ごめんなさい
「優梨愛、もう一方の端持って。」
「はい、分かりました。」
花火会場につき、私と翔太さんは2人で座るブルーシートを芝生に敷いた。
翔太さんが買ってくれていたらしい。
私と花火大会行きたいって、前から思ってくださってたのかな…そう思うと、なんだか少し嬉しかった。
午後7時になり、あたりがだいぶ暗くなってきた。
ほんの1時間前まではスカスカだった花火会場は、たくさんの人で埋め尽くされていた。
花火が始まるまであと1時間だ。少し緊張するな…。
私がそんなことを考えていると、ふと髪の毛に何かが触れる感触がした。
髪の方に視線を向けようとして、私の髪を触っている翔太さんと目があった。
屈託のない笑顔をみせる彼に、私はくっついた。今は、何もかも忘れて翔太さんとの時間を楽しもう。
父親のことも、母と兄のことも、そして、かつて翔太さんに私がされたことも全部、忘れてしまおう…。
やがて辺りは完全に暗くなり、時刻もあと10分程で8時になる。
隣で寝転がる翔太さんがそろそろだね、と言ったそのとき、
「よーし始めるぞー。」
男の人の威勢のいい声が聞こえた。そしてヒュ…という音が響き、そして
「うわあ!」
ドーンという大きな音と共にきれいな花火が上がった。暗かったあたりが一瞬のうちに明るくなる。
それを気に、次々に花火が上がった。
「きれいですね!」
私が翔太さんを振り返ると、翔太さんもうっとりとした表情で花火を見ていた。
さっきまで暗闇であまりよく見えなかった翔太さんの顔を、花火の光が照らしだしている。
いきなり顔がよく見えるようになって、なんだか照れてしまった。
すると、その翔太さんの口が少し動いているのが見えた。
え、なんんですか?と聞き返しても、翔太さんはもう一度だけ口を動かしてそのまま口を閉ざしてしまった。
花火の音がうるさくて、なんて言っているか分からなかった。
ただ、そのときの翔太さんの顔が、少し泣いているように見えたのが不思議だった。
花火大会は、結局12時くらいまで続いた。
終わるときには、2人ともすっかり満足して思い出を語りながら車に乗った。
疲れたのか、ひどい眠気が私を襲った。
「ふわあ…眠たい。」
私が車の助手席であくびをすると、翔太さんはあははと笑った。
「眠いなら寝ててもいいよ。どうせ帰りは道も渋滞してるだろうし、時間もかかると思うから。」
「そんな、申し訳ないですよ…。」
私は眠い目をこすりながらそう答えた。そういう翔太さんもだいぶ疲れているようだった。
行きもずっと運転しているから、肩も凝っていたのだろう。案の定、20分運転したくらいで翔太さんは肩の痛みを訴えだした。
「あー、肩痛ってえ、つりそうだ…。」
「大丈夫ですか?いったん休憩とりましょう。一番近いパーキングエリアに向かってください。」
私の提案で、ひとまずパーキングエリアで止まることになった。車を止めると、翔太さんはふーっと息を吐いた。
「ちょっと横にならせて、腰まで痛くなってきた。」
「え、大丈夫ですか?もちろんいいですよ。私、マッサージしましょうか?」
「いいの?ありがとう。」
翔太さんがお礼を言いながら後ろの席に移動したので、私も後ろの席に移動した。
翔太さんはうめき声をあげながら寝そべり、目を閉じた。
「そんなに痛いんですか…。」
私が心配して顔を覗き込んだとき、
「優梨愛…やっぱり俺…」
翔太さんはそういうと、いきなり私の腕をぐいっと引っ張った。
え…意表をつかれた私はあっさりと倒されてしまう。
はっと顔を上げると、翔太さんは起き上がって私の上にのしかかっていた。
「優梨愛、大好きだよ。」
そう言って、翔太さんは私にキスすると、私の胸元に手を伸ばした。
いきなりのことだったが、彼が何をしようとしているのかすぐに察しがついた。
その途端に、私は驚きと戸惑いでいっぱいになった。
私を求めている彼に、いっそこのまま従ってしまえばよいのか、彼を拒めばよいにか、もう分からなかった。
しかし、シャツを彼に掴まれた瞬間、
「やめて!」
私はそう叫んで彼の手を振り払った。彼がひるんだ瞬間に、私は起き上がって車を出た。
息が上がって顔が紅潮しているのが自分でも分かった。でも、咄嗟に安堵の情が自分のなかに溢れた。
そしてなぜか、私の頭には笹野さんの顔が浮かんでいた。
「優梨愛!」
車から出て来た翔太さんに、名前を呼ばれて振り返った。
彼はなんとも言えない表情をしていた。
怒っているような、悲しんでいるような、申し訳ないような、そんな複雑な表情をしていた。
「ごめんなさい…。」
私は、思わず謝ってしまった。そして一度言い出したら、もう止まらなかった。
「ごめんなさい…私…。」
「優梨愛、俺こそごめん…ほんとごめん…」
翔太さんは泣きじゃくる私の肩を、ただずっと触れてくれた。
もう自分でも分からなかった。
何に対して謝っているのかも、どうしてこんなに胸が痛むのかも分からずに、ただひたすら泣き続けた。
「ほんとに家まで送らなくても大丈夫?」
「はい。大丈夫です、ありがとうございました。」
「そっか…俺の方こそありがとう。じゃあまた…。」
翔太さんはそう言って私を見送ってくれた。
私は、翔太さんの家からは歩いて帰ることにした。
私の家は花火会場からの通り道は通らなかったし、早く翔太さんと別れたかったのもあった。
早くひとりになりたかった。ひとりになって落ち着きたかった。
私は暗い夜道を歩き始めた。時刻は午後1時過ぎ、さすがにこの時間の夜道は静まり返っていた。
けど、静かなほうが今の私にはありがたかった。
頭の中に、今日の思い出が次々に浮かんでくる。
翔太さんと一緒に朝食を食べたこと。
翔太さんと買い物をしたこと。
翔太さんが私に触れてくれたこと。
翔太さんが私に夢を語ってくれたこと。
私がそれをじっと聞いたこと。
翔太さんと一緒に花火を見たこと。
翔太さんが何か言ってくれたこと。
そしてなぜか彼が泣いているように見えたこと。そして…
「私が翔太さんを拒んでしまったこと…。」
私はそれを声に出してみた。
なんて冷たく、残酷な響きだろう。
私は、結局翔太さんのことを許せてはいなかったのだ。
ほんとうは分かっていたことなのに、それが現実として目の前に突き付けられると、やっぱり悲しかった。
そして私は、心のどこかで翔太さんを受け入れることに恐怖を抱いていた。
また裏切られたらどうしよう、また傷つけられたらどうしよう、と…。
そんな心の片隅にあった恐怖心が、咄嗟に表に出てきてしまった。
再会した時に、この恐怖心に、私は気づいていたのかもしれない。
けど、気づかないふりをしていた。認めたくなかった。
翔太さんが自分の居場所なんだと思ってしまいたかったからだ。
でも、やっぱり恐怖心は表に出てきてしまった。
私も、翔太さんを傷つけてしまった。
きっと他の人がこの話を聞いたら、私は悪くない、当然のことだというかもしれない。
突然あんな風に求められたし、過去のことも踏まえたら仕方のないことだと。
けれど、私はずっと自分を責め続けるだろう。
私は、結局は自分だけが可愛いいだけなんだ。
本当に、最低だ…。
家に着いたのは、翔太さんの家を出てから30分くらいしてからだった。
すっかり歩き疲れたし、精神的にもかなり負担が来ていた。
久しぶりに家の鍵を取り出して、家に入った。すると、目の前が突然明るくなって、
「優梨愛…。」
その声に、くらんでいた目を開くと、そこには母が立っていた。
目の下に大きな隈をつくり、ひどく疲れた顔をした母が。
「ママ…た、ただいま。」
「ただいまじゃないでしょ。ママがあんたに何回電話したと思ってるの。」
淡々とした口調で母にいわれ、私は慌てて携帯を開いた。
すると、母からの着信は87件も来ていた。
「ママ、ごめん。あたし…」
「あんたはどうしてママに優しくないの?ママがどれだけ心配して苦しんでたか分かる?だいたいあんたは…」
母からの言葉を、私はただ黙って聞いた。
何も言い返せなかった。
自分が悪いことをしたのも、心配をかけたのも分かっていたから。
けど、分かってるけど、ママは、私に対して何も言ってくれないの?
ママは私の気持ちは考えてくれないの?
母の言葉を聞いている間、そんな疑問が、私の頭の中にずっと渦巻いていた。