しき 漆
道満達の件もあり、既に夜も更けてきたため、月丸は雄座を社に泊めた。雄座が持ってきて社に置いてゆく酒も残っている。月丸の用意した干し飯や漬物を摘みながら、雄座は酒を口に運んだ。
月丸は、まるで何事も無かったかのように普段通りの笑みで、雄座の語る陰陽師の逸話に耳を傾ける。
やがて時計の針が午前一時を指す頃には、雄座は小屋で布団に身を包んで寝息を立てていた。
月丸は雄座が眠った後、一人境内に出た。その顔に笑みはなく、ただ、雲間にちらりと見える月の姿を茫然と眺めていた。
「俺は随分と役立たずになったものだな。」
ぽつりと呟く月丸。
雄座が居なければ、社の外に出られない。
雄座が居なければ、力を出すこともできない。
友である雄座を守りたいが、そのために雄座が側にいる必要があるため、雄座自身を危険に晒すことになる。
離れれば、河童化けの時や今日のように、分身は妖気を失い、討たれてしまうだろう。
「情けないな。どうしたものやら。」
掌を月にかざし、自分の非力を薄ら笑った。
銀座の通りに架かる三原橋。道満と死姫と呼ばれた女が立っている。
女は嬉々としながら欄干に腰を下ろし、道満の方へ振り返った。
「さて、道満。そろそろ話してくれないかしら?先刻の男が妖霊の足掛かりって言ってたけど、何者なのか、気付いているんでしょう?」
道満は相変わらず死姫には顔を向けることはないが、死姫の問いに応じた。
「奴が消える刹那、銀に光る毛のようなものが見えた。恐らく妖霊を知る者の式だろう。式にしてあれ程の霊力を持っているのだ。妖霊若しくは妖霊に近しい術者の仕業であろう。」
普段は死姫の問いに答えることもない道満が直ぐに応じた事に、死姫は驚いたような顔を見せた。
「へぇ…。まぁ、確かに随分な霊力を頂けたけどね。妖霊に近しい者ってのはあんたの想像かい?それとも何か確証があるのかい?」
道満は死姫の言葉に頷く。
「この世に神と闘い、それを討てる者など限られて居ろう。数百年掛けて幾多の妖の霊力を吸い取り、力を得たお主でも、鬼神とまともにやり合えばただでは済まぬであろう。」
死姫は道満の言葉に不快な顔を見せるが、道満は気にする事なく言葉を続ける。
「あの式神。鬼神を相手に臆す事もなく討ちおった。そして妖霊を知っている。何より百鬼夜行を聞いて、目の色を変えおった。唯の妖怪が、真の百鬼夜行を知る筈なし。妖霊本人か、近しい者でなければ、ああはなるまいよ。」
死姫は道満の言葉を聞き、にやりと怪しい笑みを浮かべる。
「いいだろう。確かに妖霊に繋がりそうだ。で、あの式神を使った者は何処にいるんだい?」
死姫の言葉に、道満はくるりと背を向け歩き始める。
「気になる場所はある。今から行く。付いてこい。」
背中を向け一言呟く道満に、死姫は軽く舌打ちし、その後を追った。
やがて辿り着いたのは昼間に道満の式神が消えた銀座の小道であった。流石に真夜中とあって、通りは闇に塗られている。煉瓦屋が並ぶその通りは、ここ銀座では特に珍しくもない。通りに面する店々は当然閉まっており、明かりもない。雲間から薄く照らす月明かりと、遠くで光る瓦斯燈の光で辛うじて景色の輪郭が見える。
「何だい?昼間の場所じゃないか。昼間も何も無かったろう?こんな煉瓦屋に妖霊がいるってのかい?」
死姫の軽口を道満は受け流し、煉瓦屋の壁に手をつけ、静かに目を瞑った。
境内に立つ月丸は、人の気配に目線を鳥居に移す。僅かばかり驚いた。先ほどやり合った芦屋道満が、目の前にいる。鳥居は見えていないのだろう。壁に見える鳥居の空間に手を広げ、目を瞑って何かを探っているようだった。その様子を注意深く見守る月丸。
「まさか、この僅かな時間でここを探し当てたか?いや、昼間の式神の件で、予測したか…。」
何にせよ、鳥居の外に道満と死姫が居る。月丸は鳥居に向かい歩を進めた。社の結界の為、二人の声は聞こえない。壁に手を当てたままの道満と、道満の背から何かを話している死姫の姿を、月丸はただ、眺めるだけであった。
「古の陰陽師。この社の結界を破る事は出来ぬであろうが、何にせよ侮れぬな。」
月丸はまるで感心するかのように言葉を溢した。
月丸は二人を静かに観察する。暫しの間、道満は動かない。後ろの死姫は、苛立つように何かを叫んでいる。随分と短気なようだ。道満は動かないが、僅かに口が動いている。何かを唱えているようだ。恐らくここに何かがあるのは認識しているのかもしれない。猛るわけでもなく、冷静に事を進めている道満に、月丸は改めて、この男が伝説の陰陽師であると認識した。
やがて道満は手を下げた。
「何かあるが…何も無い。何だ?この地は…。」
道満は驚いたように呟いた。後ろでは死姫が飽きたのか、止め処なく愚痴を溢しているが、道満の耳には入らない。
「結界のようだが、結界なのか分からない。」
「幻を見せられているようで、ここに現る。」
「何より、家屋があっても、その存在感が無い。」
道満は数歩、後ろに下がると、懐から一枚の呪符を取り出し、何かを唱え、足元にひらりと落とした。すると符は地に着くと、瞬く間に護法童子の姿に変わる。人の童程度の大きさで、顔は能面のように表情がない。道満は顎で指図すると、護法童子は先程道満が手を置いていた壁に向かって走り出した。
どん
勢いよく駆けた護法童子は、壁にぶつかり、ごろりと跳ね返される。
「ふむ。」
道満はもう一枚、符を取り出すと、口に当て術を唱える。先程と同じ様に、地にひらりと符を落とすと、今度は鬼が一匹現れ、先程の護法童子と同じく、壁に勢いよくぶつかり跳ね返された。
その一部始終を見る月丸は、道満の企みが見えない。この社は、結界に覆われ、外からは見る事も入る事も叶わない。二匹の式神で何をしようとしていたのか、月丸は静観するしか術はない。
「結界を壊そうとしているのか?それにしてはあの式神程度では無駄であろうに…。」
月丸は独り呟くと、はっと道満の企みに気付く。
「式神をぶつけたのは、結界の存在を知るためか。」
月丸がそう気付いたのと同時に、道満はにやりと口元を歪ませると、式神を戻し、社に背を向け歩き始めた。その後ろを不機嫌そうな死姫が追って行く。
「…伝説として謳われる陰陽師、芦屋道満か…。これは本当に放っては置けなくなったな。」
二人が消えた鳥居の前の通りに目をやりながら、月丸は笑みなく呟いた。
銀座の大通り。瓦斯燈の仄かな明かりが道に沿って点々と灯る。その明かりの下を道満は足早に銀座四丁目方面へと歩く。道行く人は居ない。
「ちょっと、いい加減に止まりな!どこまで歩かせるんだい!」
死姫の怒鳴りにやっと道満は歩を止めると、ぼそりと呟いた。
「あの地には何かとてつもないものがあるやも知れぬ。」
道満の言葉に死姫は不機嫌な声色で問う。
「あの地って、さっきの小道かい?何よ?とてつもないものって。そもそも、式神を壁にぶつけて遊んでたんじゃないのかい?」
道満は顔色を変えることなく、振り返り死姫を見る。
「先ほど俺が呼んだ式。最初の護法童子には目の前の壁を壊す様命じた。煉瓦造とは言え、唯の壁ならば護法童子が壊せる。しかし壁は壊れず、逆に護法童子が跳ね返された。」
一息つくと、道満は言葉を続ける。
「次の鬼だ。あやつらは霊的な障壁にも負けぬ。勿論、唯の結界程度なら物ともせぬ。だがどうだ?結果は護法童子同様、跳ね返された。」
道満の言葉に、死姫の表情から不機嫌な色が消え、真剣な表情となる。
「護法童子でも鬼でも壊せぬ壁…。結界だね?」
死姫の言葉に道満は頷く。
「おうよ。しかも結界の存在すら判らないほど、高位の結界だ。それ程の結界で守るべきものと在れば…。」
道満の言葉を、嬉々とした死姫の声が遮る。
「妖霊なり、百鬼夜行を封じる地かも知れない!遂に足掛かりを見つけたのだな!」
死姫の目が喜びに怪しく光る。その目はまるで獲物を狙う蛇の様に、不気味に見える。
「恐らくはそうであろう。だが、俺もお前も残念ながらあの結界を直ぐには解けまい。」
そういいながら、道満は死姫に背を向ける。
「お前はあの天狗を喰ってこい。先程の男から吸い上げた霊気があれば、お前でも天狗も餌にできよう。」
死姫は少し考え、思い出した様に手を叩いた。
「昼間の車の女か。そうね。今なら負ける気はしないわ。天狗の力も得られれば、結界も容易く壊せるかも知れないねぇ。じゃあさっさとあの天狗を探しに行くよ!」
道満のコートを背中から引っ張り、連れて行こうとする死姫に、道満は首を横に振る。
「ここからは別行動だ。今のお前なら天狗など直ぐに探せるだろう。俺はあの結界の解き方を探る。」
道満が指示するのが気に入らないのか、死姫は眉間に皺を寄せたが、すぐに表情を崩す。
「まぁ、私が居なければお前は生きてはゆけないのだし、変な気は起こさないだろう。」
道満の正面に回り、下から道満の顎に指を滑らせる。
「精々、結界を解ける様にしておくんだね。上手くいけば、道満、お前は自由だ。」
道満は死姫の手を払うと、そのまま四丁目方面へと姿を消した。
道満の後ろ姿を見送ると、死姫は有楽町へと向かって歩き出した。




