第一章二節 高秋の訪問 その9
一通り話し終わると、東雲が何かを思いついたような表情を浮かべて口を開いた。
「そうそう、言い忘れていました。思えば翡翠さん、私たち彼岸の住人が用意したものをなんの疑いもなく口にしていましたね。」
翡翠には東雲の質問の意図が分からなかったが、困惑しながらも頷いた。
「はい、いただきましたけど……。何かまずいことでもありましたか……?」
「基本的に神であれ妖であれ、彼岸の住人である存在が出した食べ物をむやみやたらに口にしてはいけませんよ。何が入っているか分からないですし、口にしただけで姿を変えてしまうような代物もありますから。もちろん、私はそう言ったものは絶対に渡しませんので、そこは安心していただいて構いませんが。」
「姿を変えてしまう……ですか。そんなものがあるなんて……。それは、元々現世に存在する食べ物なんですか?」
「いえ、常世の食べ物です。あちらの世界ではそういった類の食べ物があるということは常識ですし、誤って口にするようなものもいません。」
翡翠は東雲の言葉を聞きながら、小さい頃に桜から聞いた話を思い出していた。
*
『翡翠、いいかい?いつか翡翠にも人ではないモノが見えるようになる日が来る。』
『本当!?翡翠にも、おばあちゃんと一緒のモノが見えるようになるの!?』
『近い将来、そうなるだろうね。基本的に私たちに対して優しいから、関わらないようにしなさいとは言わないよ』
『うん!』
翡翠を撫でながら、桜は微笑んだ。
『でも……』
そこで一旦間を置き、しっかりと翡翠の目を覗き込みんでから続きを話し始めた。
『そういった存在から食べ物を貰ったとしても、絶対に食べてはいけない。食べてしまえば、もうこちらには戻って来れなくなる。』
『わかった!!翡翠、約束する!!!』
そう言うと、桜は再び目を細めながら翡翠を優しく撫でる。
『翡翠はいい子だね。それじゃあ、一緒におやつでも食べようか』
『わーい!!!おばあちゃん大好き!!』
*
「あの、翡翠さん?大丈夫ですか?」
東雲に声をかけられたことで脳裏に浮かんでいた祖母の優しい笑顔が掻き消え、代わりに彼の端正な顔が視界いっぱいに広がる。
きっと、普段の翡翠であれば驚いて大袈裟とも取れるリアクションを取っていただろうが、祖母の思い出に浸っていた余韻が勝り、そうはならなかった。
「あっ、失礼しました!私が小さい頃、祖母に言われたことを思い出しまして。」
「そうではないかな、と少し思っていました。それで、桜は翡翠さんにどんなことを伝えたのですか?」
「やはり、『人ではない存在から貰ったものは食べてはいけない、戻れなくなるから』と」
翡翠の言葉を受け、東雲は目を細めた。
「どうやら桜は私が思っていた以上に、翡翠さんに対して様々な知識を伝えていたようですね。」
「そう、みたいです。今の今まで忘れていましたが……」
翡翠はそこで口を閉し、桜の言葉を思い返す。
『人ではないモノが見えるようになる日が来る』、か。
私の記憶が間違っていなければ、おばあちゃんにこの話をされたのは三歳か四歳の頃。
結局、十八歳になっても見えたのは東雲だけ____といっても彼の力を借りて____だったけど、やっぱりおばあちゃんの言ったことは間違ってなかったんだなあ。
その事実に、なんだか救われたような気がして自然と笑みが溢れた。
こちらを覗き込む東雲は、不思議そうな表情をしていた。なぜ笑っているのか分からないとでも言いたげだ。
「あ、すみません……また自分の世界に入っていしまいました。
____東雲の話を聞いて思ったのですが、彼岸ではこちらの世界の理はあまり通用しないようですね。」
「ええ、おっしゃる通りです。あちらの世界には本当に様々な性質のモノがいますから」
「でも姿が変貌してしまうようなものまであるなら、もう少し現世に伝わっていても良さそうだと思うんですけど。」
「臨死体験をする人の子はいますが、そもそも稀です。それに、そういった者は常世の入り口付近で彷徨うことが多いので、常世の本質的な部分には触れられません。
そういった事情が防波堤の役割を果たしているため、現世に伝わることがないのです。」
「なるほど……。そういう事情があったのですね。」
翡翠は納得すると同時に、少しの恐怖心が芽生えた。
どうやら自分で思っていた以上に、彼岸は此岸と、そして何よりも自分自身と密接に結びついているらしい。生と死は常に隣り合わせと誰かが言っていたが、正直実感なんて湧かなかったし、どこか他人事だった。
でも今日、東雲と話していて気がついた。もしかしたら私は、普通に日々の生活を送っている人よりもずっと、ずっと彼岸の世界に近接しているのではないか、と。
おばあちゃんがいた頃はおばあちゃんを通じて、そして現在は東雲を通じて、あちらの世界と深く結びついている。
『深淵を覗いているとき、深淵もこちらを覗いている。あなたも気をつけてくださいね。
____と言っても、もう遅いかもしれませんが。』
いつだったか、こんな言葉をかけられたことがあった気がする。
それを誰に言われたか、どんなタイミングで言われたかは全く思い出せないが、この言葉はまさしく今の私を体現していると言っても過言ではない。
『東雲は私を守護すると言ってくれているけど、なるべく迷惑をかけないように自分でも気をつけていこう。』
心の内でそう呟いて、キュッと唇を引き結んだ。




