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妖霊異譚  作者: 天戸唯月
第陸幕 しき
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しき 拾伍

「ふう。」


 雄座は有楽町の駅の植え込みに、あやめを背負ったまま腰を下ろした。

 あやめは小柄で軽くはあるが、人一人を背負って千鳥ヶ淵から有楽町まで歩くのは、雄座が予想していたよりも遥かに体力を奪われていた。

 大きく息を吐くと、辺りを見回す。流石にこの時間では歩く者は誰もいない。瓦斯燈の淡い灯りで、真っ暗とはならず、街の風景を浮かばせる。


「あんな事があっても、やはり町はいつも通りなのだな。」


 いつも通りの光景が広がる目の前に、先程まで、この光景の中で、神と妖霊の戦いを見たのだ。だが、今目の前にあるのは真夜中の、静まった穏やかな街並み。先程までの事は夢だったのではないかとも思えてしまう。


 少なくとも、今、背中に背負うあやめが、あれは幻でも何でもない事を雄座に知らせてくれる。

 

「月丸が俺を助けてくれたんだ。俺も頑張らないとな。」


 雄座はすくりと立ち上がり、あやめを背負い直すと社に向かって再び歩き始めた。





 それから暫くの後。

 雄座は、はぁ、はぁと息を切らせながら社の鳥居を潜った。一月の夜の寒さもお構いなく、額には汗を浮かべ、すっかりと疲弊している。


「ご苦労だったな。雄座。」


 月丸が拝殿から駆け寄って、雄座を見上げると、くすりと笑った。


「凄い汗だな。大丈夫か?」


 月丸の言葉に雄座も苦笑いを浮かべた。


「お前程大変だったわけじゃないさ。」


「そうか。あとは俺があやめを連れて行こう。」


 そう言いながら差し出された月丸の両の掌は酷い火傷のように爛れていた。驚く雄座を他所に、その手であやめを抱き上げると、拝殿に向かう月丸。


「月丸…。その手は…。」


 雄座の問いに歩きながら月丸が答える。


「ああ、道満とやり合った時にな。古の陰陽師。中々の腕であったよ。」


 雄座は月丸の言葉を聞きながら、罪悪感に囚われる。道満や死姫から、自分を、あやめを守る為に体に傷を負いながらも戦ってくれた月丸。自分は何もできないまま、足を引っ張ることしか出来ない。


「俺は役立たずだな。お前ばかり、済まないな。」


 ふと、雄座の口から出た言葉に月丸は優しく返した。


「俺もお前がいなければ、役にも立てない。雄座、お前がいてくれるから、俺がこの世と繋がれるのだ。お前のおかげだよ。」


 つい先程まで、月丸自身が思っていた事。雄座も同じ事を考える。その事が月丸には嬉しくも、申し訳なくもある。


「きっと各々に役割があるんだ。俺はお前を守れる。お前は俺を繋いでくれる。それで良いではないか。」


 月丸はそう言うと、にこりと笑みを見せた。雄座もそれ以上は何も言わずに、苦笑いを浮かべた。

 雄座が拝殿の戸を開けると、月丸が言う。


「そういえば、雄座。客人が来ておる。あやめの事は俺がやるから、小屋の方に行ってくれないか?」


 あまりの唐突な事に、雄座は首を傾げた。


「客?俺にか?この社に?」


 月丸はあやめを敷いていた布団の上に寝かせると、悪戯な笑みを浮かべながら答えた。


「まあ、行ってみればわかるよ。お前と語りたいそうだ。」


 雄座はあやめも、月丸の傷も心配であったが、月丸に背を押され、梅の枝を月丸に渡すと渋々、小屋へ向かった。からりと戸を引くと、火鉢が置いてある。その奥に胡座に座っていたのは、芦屋道満であった。


 姿を見た瞬間は驚いた表情を浮かべた雄座であったが、話に応じてくれ、社に入った道満であれば、語りたいと言うのもあり得る。だが、月丸の掌を見てしまっては、流石の雄座も心穏やかとはいかない。道満を見据えながら、雄座は履物を脱ぎ、火鉢を挟んで道満の前に座った。


「天狗は…間に合ったのか?」


 道満は手に持つ盃を口に付けながら、雄座に問う。

 ふと、雄座が目をやると、酒の瓶が置いてある。恐らく、月丸が用意したものであろう。目を道満に戻し、応える。


「はい…。何とか。死姫も、月丸が討ちました。」


 雄座の言葉に、道満はうむ、と小さく頷く。自分とは別の盃を雄座に渡して、酒を注ぐと、自らの空いた盃にも酒を注ぎ、そのまま口に運んだ。


「死姫を天狗に向かわせたのは儂だ。その儂が言う事でもないが、黄泉神と戦っておいて無事とは、流石は妖霊よ。」


 僅かに笑みを見せる道満を見ながら、雄座は渡された盃を口に運ぶ。ふう、と一息付くと、口を開いた。


「天狗のあやめさんも、月丸も、随分と傷を負いました。無事ではないですよ。」


 道満は酒の瓶を雄座に向ける。雄座はそれを受ける。


死姫あいつはこの数百年、何百、何千という妖の命を吸って、大きな力を持った神ぞ。生きて帰ってきただけでも良い。」


 そう言うと、道満はまた酒を口に含んだ。飲み下すと、言葉を続ける。


「数多の妖の命を奪ったのだ。討たれて当然であろう。無論、その片棒を担いだ儂も同様だ。」


 雄座は静かに道満の言葉に耳を傾ける。


「妖霊…月丸と言ったな。彼奴と手合わせし、敗れた時、儂も消してもらおうと思ったのだがな。妖霊を友と言い切ったお前と、最後に話したかったのだ。」


 道満は盃の酒を飲み干すと、自分で酒を注ぐ。


「俺も、生きていた頃、其奴のためなら命すら要らぬ、そう思える友がいた。其奴は妖霊であったよ。」


 道満の言葉に、はっと目を見開く雄座。道満の顔を見ると、鳥居の前で対峙した時、月丸とやり合おうとした時の険しさなどなく、穏やかな、優しさすら感じる表情であった。


「道満殿にも妖霊の友が?」


 雄座の言葉に、うむ、と頷くと、言葉を続けた。


「お主は妖霊を友と言ったな。妖霊が何たるかを分かって友となったのか?」


 道満の問いに雄座は応える。


「妖霊と言うのが何なのかはよく分かりません。あやめさん…天狗から妖霊の伝承は聞きましたが、月丸とは違うし…。気が付けば、友であり、力になりたいと思える、俺にとっての月丸はそんな存在ですよ。ただ…。」


 雄座は言葉を止め、盃に残る酒を飲み干すと、言葉を続けた。


「俺は只の文士だ。力もなく、術も使えず…。いざとなれば何の役にも立たない自分が情けないと思っています。」


 道満は静かに酒の瓶を差し出し、雄座の盃を満たす。


「力になりたい、助けになりたい、そう思うだけで、足を引っ張っているようで…。月丸が、俺を友と言ってくれるだけでもありがたいですよ。」


 雄座は新たに注がれた酒を口に含んだ。


「力など要らぬ。術も要らぬ。あの妖霊の心を繋ぐ存在になってやれば良いであろう。」


 道満も自分の盃の酒を飲み下す。雄座は酒瓶を取ると、道満の杯に注ぐ。


「きっとあの妖霊もお前と同じ事を考えておるよ。お前を守ってやりたい。力になりたいとな。」


 雄座は自分の盃に目を落としたまま、道満の言葉を聞いていた。その姿を見ながら、道満はゆっくりと言葉を続ける。


「妖霊はな。この世の何よりも純粋な存在よ。純粋が故、妖霊が心許した者によって、神聖な者にもなれば、純粋な悪ともなり得る。あの妖霊がお前を信じるならば、お前も自分を信じろ。奴が道を違えるならば正してやれ。」


 そう言うと、道満は懐から一本の巻物を出すと、雄座に投げ渡した。


「これは…?」


 まじまじと巻物を見ながら雄座が訊ねる。


「俺の友が俺に託したものだ。今度はお前に託す。友として妖霊を守ってやれ。」


 巻物の表には「金烏玉兎集」と書かれていた。


妖霊あやつを頼むぞ。神宮寺雄座よ。」


 道満は穏やかな笑みで盃を掲げた。雄座も盃を掲げて、道満の盃に当てた。


「さて、色々話はしたかったが、妖霊が戻ってきた。儂の願いを叶えてくれるそうなのでな。」


 道満の言葉と同時に、からりと戸が開いて、月丸とあやめが入ってきた。あやめは先程までの狩衣の姿ではなく、洋装の、ブラウスとスカート姿に戻っていた。


「もう大丈夫なのか?月丸、あやめさん。」


 雄座は腰を浮かし、戸の方に向き直した。あやめが照れたように笑いながら応える。


「はい。ありがとうございました。月丸さんのおかげで何とか…。」


「あやめを背負ってここまで来た雄座の方が、弱っていたやも知れぬな。少しは鍛えた方が良いぞ。雄座。」


 あやめに続き応じる月丸に、今度は雄座が気まずそうに頭を掻いた。


「最近は酒瓶よりも重いものを持たなかったからな。」


 雄座の目が、ふと、月丸の手に向かう。両手に包帯が巻かれ、火傷の治療がされていた。


「月丸…その手は?」


 心配そうに訊ねる雄座に、月丸は笑って答えた。


「意識の戻ったあやめが治療してくれた。天狗に伝わる塗り薬だそうだ。」


鞍馬天狗おじい様に頂いた薬なので、きっと効くと思います。」





 道満は穏やかな笑みのまま、そのやりとりを見ていた。そしてその目には、懐かしい光景が重なる。


「道満、怪我をしているではないか。」


「なぁに。呪矢を一つ躱し損ねたのよ。」


「それはいかん。梨花!お前の、妖狐の秘薬を分けておくれ。」


「はい。晴明様。さぁ、道満様。これを…。」


 懐かしき、良き時代の光景と重なる。



 道満はくすりと笑うと、月丸に顔を向けた。


「さあ、妖霊よ。神宮寺雄座とも語ることができた。満足だ。俺の願いを叶えてくれ。俺の魂を無に消し去ってくれ。」


 道満の言葉に雄座が慌てて振り返る。雄座の視線に、道満は応える。


「俺も死姫の罪の片棒を担いだ。正しく罪を祓わねばならぬだろう?」


 道満の言葉に、雄座が返す。


「あなたは操られていただけなのだろう?ならば死ぬことはないではないか。俺はあなたが悪人とは思えない。」


 月丸とあやめは、ただ静かに二人を見守る。


 道満は、ふっ、と笑うと雄座を諭すように応えた。


「操られたとはいえ、静かに暮らす妖どもの命を奪ったのは事実。この社に入り、死姫の術が解けた今、儂自身がその罪に耐えられぬわい。妖霊ならば、儂の魂を完全に無としてくれるであろうからな。」


 雄座は、納得のいかないような顔を道満に向ける。その顔を笑いながら道満が言葉を続けた。


「儂は殺しすぎた。魂は晴明と共には居れぬ。今の世に残り続けたいとも思わん。ならば、生まれ変わることもなく、儂という存在が完全になくなることが、儂のせめてもの罪滅ぼしだ。」


 道満は月丸に顔を向け、言葉を続けた。


「頼めるか?妖霊。」


 月丸は静かに頷くと、道満に応える。


「あなたが望むなら、頼まれよう。」


「だめだ月丸!道満殿。あなたは悪くないではないか。悪いのは死姫であって、その死姫ももういないのだから…。」


 雄座の言葉を静かに聞きながら、道満はふう、と息を溢す。


「儂の友と約束した。あやつが壊れた時、儂が止めよう。儂が壊れた時は、あやつが止めてくれると。儂の友はもう居ない。ならばせめて、友と同じ、妖霊に幕引きを頼みたい。儂の願いだ。」


 外に出ようと道満は立ち上がり、目を戸に向けたまま、その動きを止めた。


 戸口に立つ月丸とあやめも、驚いたように動きを止める。驚き目を見開く道満。雄座は何事かと道満の目線の先を見遣る。


 丁度、板の間の土間側に、それは立っていた。淡い光に包まれ、青い袖尾を通した白い狩衣、下は紫の指貫を纏う。烏帽子の下には銀色の長く美しい髪を降ろし、男とも女とも判らぬが、大きく睫毛で飾られた瞳は、まるで血のように赤い。すらっと整った鼻、赤い唇は穏やかな笑みを浮かべる。


「…月丸?」


 その者は雄座から見ても、あまりに月丸に似ていた。しかし、道満からは別の名が出た。


「何故ここに…。晴明…。」


 彫り深く、険しい表情の道満の目からは、ぼたりぼたりと涙が溢れ出す。


「久しいな。道満。この様に相対する事が叶うとは、夢にも思わなかった。嬉しいぞ。」


 道満はふらり、ふらりと、晴明に歩み寄る。晴明は穏やかな笑みを浮かべ、優しく語りかけた。


「道満。お前には随分と辛い役回りをさせてしまったな。お前を守ってやれず、済まなかったな。」


 道満が答える。


「気にするな。私もお前との約束を守りきれなんだからな。済まない。」


 道満の言葉に晴明は首を横に振る。


「お前は約束通り、壊れた俺を救ってくれた。操られた私を戻してくれた。自らの魂と引き換えに私の穢れを祓ってくれた。十分だ。もう自分を犠牲にする必要はない。」


 晴明はそっと道満の肩に手を回すと、抱きしめた。


「長き年月、ただ晴明、お前のためだけに屍となって生きてきた。お前に消されるために。」


 道満は晴明に抱かれたまま、声を詰まらせながら言葉を続ける。


「俺もまた、壊れたままよ。願わくば、在りし時の俺の願い。叶えてもらえまいか。」


 晴明は道満の言葉に、うむ、と頷くと、道満から体を離し、月丸に向いた。


「現世の妖霊よ。我が友、芦屋道満はお主に魂の消失を頼んだ様だが…その願い、反故にする事は叶わぬか?」


 月丸は笑みを向け、こくりと頷く。


「構わぬよ。友との約束、どうか果たしてやってくれ。」


 晴明は月丸に笑みを返すと、雄座を見る。その手には道満に託した金烏玉兎集が握られていた。


「そうか。あの者が私をここに導いてくれたのだな。道満よ。辛く長い年月の果てに、我らと同じ、妖霊と人の絆に私達の想いを託せたのだな。」


 晴明の言葉に道満も雄座に目をやり答える。


「ああ、随分と気の良い、我らと同じ、馬鹿者どもだ。だが、もう伯道上人も居らぬ。儂等の様な事にはなるまいよ。」


 晴明は道満の手を取る。


「では道満。行こう。梨花も居る。あの頃の様にまた三人で遊ぶとしよう。」


「おう。晴明。あの頃の様に遊ぼう。」


 そう言うと、二人は光に包まれた。あまりの眩しさに雄座は腕で目を隠した。やがて光が消えると、晴明、道満の姿は消えていた。



「付喪神……。また、溜めた力を使い放ったな。親子揃って無茶をする。ありがとう。」


 月丸はふっと息を漏らすと、笑みを浮かべたまま、誰に言うわけでもなく呟いた。隣のあやめには月丸の呟きが聞こえていたが、雄座同様、何が起こったか判らないまま立ち尽くしていた。

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