第一章二節 高秋の訪問 その1
「この神社にこんな綺麗な庭園があるなんて知りませんでした……」
翡翠の驚きのこもった言葉に、東雲が嬉しそうに目を細めた。
「綺麗でしょう。ここはこの社の中で一番気に入っている場所なのです。」
一人と一柱の神は広大な池の水面が太陽の下光輝きながら揺らいでいる様子を、静寂に包まれながら見つめていた。
遡ること一時間前__________。
秋晴れの気持ちがいい青空の下、翡翠の姿は東雲の住う神社の参道にあった。
その手には、小包が握られている。
と言うのも、昨日ご近所の方からいただいたおはぎがものすごく美味しく、せっかくなら東雲にもお裾分けしようと思い、おはぎを手に東雲の元へ訪れたのだ。
今日の参道は、翡翠が初めて東雲と出会った日に感じた印象とは全く異なる印象だった。
あの時は、高くそびえる木々から多少の威圧感を感じたが、改めて見てみるとそんなことはなかった。
自分が手を広げても覆うことのできない太い幹から、天へと伸びる枝の葉が木陰を作り出している。
所々に差し込んだ日の光は、柔らかく、とても心地の良いものに感じられた。
そして風が吹くと、木漏れ日の位置や光の明るさが変化するため、全く違った様相を呈する。一瞬たりとも、同じ景色は無いのだ。
葉の擦れ合う音と水の流れる音が相まって、とても優しく、癒してくれるような音色を作り出している。
翡翠は一旦立ち止まり、目を閉じた。そして大きく息をすうっと吸ってからゆっくり目蓋を開いていく。
たったそれだけのことなのに、全身に溜まっていた倦みが浄化され、澄み渡っていくかのように感じた。
『ああ、自然の中で目を閉じているこの瞬間がたまらなく好きだなあ』
そう思いながら、翡翠は再び足を動かし始めた。
今日の翡翠の服装は首元にレースをあしらった薄桃色の半袖ニットに、白のカーディガンを羽織り、紺色に白の小花が描かれたロングスカートを纏っていた。たまに吹く風が、翡翠の履いているスカートの裾を靡かせていく。
秋になったとはいえ、まだ気温が高い中で吹く涼やかな風はとても心地がよかった。
二の鳥居をくぐり神社に入ると、一番北にある本殿へと続く階段に腰掛けている東雲の姿が目に入ったので、翡翠は早速東雲に声をかけた。
「こんにちは、東雲。何をしているのですか?」
「ああ、翡翠さん、こんにちは。今日の空は青々としていて、見ているととても清々しい気分になることができますので、ただひたすらに空を眺めていました。」
東雲の言葉につられて、翡翠は空を見上げた。
雲ひとつない澄み渡るような青空は、確かに人の心に心地よい風を吹かせてくれるように感じる。
「本当に気持ちの良い青空ですね。ずっと見ていたくなる東雲の気持ちもわかります」
「文月や葉月のうだるような暑さが過ぎ、秋が深まるにしたがって、入道雲のような力強さを持つ雲が浮かぶ空は見れなくなりましたが、秋の包み込んでくれるような優しい空が見れるのは素敵ですよ。」
「……何千年見て来ても飽きずにそう思わせてくれる空は凄いですね。」
「ええ、本当に。」
空を見上げながら、東雲が答える。その横顔を見つめながら、翡翠の口から自然と言葉が漏れた。
「凄いのは、東雲も同じですよ。」
「私も……ですか?」
東雲にとっては思いがけない言葉だったようで、驚いた表情を浮かべながら、空から翡翠へと視線を移した。
東雲から向けられた視線に気づき、翡翠も真っ直ぐに東雲の赤い瞳へと視線を注いで微笑んだ。
「はい。何千年という長い時の中で、何度も何度も、それこそ数え切れないほど空を見てきたはずなのに、そんな瑞々しい感想を抱けるなんて凄いことだと、私は思います。」
東雲は、しばらくの間微動だにせずじっと翡翠の姿を凝視していた。
あまりにもその時間が長かったため、もしかしたら何かまずいことでも言ってしまったのではないかと言う思いが翡翠の脳裏に過ぎる。
結局、その沈黙に耐えきれず、翡翠はガバリと頭を下げた。
「私何か変なこと言ってしまいましたか?気を悪くしたのなら謝ります、ごめんなさい!!」
東雲の気分を害することを言ってしまったのではないかと慌てている翡翠の姿を見て、東雲は小さく微笑んでから口を開いた。
「すみません。私は気を悪くしてなどいないので、安心してください。ただ、驚いていたのですよ。」
「驚くところなんてありましたか?」
「ええ。……翡翠さんはとても素敵な感覚をお持ちなのに、変に鈍いところがありますね。」
「褒められてるのか貶されてるのか分からないです。」
少し不満げな声で翡翠がそう告げると、東雲はいつも通りの綺麗な笑みを湛えた。
「もちろん褒めていますよ。ところで、今日はどのようなご用件で?」
東雲の問いかけにより、翡翠は神社に訪れた本来の目的を思い出した。
「あ、実は近所に住んでいる方からおはぎをいただいたんですが、だいぶ量が多かったので一人では食べきれなくて。
甘味に精通している方からいただいたおはぎなので、美味しいことは間違いありません。
そこで、ぜひ東雲にも食べていただきたいなと思って持ってきました。」
「それはそれは……。ありがとうございます。おはぎを口にするのは何年ぶりでしょうか。以前別の神から貰った際に、一口齧った瞬間そのまろやかな舌触りと甘さの魅力にすっかり取り憑かれてしまいました。絶対にもう一度食べたいと思っていたので、嬉しい限りです。」
「この前私の家でお饅頭をとてもキラキラした表情で食べていたのを見て思っていたんでけど、東雲ってもしかして甘いものがお好きですね?」
「よくお分かりになりましたね。翡翠さんのおっしゃる通り、甘いものには目がないのです。たまにこっそりと社を抜け出して、甘味を買いに行ったりするほどには。」
茶目っ気のある笑顔を浮かべた東雲を見て、翡翠は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
思いがけない東雲の表情に一瞬動揺したが、すぐに心を落ち着けて言葉を重ねる。
「あの時に話してくださった甘味好きの神様は、ご自身のことだったんですね……。」
「ええ。ですが、私以外にも甘味好きの仲間はたくさんいますし、皆同じようなことをしていますから。」
「それ、よく今まで何も言われなかったですね。」
「どういう意味ですか?」
「神様ってもっとこう、厳格で人間からすると恐れ崇め奉ると同時に一種の規範のような存在の印象があるので、それなりに規律も厳しいのかと思っていました。
それに、お菓子を買いに行くということは、人間にその姿を晒すということですよね?先日も思いましたが、やっぱり問題があるのでは……」
「もちろん、人を戒める存在としての一面も持ち合わせていますので、時に恐れられ、時に規範となることも大切ですが、何も『私は神様ですよ、神様が甘味を食べたくて並んでいます』、と触れ回っているわけではないんですから、特に問題はありません。たとえそうやって触れ回ったとしても、この文明が発達した現代で信じる人の子はほんの一握りでしょう」
翡翠の中で、東雲の放った言葉がストンと腑に落ちるのを感じた。
「た、確かに……私は小さい頃から祖母にそう言ったものの存在を聞いていましたし、こうやって実体験しているから疑いもしませんけど、普通の人だったらそう簡単には信じないと思います。」
「時代が移り変われば、人の子の世もまた変わるのは道理ですが、寂しいことです。太古の昔には、人も神も互いを認識し合い、支え合いながら暮らしていたのですが、今では私たち神を信じる人の子も……ずいぶん、少なくなってしまいました。」
東雲は空を見上げながらぽつりと呟いた。
その瞳はここではない遠くへと向けられているようで、どこか所在なさげだった。
「なんて、そんな昔のことを言っても仕方がないのですがね。そうそう、宝物殿の裏手にあるイチョウの葉が少し黄色くなってきているので、翡翠さんがこの社を訪れてくださった際にはお見せしようと思っていたのです。__秋も、深くなりましたね。」
東雲がこれ以上この話を続ける気はないことを悟った翡翠は、東雲に話を合わせることにした。
「もうそんな季節なのですね。どうりで風が冷たいわけですよ。
そういえば、私宝物殿が境内のどこにあるのかよく分かってないのですが、どの辺りにありますか?」
「神殿から向かって右手側に少し進むとありますよ。ご覧になったことはありませんか?」
「記憶にないです……。考えてみれば、私この神社に足を踏み入れるのは二回目くらいなので、どこに何があるのかは、知らないことの方が多いです。」
翡翠が東雲にそう告げると、東雲は顎に手を当てて何か考えているような仕草をした。
「確かに、言われてみればそうでしたね。翡翠さんがあまりにもこの場所に馴染みすぎていて、しっかり失念していました。せっかくの機会ですし、もし良ければ私がこの社についてご案内しましょうか?」
東雲からの申し出に、翡翠は一も二もなく返事をした。
「ありがとうございます!!!!ぜひ、ぜひお願いします!!!!」
かくして、祭神の案内による境内の建物見学が始まったのである。




