第30話
焦げた梁の破片を持ち上げると、煤混じりの埃がふわりと舞った。
「せーの、でいきますよ、神田先輩! 腰、やっちゃわないでくださいね!」
丸眼鏡を指で押し上げながら、吉村平吉が顔を歪めて叫ぶ。サイズの合わない背広の袖は煤だらけで、すっかり肘のあたりが擦り切れていた。
「わかってる。せーのっ!」
掛け声とともに二人で力を込めると、黒焦げの柱が軋み、道端の瓦礫の山へと転がり落ちた。塞がれていた路地に、荷車一台分が通れるだけの隙間が生まれる。
「はい、お二人とも! 麦茶が入ったよ。冷たくはないけど、喉くらいは潤せるから!」
弾んだ声とともに、白いエプロン姿の鈴子が湯呑みを載せたお盆を運んできた。モダンな着物の裾をきりりと襷掛けにして、額に汗を光らせている。差し出された粗末な湯呑みを受け取り、一気に喉へ流し込んだ。ぬるい茶の渋みが、乾ききった身体に染み渡る。
「ふう……生き返るな。ありがとな、鈴子」
「お礼なんていいのよ。神田さんたちが朝から瓦礫をどかしてくれたおかげで、炊き出しの鍋も運びやすくなったんだから」
鈴子は笑って空の湯呑みをお盆に回収し、炊き出しの天幕へと小走りに戻っていった。
瓦礫の向こうには、どこまでも広がる灰色の平原が横たわっている。かつて帝都と呼ばれた街の大部分は焼き尽くされ、見通しの良すぎる荒野と化していた。けれど、そこにあるのは絶望の沈黙ではない。
カン、カン、と遠くから木を叩く槌音が響いてくる。誰かがバケツの水を撒き、誰かが木材を担いで歩く。生き残った人々が、自らの足で立ち上がり、暮らしを取り戻そうと動き出していた。
東の空から、白々とした新しい朝の光が差し込んでくる。焦土を照らすその光は、残酷なほど眩しく、そして暖かかった。
あの九月一日の記憶が、脳裏をよぎる。
午前十一時五十八分。大地が咆哮を上げ、世界が裂けた瞬間。瓦礫が降り注ぎ、あちこちから煙が立ち上る中、帝都は一瞬にしてパニックに呑み込まれた。
けれど、無駄にはならなかった。
事前に配り続けた号外と、町内での根回し。火災の危険を知らされていた一部の群衆は、炎の風上を目指して迷わず足を動かした。大八車を捨て、身一つで逃げる決断を下した者たちがいた。
そして俺自身も、崩れゆく街の中を無我夢中で駆け抜けた。史実で最も多くの命が奪われた死地——被服廠跡へと向かう人波の前に立ちはだかり、声を枯らして叫び続けたのだ。荷物を捨てろ、そっちへ行くな、北の広場へ向かえと。
警察の香川巡査が笛を鳴らし、徳兵衛さんや仲間たちが背中を押した。巨大な火災旋風が荒れ狂う中、俺たちは人の壁となり、命の退路を拓き続けた。
犠牲をゼロにすることはできなかった。歴史のすべてを覆すことなど、到底できはしなかった。
それでも——失われるはずだった無数の命が、確かに救われたのだ。耐水紙の号外を握りしめ、炎から逃げ延びた人々が、今こうして目の前で呼吸をしている。
胸の奥に、静かな熱が広がる。現代で災害報道に関わりながら、いつも事後の惨状を伝えるだけで、誰一人救えなかったあの無力感。冷たい泥のようにこびりついていた過去の後悔が、朝の光に溶けていくような感覚があった。
「……先輩?」
吉村が不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「どうしたんですか、急に黙り込んで。空ばっかり見上げて」
「いや、なんでもないよ。いい天気だなと思ってな」
「呑気ですねえ。こんな瓦礫の山を前にして。でもまあ……本当に、よく生きて朝を迎えられたもんですよ」
吉村は額の汗を袖で拭い、小さく息を吐いた。それから少し改まった様子で、丸眼鏡の奥の目を瞬かせる。
「そういえば、先輩。これからはどうするんですか?」
「これから?」
「ええ。帝都日報の社屋だって焼け残った印刷機を使ってなんとか臨時紙面を出せるようになりましたけど、まだまだ街はめちゃくちゃです。先輩が予言めいた号外を配って歩いたあの怒涛の三日間は終わっちまった。警察の九条警視正だって、今は復興支援で手一杯ですけど、いつお咎めが来るかわかりませんよ」
吉村はからかうような口調の裏に、本気で俺の身を案じる色を滲ませていた。
俺は小さく笑った。もう未来の知識は残っていない。何年何月何日に何が起きるかというカンニングペーパーは、この震災をもってすべて使い果たした。これからの帝都がどう復興し、世界がどんな時代を迎えるのか、大まかな歴史の流れは知っていても、明日の街角で誰がどんな困難に直面するかまでは分からない。
俺はもう、未来を知る特別な人間ではないのだ。
「ただの記者に戻るだけさ」
俺の言葉に、吉村は目を丸くした。
「ただの記者、ですか?」
「ああ。この時代で、この街で、目の前の真実を拾い集める。困っている人の声を聴いて、生きるために必要な情報を届ける。命を守るための記事を、泥臭く書き続けるだけだ」
特別な予知能力などなくても、俺には手に入れたものがある。桐島編集長とぶつかり合って確かめた報道の覚悟、橘薫さんが示してくれた科学の真摯さ、徳兵衛さんや鉄蔵さんの職人気質、香川巡査の矜持、そして吉村や鈴子たちと築いた確かな絆。
それらすべてが、これからの俺の足元を支えてくれる。
「ふーん……相変わらず、青臭いこと言いますね」
吉村は呆れたように肩をすくめたが、その口元にはどこか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「まあ、先輩が書くなら、僕がいくらでも原稿の誤字脱字を直してやりますよ。新米記者扱いされるのは癪ですけど、先輩の隣でなら、いい記事が書けそうな気がしますからね」
「おいおい、誰が誤字だらけだって?」
「事実じゃないですか。あの号外のゲラ刷り、殴り書きでひどかったんですから!」
二人のやり取りを聞いて、戻ってきた鈴子がくすくすと笑い声を立てた。
「仲がいいんだから、お二人とも。ほら、おしゃべりしてないで、あっちの木箱も片付けちゃってよ。お昼の炊き出しまでに場所を空けたいんだから」
「へいへい、ただいま!」
吉村はひらりと手を振り、木箱の山へ小走りに向かった。
俺は大きく息を吸い込んだ。朝の冷気に混じる、微かな木の香りと潮風の匂い。肺を満たす空気は清々しく、確かな生の鼓動を伝えてくる。
一枚の号外から始まった、長くて短い戦いは終わった。けれど、俺たちの人生は、ここから続いていくのだ。この大正の空の下で、泥にまみれ、傷つき、それでも前を向いて歩いていく。
灰色の荒野のあちこちから、復興の槌音が力強く響き渡っていた。壊された街の隙間から、新しい命の息吹が芽吹いている。
俺は背筋を伸ばし、朝日に包まれた瓦礫の街へ、迷わず新たな一歩を踏み出した。




