で働きに行く事になって、私もこっそりと付いてきたんです。そして人に化けて、働きながら、あの人を遠目で見ていました。」
ジュースを口に運びながら、うんうんと頷く月丸。
「でも長門石さん、お忙しいでしょう?ろくに食事もしないで、すっかりお疲れになっていて…。せめて癒してあげたいと、人の姿で稼いだお金を使ってこの店を開いたのです。」
雄座は驚いた。先程までの話から、妖術でこの店を作ったと思っていた。しかし、絡新婦が人に化けて働き、その金で長門石の為に店を開いたのならば、この店は実在している。雄座が女将に言う。
「先程、妖術で長門石に足を運ばせたと言ったから、てっきりこの店自体が幻術なのかと思ったよ。」
雄座の言葉に、女将が照れたように笑う。
「ちゃんと、人のやり方で手に入れた店ですよ。ただ、長門石さんが知ってくれなければ意味がないですから…。ただ一度だけ。妖術で足を運んで貰えるように誘いました。それからは毎日、来てくれるようになって、私の料理で喜んでくれて、元気を取り戻してくれて、私も幸せでした。」
女将は胸に手を当てて、嬉しそうに微笑んだ。そんな姿を見ていると、雄座から見ても、とても妖怪とは思えない。目の前にいるのは、只々、好いた者に尽くす娘である。悪意なく、純粋に。人と何ら変わりがない。長門石は果報者だ。雄座はそんな事を考えていた。
「長門石とやらを誘う為に術を使ったと言ったが、店を結界で隠したのは何故だ?」
月丸が言う。女将は素直に頷いた。
「あの人とあの人がお連れする方以外にこのお店を知られたくありませんでした。私なんぞでは、ずっとこの姿では居れませんので…。」
女将の話では、人に化けるのもそれなりに妖気を減らしてしまうらしく、それこそまるまる二日も三日も人の姿をしていようものなら、疲弊し、蜘蛛に戻ってしまう。もし、そんな姿を長門石が見ようものなら、恐ろしさのあまり、二度と来てはくれないだろう。
だからこそ、結界を張り、人を寄せず、長門石の気配を感じた時、人に姿を変えるのだと言う。
女将の話を静かに聞いた月丸は、ふと、雄座に目をやった。雄座もそれに気付くが、月丸の意図が読めず、首を傾げた。そんな雄座に月丸はいつもの、穏やかな笑みを返すと、女将に向き直した。
「何となく、理解はできる。俺が何とかしてやろう。」
月丸の言葉に女将は再び諦めたような笑みを返した。
「ありがとうね。月丸ちゃん。さっきも言ったけど、神様でも居なければ、到底叶わぬ願いだって、私もわかっているのよ。」
ふう、とため息を溢すと、女将は月丸の頭に目を伸ばし、優しく撫でた。
「月丸ちゃんは妖なのに優しいのね。貴女ならきっと人の世に馴染んで過ごせるわ。」
今の月丸の姿は、年の頃なら十歳程度であろうか。そして本物の月丸の姿を継いで、顔立ちも良い。女将から見れば、月丸はただの愛らしく幼い女児にしか見えないのであろう。だが、あの月丸が頭を撫でられながら、心地良さそうにしているのは、普段の月丸を知っている雄座としては、何とも面白い光景であったが、ずっと眺めておくわけにもいかない。
「なあ月丸。何とかしてやれるのだろう?」
雄座の声に、月丸は静かに頷くと、女将に言う。
「俺は妖霊という妖で、こんな姿だが、それなりに力は持っているのだ。」
月丸はすく、と立ち上がると、土間に降りた。
「今から僅かに妖気を放つ。それで信じて貰いたい。」
そういうと、月丸は手を前に伸ばすと、くるりと一回りした。すると月丸を中心に、見慣れた光が拡がるのを雄座は見た。
「ああ、成る程。」
雄座は納得し、声が漏れる。月丸は女将に自分の力を信じてもらう為に妖気を放とうと言うことか。その為に、女将の、絡新婦の結界を壊さぬよう、さらに小さい結界を張ったというところであろう。そういうことならと、雄座も黙って見守る事にする。
くるりと回った月丸の袖がふわりと落ちると、月丸はにこりと女将に笑いかけた。
「ひい」
女将は短く悲鳴を上げると、その場にばたりと倒れ、気を失ってしまった。
「え?」
「おい!」
月丸は驚き、雄座は直ぐに立ち上がると、女将を抱き起こす。
「どうした女将さん。大丈夫か?」
月丸も慌てて駆け寄り、女将の額に手を当てると、その手からふわりと柔らかい風が流れた。
「ううん…」
直ぐに女将は目を開けると、雄座の腕から体を起こし頭を振った。
「月丸ちゃん…とんでもないほどの妖気を持っているのね。妖気に当てられて気が離れちゃったわ。」
雄座は月丸を見る。月丸は女将が直ぐに目を開けたので、安堵の色を浮かべていたが、雄座の視線に気付き、気まずそうに笑った。
「ほんの僅かに放ったつもりだったが、貴女には強すぎたようだな。すまなかった。」
月丸は素直に頭を下げると、女将も頭を下げた。
「ごめんね。月丸ちゃんがこんなに凄い妖なんて知らなかったから…。気付かなかった私も悪かったのよ。」
などと、二人揃って交互に謝っている。雄座はそんな光景を眺めつつ、以前、あやめが言った言葉を思い出す。
妖霊は妖怪の中でも神に届くほどの力を持っている。
あやめが以前言った言葉である。伝説の陰陽師を打ち負かす術、黄泉平坂の神すらも破る力を実際に目にした。分身とはいえ、その妖気は並みの妖怪にとっては相当なものであったのだろう。
何より、その力を月丸自身も把握できていなかったようにも見える。数百年も社に篭り、他の者と接することがなかった。ここ最近では、天狐や天狗のあやめ、道満や死姫などは並み以上の存在である。月丸の妖気に当てられて、気を失ってしまった女将の方が、案外普通の反応かもしれない。雄座は改めて月丸に感心した。
落ち着いたところで、月丸が女将に問う。
「貴女を人にする。その為にはまず、貴女の名を教えてくれないか?」
女将はこくと頷く。
「穴井多恵子と言います。人として生きようと決めた時、この名を心に刻みました。」
月丸はふむ、と頷くと、言葉を続けた。
「では多恵子さん。俺は今から人に身を変える呪を掛けるが、本当に良いのか?」
月丸の力をその身で受け、月丸の言うことが嘘ではないと感じたのであろう。多恵子は姿勢を正し座り直すと、月丸をまっすぐ見つめ、「はい」と力強く答えた。




