絡新婦 肆
拝殿の濡れ縁に腰掛け、空から舞う僅かばかりの雪を眺める月丸。まだ時刻は夕刻であるが、辺りは夜の様相である。黒い空から舞い落ちる白く輝く小さな粒は、その輝きで月丸の目を楽しませていた。
「あれ?雄座さんが来てない。」
月丸が、声のする方に目をやる。洋風のパラソルを手に、暖かそうな外套に身を包んだあやめであった。
「こんばんは、月丸さん。今日は雄座さん、いらっしゃってないんですか?」
きょろきょろと境内を見回しながら、歩み寄ってきたあやめが訊ねる。
「ああ、ここ十日程は来ていないよ。暫くは仕事と言っていたな。仕事が終わったら寄ると言っていたぞ。」
月丸があやめに応えてやると、あやめは残念そうに肩を落とした。
「そうですかぁ。楽しみにしてたのになぁ…。」
残念がるあやめに、月丸が首を傾げた。
「そんなに雄座と会いたかったのか?」
月丸は相変わらず、穏やかな笑みを浮かべあやめに訊ねた。あやめは片手を口に当て、うふふと意味深く笑う。
「うふふ。月丸さん。実は雄座さんに想いを寄せる女性が……。」
嬉しそうに語り始めるあやめの言葉を、鳥居から聞こえる雄座の声が遮った。
「月丸ー。居るかー。」
珍しく走り入って来た雄座に、月丸もあやめも驚き、鳥居に目を遣る。雄座は月丸の元まで駆け寄り、挨拶もそこそこに月丸に言う。
「すまん。人助けだ。話は後で伝えるから、俺と共に来てほしいところがあるんだ。」
月丸は驚いた表情のまま、こくこくと頷く。雄座はすぐに当たりを見回すと、月丸の手を引き、池の元に咲いている白く小さく咲いている水仙の元までやって来た。
月丸はくすりと笑いながら、水仙を茎から折ると、髪の毛を抜き、水仙に結び付けた。小声で何かを唱え、水仙を放った。
直ぐに水仙は淡い光を放ちながら、月丸の分身へと姿を変えてゆく。変わらず幼い容姿ではあるが髪の色は月丸と同じ、きらきらとした銀色で、装束は淡い浅緑に変化している。
雄座は分身の手を取る。
「行ってくる。」
そう言うと、分身と共に駆け出していった。あやめは唖然としたまま、雄座を見送ったが、ふと、我に帰ると、月丸に訊ねた。
「雄座さん…。如何したんですか?あんなに慌てて…。」
月丸は笑いながらあやめの元へ戻ってくると、あやめの問いに応えた。
「ふふ。何やら雄座のお節介が始まったらしい。あんな雄座も初めてなので驚いたが、何ぞ楽しい事であれば良いがね。」
月丸はそのまま小屋へと歩き始めた。
「おいであやめ。お茶でも入れよう。お前の話も聞きたいしな。」
そう言って歩く月丸の背を見ながら、あやめの話も、雄座の話も同時に聞ける月丸が羨ましく思いつつ、月丸の後ろを歩き始めた。
「雄座?少し落ち着かないか?走りながらだと話も出来んであろう?」
新橋の雲庵から神社まで走って来たため、月丸を連れて新橋に戻る途中で、雄座の息は切れ切れであった。雄座は月丸の言葉を受け、足を止めて、息を整えながら歩き始めた。
「で、如何したというのだ?雄座。教えてくれ。」
月丸の言葉に、雄座はふう、と息を整えると、応える。
「いや…、実はな。」
雄座は歩きながら、長門石のこと、多恵子の事、二人が人と妖怪でありながら、想い合っている事を伝えた。
月丸は雄座の話を、ふむふむと聞いていたが、やがて店の前に戻ると、雄座は辺りをきょろきょろと見回し始めた。
「如何したのだ?雄座。」
雄座は頭を掻きながら月丸に応える。
「いや、おかしいな。この小道で合ってた筈なのだが…。」
如何やら多恵子の店の場所が分からなくなったらしい。長門石に案内されながら、店までの道は覚えていた筈なのに、その店がない。
辺りを見回す雄座に、月丸がくすりと笑いながら言う。
「その多恵子とやらは、長門石とやらのためだけにその店を作ったのだろう?」
「ああ。そう言っていたな。」
雄座の答えを聞き、にこりと満面の笑みを浮かべる月丸。
「俺の社と一緒だよ。その店は、その男にしか見えぬようになっているのだよ。その男が招いた雄座も、入る事が出来たのだろう。」
月丸の言葉にはっとする雄座。
「結界か…。」
こくりと頷く月丸。
「その男が居ないから、今のお前でも見えぬのだよ。まあ、この程度の結界ならば、入るのも容易い。」
月丸はそう言うと、口元に指を当て、ぼそぼそと小声で何かを唱える。その指を前に差し出し、くるりと一回りすると、突然、先ほど見た雲庵が現れた。皺もなく整えられた暖簾、店の看板。先程雄座が見た雲庵であった。
「成る程。まだ日が高いからだと思ったが…、他の客が来なかったわけだ。」
長門石のためだけに、長門石を癒すためだけに在る店。雄座は店を眺めながら、先の道満も、神田御前も、神社の前に居ながら神社が見えずにいた。それを思い出し、こういう風に見えるのだなと、一人納得した。
「さあ、雄座。行こう。」
雄座はうん、と頷き、入口の戸をからりと開けると月丸と共に中に入った。雄座は女将の姿を探してきょろきょろと店内を見回す。
「あ、居た。女将さん。お待たせしたね。俺の友を連れてきたよ。」
女将は小上がりの、先程長門石が座っていた場所に人の姿で居た。あれから泣いていたのだろうか、僅かに目元が腫れている。
「まぁ、本当に来るなんて…。よく店を見つけられましたね。」
女将は座り直すと、指を付いて頭を下げた。そして頭を上げると、呆れた様な笑顔を見せる。
「この店は、術を施していましてね。長門石さんにしか見えない様になっているのに…。まさか神宮寺さんも妖なのではないですか?」
雄座は、はは、と軽く笑うと、否定する。
「時々、そう言われる時もあったがね。残念ながら、俺はただの人だよ。こいつが、女将の結界を開けてくれたんだよ。先ほど話した、俺の無二の妖怪の友だ。」
そう言いながら、後ろに立っていた月丸を前にやった。月丸はにこりと笑いながら、女将に声をかけた。
「やぁ初めまして。妖霊の月丸という。貴女も妖なのだそうだな。」
にこにこと愛想を振り撒く月丸を女将はまじまじと、驚いた様に見つめる。雄座の友がこの様な幼い妖怪とは思っても見なかったのであろう。だが、女将はすぐに笑顔を浮かべる。
「まぁまぁ、何て可愛らしい事…。月丸ちゃんっていうのね。こちらこそ宜しくね。どうぞ。お座りなさいな。」
女将は雄座と月丸を小上がりに上げると、そそくさと台所に消えた。雄座は先程まで座っていた場所に座ると、月丸は雄座の隣に腰を下ろした。
先程まで目の前に並んでいた料理の皿は片付けられている。先程と変わらず、飾らぬ部屋ではあるが、月丸は部屋中をきょろきょろと、興味深そうに見回している。
「へぇ。何とも落ち着く部屋だな。」
月丸が感心した様に呟いた。
「ああ。普通の小上がりなのにな。先ほど来た時も思ったが、ここは居心地が良い。」
月丸の呟きに相槌を打つ様に雄座が応えた。すると、月丸はくすりと笑った。
「ああ、そうだろう。これもあの女将の妖術だ。妖気から感じるに、恐らく絡新婦という妖だ。こうして居心地の良い場所を与え、迷い込んだ者を喰ろうたりする。この場所自体が、絡新婦の蜘蛛の糸のようなものだ。」
雄座は月丸の言葉を聞きながら、ぞっとする。相手が気付かぬうちに、巣に絡めて喰らうは、正に蜘蛛であった。
「随分と恐ろしいことを言う。だが、あの女将からはそんな恐ろしい気配はないぞ。」
月丸は笑みを浮かべたまま、こくりと頷く。
「うん。そうだな。感じない。不思議なものだな。」
そんな事を言っていると、からりと障子が開き、お盆に小料理や酒などが載った盆を持って女将が入ってきた。
ことり、ことりと、ちゃぶ台に並べられてゆく料理。煮しめやお浸し、干魚など。酒の肴であった。並べ終わると、女将は雄座に猪口を渡すと、温めた日本酒を雄座の猪口に注いだ。
「はい。月丸ちゃんにはこれよ。」
とん、と目の前に置かれたのは、橙色の液体が入った透明のグラスであった。月丸はそれをまじまじと眺める。くんくんと匂いを嗅ぐと、はっとした様に顔を上げた。
「蜜柑だ。」
その月丸を和かに眺めていた女将が、小さく拍手した。
「当たり。これはね、蜜柑を絞って作ったジュースなの。お砂糖も入っているから、酸っぱくなくて美味しいのよ。」
月丸は女将の言葉に頷くと、グラスを手に取り、口に運ぶ。こくりと口に入れると、蜜柑の香りと味が一気に広がる。砂糖のお陰であろうか。蜜柑の甘酸っぱさは、より甘い味付けとなっている。
「美味しい。雄座。これ、すごく美味しい。」
月丸はジュースを一気に飲み干すと、ふう、と満足そうな声を上げた。女将はそんな月丸をくすりと笑うと、足元に置いていたガラス製のポットを持ち上げる。そこには先程月丸が飲んだ蜜柑のジュースが入っていた。月丸のグラスを取り上げ、改めてジュースを注ぐと、月丸の前に置いた。
「ごめんね。月丸ちゃんはお酒が飲めないだろうけど、ジュースは沢山あるからいっぱい飲んでね。」
「いや。このジュースでいい。とっても美味しいよ。ありがとう。」
笑顔でグラスを受け取る月丸を見ながら、雄座はふっと笑みを浮かべると、女将に向き直した。
「すまないね。こんなに用意してもらって。」
女将は笑みのまま首を振る。
「いいんですよ。私にはこれくらいしか出来ませんので。でも、妖の事を書かれる先生とはいえ、私の事、怖くないんですか?」
雄座は首を振ると苦笑いを浮かべる。
「いや、恐ろしい妖怪も目にしたよ。先月などは目の前で黄泉の神も見たのだ。本当に恐ろしい者と、そうでない者の違いくらいは解るつもりではいるよ。貴女はきっと良い人だ。」
雄座の言葉にほっとする女将。しかし、直ぐに目を大きくした。
「先月?そういえば銀座や麹町の方で随分と大きくて恐ろしい妖気を感じました。私なんぞはここで気配を消して縮こまって居たのに…、はぁ、先生は凄いですねぇ。」
そんな二人を他所に、月丸は煮しめやお浸しをぱくりぱくりと口に運ぶたび、頬を緩めていた。一頻り食べると、煮しめの結び昆布をぱくりと口に入れ、月丸は満足そうに箸を置いた。
そして月丸が女将に声をかけた。
「貴女の気配は絡新婦だな?何故、術を使って男を手に入れないんだい?術を使えば簡単だろうに。」
月丸の問いに、女将は驚いた様に月丸を見た。
「まぁまぁ、月丸ちゃんは本当に妖なのね。今の私は妖気を消しているのに分かるなんて。そうよ。私は絡新婦。ちっちゃいのに凄いわね。」
子供をあやす様に褒める女将に、雄座は疑問を持った。月丸は先程、「妖霊の月丸」と自己紹介したが、女将は妖霊という言葉に驚く事もなく、今もまた、月丸の力に驚いている。何より、変わらず幼い妖と接する様な態度である。
「あの、女将さん。妖霊って、ご存知ですよね。」
雄座の問いかけに、女将は首を傾げる。
「ごめんなさいね。他の妖をあまり知らなくて…。月丸ちゃんは有名なのかしら?とても可愛らしいし、賢そうだから、そうかもしれないわね。」
雄座がこれまで出会った天狐もあやめも、道満達も妖霊を知っていた。しかし、女将の反応は、嘘を付いているわけでもなく、本当に知らないような素振りだ。雄座は月丸を見ると、月丸もくすりと笑って小声で言う。
「若い妖はもう俺のことなんか知らない者も居ると思うぞ。気にするな。」
月丸の言葉に雄座は納得した。
よくよく考えれば、月丸は徳川の天下以前からあの社にいるのだ。天狐などは大昔からこの地を守護していたからこそ、昔の月丸も、それ以前の妖霊も知っていよう。あやめだって、祖父から聞いていたと言っていた。
月丸の言う「若い妖」がどれほどの若さかは知らぬが、今は鳴りを潜める月丸を知らぬ妖があっても、不思議ではないのであろう。
「私はね、月丸ちゃん。出来ることなら、人になりたいのよ。そりゃあ、妖術を使えば、あの人を私の元に留めることは出来るかもしれないけど、それは幸せな事じゃないのよ。」
女将はふう、とため息をつく。
「私も頂きますね。」
雄座にそう断って、女将は手酌で酒を注ぐとくい、と飲み干すと、再びため息を溢した。
「叶うなら、神宮寺さんが話した様に、私も人になりたい…。人となって、あの人と共に生きて、あの人と死んでゆきたい…。」
女将の呟く様な小さな言葉を聴きながら、雄座は月丸を見る。雄座の視線に気付き、月丸も雄座を見返すと、笑みを浮かべながら頷いた。
「人にしてやるくらいなら出来るぞ。」
月丸の言葉に雄座も女将も目を丸くした。