其之伍 12月30日 暖簾と参考書と
真横に両腕を伸ばした暖簾をくぐると、春の香りがした。
古い樹木のような包装紙から漂う匂いは、いつも鼻の奥をくすぐられるようで、いずい。
もし天国にも匂いがあるのならきっと、こんな感じなんだろうか。
「お帰りなさいやし!」
ソウの実家の遊苑堂は、オレの家の寺がある青葉山の麓の、ひっそりとした住宅街にある。
派手な看板もないし、暖簾が出ていなければそこで食べ物を売っているとは気が付きにくい。
そういう隠れた名店みたいな感じだ。
実はコンビニへ行くより、ソウの家の方が近いんだぜ。
山の中にコンビニは少ないからよ。
「よお、ケンジ! 雪にもシゴキにも負けず、元気でやってるか」
「いつもありがとな、ケンジ」
「おかげさんで。勉強させてもらってます」
「ちょっと荷物取りに、ジャマするぜ」
ショーケースの中の色とりどりの和菓子を横目に、従業員と家の者しか通らない中暖簾の顔を捲った。
顔は大事だから、普通は染め物屋とか専門の職人に頼んだり、紙型を持っていて代々使うものらしいぜ。
でも親父さんは自分で筆を取ったんだとよ。
小説家志望だったウチの親父と、ちょっと似てるよな。
「へい。ヤスさん、ごゆっくりどうぞ!」
ケンジの声に背中を押されるようにして、テカテカした木の長い廊下を渡っていく。
わざわざ店の中を通らなくても、最短距離の入口は別にある。
でもオレはあえて、いつも店から入ることにしている。
さっきのケンジに、声をかけるためだ。
アイツは遊苑堂の中でも、比較的若い職人さんだ。
ガキの頃からこの店の味を知っているオレを、今みたいに慕ってくれている。
オレもソウも、自然と距離が近くなった。
どうしてかって?
もう、名前で分かるだろ。
親交はなかったけど、川端康成と宮沢賢治は同じ時代を生きていたんだぜ。
「ヤス、待って! 俺さ。思い出したんだよ」
「ん? どうかしたのか」
部屋はすぐそこだっていうのに、ソウは右手を顔に当てて深刻そうに、眉をしかめた。
「厨二病ゴッコか? お前いい加減、そういうのは卒業しろよ」
ポコッ。
ポコッ。
心の経文で小突いたが、ソウは動かない。
おい、なんか反応しろよ。
オレがひとりでツッコんでたら、むなしいだろうが。
「この前寝る前に、アレが出たんだよ!!
まだきっと中にいるよ!
オレ入りたくないから、ヤス取ってきて。机の上にあるはずだから」
「ったく、しょうがねえな。わかったよ。
ついでにアレがもし、まだいたら。退治しといてやるよ」
「うん、お願いします」
アレはいわゆるGがつくやつのことだ。
和菓子屋なので、その名を口にすると呪われるとソウは叩き込まれているから、アレとしか言えない。
しかし、何がそんなに怖いんだか。
ただ触覚の生えた、茶色の虫だろ。
ポコッ。
ポコッ。
ソウの部屋は、静かだった。
パイプベッドと、勉強机と、本棚。
何度も出入りしているが、最低限なものしか置いていない。
三種の神器は、ウチにあるからな。
神器が何かって?
決まってるだろ。
コタツと。ゲーム機と。電気ポットだ。
家具は全部、よくある市販のものに見えるけど丁寧に使っていたことが分かる。
例えば、変なステッカーがベタベタ貼ってあるだとか。
オレの部屋みたいに、実は壁がへこんでいるなんてこともない。
そうじゃなかったら。
マジックテープの財布なんて、チャチなもんは何年も使えない。
あの財布は、本当は。
歳をとって膝を悪くしたばあちゃんが、これからはこれでおやつを買っておいでと言って、くれたやつなんだ。
しかも小遣い付きでだ。
ソウは黒、オレは紺色の色違い。
色はジャンケンして決めた。
オレも今も使っているのかって?
そんな訳ねえだろ。
そもそもオレは、文無しだぜ。
財布なんていらねえよ。ポケットで充分だろ。
それまでばあちゃんは、何でも手作りして用意してくれていた。
中でもソウは、ばあちゃんのおはぎが大好物だった。
家で作ってるやつより、うまいって。
ガキでも和菓子屋の息子に褒められて、嬉しくないやつなんていない。
オレも、ばあちゃんも。
あの日から、きっと。
ソウは、家族だった。
勉強机に並んでいる教科書とテキストをパラパラ開くと、ソウが言っていた参考書を見つけた。
コマ送りにページを開くと、カドの余白に図形とも記号とも言い難いものがいくつも書き込まれていた。
勉強の合間に、和菓子のデザインでも考えていたんだろう。
ソウがどこまで本気で和菓子屋のあとを継ぐつもりでいたのか、本当のところはオレには分からない。
素直なようでいて、ソウは本音を隠すのがうまいからな。
でも、夢を夢のままにするやつじゃなかった。
オレはそう思ってる。
だからオレだけが、まだ。
夢から醒めていないのかもしれない。
参考書も手に入れたし、帰ろうと思ったが机の引き出しが僅かに開いていることに気付いちまった。
オレはこういうのは、気になるタチなんだ。
閉めるついでだからな、と言い訳しつつ開けてみた。
オレが受験の前にあげた、お守りが一式入っていた。
ばかやろ。
お守りって言うのはな。
終わったら、お焚き上げしてもらうものなんだ。
後生大事に、持ってるんじゃねえよ。
ポコッ。
ポコッ。
「ソウ。アレは退治したから、帰るぞ」
「そっか、ありがと。あ。ヤス目が少し赤いよ。大丈夫?」
「……なんか目が。いずいんだよ」
「ははは。ヤス、いずいも都会じゃ通じないんだよ」
「そうなのか!? マジか。今から気をつけておかねえと」
いずいって言うのは、違和感があるとかむず痒いって意味なんだぜ。
しかし、都会じゃなんて言うんだろうな。
もしアンタが知ってたら、今度教えてくれねえか。
「あと和菓子の匂いに酔ったかもしれん。
サッサと帰ろうぜ」
「あはは、じゃあまたゲームの続きでもする?」
「そうだな。今日はもう、勉強はいいか」
ソウとだべりながら、横長の暖簾を再びくぐって、オレは春を後にした。
最後になんとなく振り返った、遊苑堂の暖簾の色は。
オレの好きな、蜜柑と同じ色だった。




