再会
その日から、私はバイトに没頭した。とにかくバイトをしなきゃいけないと思った。
もちろんお金のためにということもあるが、何か違うことに没頭したかった。ひたすら何かに取り組んでいたかった。ひたすら頭や体を動かし続けていたい、そういう感じだった。
自分でもよくわからなかったが、バイトをしているときは気分が楽だった。結局、今日も上がる時間より30分以上多く働いた。
店長さんや先輩方は無理しなくていいからと引き留めてくれるが、忙しいのも分かってるし家にいたくないのもあって大丈夫だと言ってよく残っていた。
理由も言わず、ただ暇なのでと嘘をついて。もちろん、笹野さんにも私は嘘をついてしまっていた。そうするしか、私にはできなかった。
あの日から、母や兄たちは、私によそよそしい。朝の挨拶も、食事も、会話も目すら合わせてくれない。
きっと、私を避けているからだろう。嫌いだから、むかつくからというのではなく、暗黙の了解で深入りできないという感じだった。
帰りのバスの中、私はそんなことを考えながらバスに揺られていた。考えながら地元の駅に停車したバスを降り、家まで歩こうと足を踏み出した。
と、そのとき、目の前に白い車が止まった。ナンバーは“175”イナゴ。私の元カレが、一番好きだったバンドの名前だ。
そういえば元カレは、このナンバーの話をよく楽しそうに話したっけ…それから…
「優梨愛ちゃん、久しぶりだね。」
案の定、車から降りて来たのは私の元カレだった。
永谷翔也。前より少し痩せた気がする。ひげも、少し伸びていた。
「たまたま通りかかったんだ。半年ぶりだよね。」
私はただ、彼を見つめることしかできなかった。ただ、彼の声や仕草に懐かしさを感じながら。
「優梨愛…。」
彼は、そう言って私を抱きしめた。
不思議と驚きよりも、どうしようもないくらいの彼への懐かしさが私の中に溢れた。
私は抵抗もできずに、ただ黙って彼の腕に身を預けた。久しぶりに感じる彼の温かさや匂いに、なぜか涙が出た。
永谷翔也。私が最も愛し、最も憎んだ男。
彼は、翔也さんは、もともとは私の家庭教師だった。
優しくて、何でも教えてくれる彼に、私は徐々に惹かれていった。
教師志望の私の話を、真剣に聞いてくれた。進学する大学も一緒に選んでくれた。県外の、近くにアパートがある名門大学を翔也さんは強く進めてくれた。
そして、「自分も勉強を教えることに携わってるから、いつでも相談に乗るよ」と言ってくれた翔太さんを、私は好きになってしまった。
そして、相談に乗ってもらう場所は、私の部屋からカフェになり、カラオケになり、水族館になり、そして翔太さんの家になった。
私たちは、いつのまにか恋人同士になっていた。勉強の合間に相談に乗ってもらううちに、それが遊びに行くことにかわっていた。
受験生なのになにやってんだと落ち込むこともあったけど、2人で過ごした時間はすごく楽しかったし、幸せだった。
翔太さんがそばにいてくれるだけで、私はあたたかい気持ちになれた。でも、彼は見るからに大人で、年上の人だった。
大学生なのかも、社会人なのかも教えてくれないし、聞く勇気も出ない。
きっと初めから翔也さんとはうまくいくわけないって分かっていたのかもしれない。
でも、それでも、翔也さんと一緒にいたかった。そばにいてほしかった。一人じゃないんだって、思いたかった。
翔太さんといるときだけは、家での辛いことや、苦しいことを忘れることができた。
そんなある日、私は翔也さんに突然家に呼び出された。私が家の中に入ると、翔太さんは酔っぱらっていた。空になったビールの缶がいくつも床に転がっている。
「翔也さん、どうしたんですかこれ?」
私が尋ねると、翔也さんはゆっくりと顔を上げて呻くようにつぶやいた。
「もう終わったんだ。何もかも。」
「え…?どういうことですか?」
翔也さんは無言で机の上に置いてあるパソコンを指さした。そのパソコンを見ると、そこには何かのグラフが映し出されていた。
「永原翔也の株…マイナス…大赤字…。」
私が右下がりになっているグラフの端に書かれていた文字を読み上げると、翔也さんは大きな声をあげて笑い出した。
「そうだよ!俺は株の取引きに失敗したんだ。家庭教師のアルバイトで稼いだ金も全部パーだ!これまで順調だったのに何でだよ!!」
ちょ、ちょっと待って、翔也さん株の取引きなんてしてたの?ていうか翔也さん大学は?仕事とかはしてないの…?
「あ、言ってなかったけ?俺さ、今年で24歳なんだ。
大学もとっくに卒業してサラリーマンしてたんだけどさ、1ヶ月で仕事も辞めちゃったんだよね。ほんとクズ野郎だわ俺。
家庭教師のアルバイト始めたはいいけど、それだけじゃ食ってけなくて1年くらい前に株取引のサイト始めたんだ。
それが今日見事に大赤字になっちゃったわけ。はは、今月どうやって乗り切ればいいんだか…」
翔也さんの言葉が、他人事のように聞こえる。
嘘だ。こんなの嘘。信じられない。翔也さんがこんな人なわけない。翔也さんがそんなこと私にずっと隠してたわけない。こんなこと、ありえない…。
驚きと衝撃で声も出せない私を見て、翔也さんは声をあげて笑った。
「あははははは、そんな顔するなよ優梨愛。優梨愛は俺のこと見捨てないよね?
今までこの事情を言わなかったのは、君のことを試してたからなんだ。こんな事情すぐに話したら、誰だって俺のこと好きになってくれないもん。
で、君は俺の試験に合格したからここに呼んだわけ。
食事にも付き合ってくれるし、将来は先生になるから収入も安定してるし、
大学も安いアパートが近くにあるところに進学してくれるから一緒に家賃払いながら住めるし、
顔もまあいいし話し合うし、俺のことを支えるにふさわしい女の子です。
だからさ、これから俺と一緒にこの借金を返し…。」
「ふざけないで!」
私は翔也さんが言い終わらないうちに大声で叫んだ。
「何それ?それじゃあ翔也さんは、あたしのこと自分のために利用しようとしてただけなの?
相談に乗ってくれたのも、教師になる夢を応援してくれたのも、大学を選んで来てくれたのも、全部私のためじゃなかったんだ。
それなら、あたしのことは…」
そこから先は、涙があふれてきて言葉にならなかった。
拭いても拭いても、涙はあふれてきてしまう。
今になって、あの時ちゃんと聞いておけばよかったなって思う。
でも、あまりにもショックで悲しくて悔しくて、一番聞きたいことを聞くだけの余裕がなかった。
翔也さんは何も言わずに私を見ていた。涙で視界がぼやけていたから、翔也さんがどんな顔をしていたかは分からない。
私は泣きながら、翔也さんの家を出て行った。
翔也さんも、私のことは追いかけてこなかった。
それ以来、翔也さんとは1度も会っていなかった。
今まで大切にしていた翔也さんとの思い出の写真も、翔也さんがくれたプレゼントも、翔也さんのために買ってあった誕生日プレゼントも、全部捨ててしまった。
もう、一生会うことはないだろうと思っていた。聞きたかったことも、聞く必要すらないと、ずっと胸にしまい込んでいたから。
「優梨愛、ずっと謝ろうと思ってた。本当にごめん。どれだけ君を傷つけたことか…。」
翔也さんは、彼の部屋に着くなり頭を下げて謝った。私はただじっと彼の話を聞いた。
「あの日は人生の奈落の底といっていいほどの日だった。俺の人生おしまいだと本気で思った。
酒の勢いもあって感情が変な方向に吹き出していたのもある。それで俺はあんなことを…俺は、なんて…」
私は、そっと翔太さんの頭を撫でた。彼の言葉がまだ終わっていないのも知りながら、彼の髪にそっと手を乗せた。
彼が震えているのに気づいたから。彼が涙をこぼしそうになっているのに気づいたから。彼が崩れないようにしたい、ただそれだけ思った。
彼の赤くなった目が私を見つめる。私も黙って見つめる。何も言葉が出てこなかった。
ただ彼のすがるような目をみて、微笑んでみせた。
彼はふいに、私を抱き上げてベットに倒れこんだ。彼に抱き寄せられて、私は彼の胸元に顔をうずめた。
彼の腕に抱かれながら、私はゆっくりと目を閉じた。
トン、トン、トン…包丁を使う音が聞こえて私は目を覚ました。もう朝か…誰かが料理を作ってくれてるんだ。嬉しいな、でも誰だろう…。
そこまで考えて、私はがばっと起き上がった。
いつもと違う景色が目の前に広がっている。私は確か昨日の夜、翔太さんの家に行って…
「ん、起きたみたいだね。おはよう優梨愛。」
「お、おはようございます。」
「いま朝飯つくってるからちょっと待っててね」
「ありがとうございます。」
私はとりあえずお礼を言ってベットからでた。
自分が服を着ていることにひとまず安心した。
ベットに倒れこんだあとのことは全く覚えていない。ただ、いつもよりはよく眠れたというのは確かだった。
「よーし、お待たせ!たいしたものじゃないけど食べよっか。」
そういって彼はお盆をテーブルの上に置いた。
朝ごはんのメニューは、キャベツのサラダにベーコンエッグと白いご飯。
普通のメニューだったが誰かに作ってもらうご飯は一段とおいしそうに見えた。
最近ずっとコンビニのおにぎりか、食べないかのどっちかだったから。目の前に温かみのあるご飯があると自然と食欲が出た。
「美味しそうですね。」
たぶん私は笑顔でそう言ったのだろう。翔太さんはほっとしたような表情を浮かべた。
「気に入ってもらえてよかったです。よし、食べよう。」
私たちは、頂きます、と言って朝食を食べ始めた。
ああ、美味しいな。私は久しぶりに誰かと取る朝食をゆっくり味わった。
「そういえばさ、俺、優梨愛に昨日ちょっと嘘をついちゃったんだ。」
翔太さんのその言葉に、ご飯を口に運ぶ橋が止まった。
「え、どういうことですか?」
私がそう聞くと、翔太さんは恥ずかしそうに頭をかきながら答えた。
「いや、実はさ、本当はたまたま通りかかったんじゃなくて言いたいことがあって昨日は駅で優梨愛を待ってたんだ。
駅でよく優梨愛を見かけてたから。」
そうなんだ…私はへえ、と呟いてから彼に尋ねた。
「それで、私に言いたかったことってなんだったんですか?」
「ん?えっとね。」
翔太さんは咳ばらいをしてから言った。
「今日の夜に、花火大会があるんだけど、一緒に行かない?チケットも実は2枚用意してあるんだ。」
「え…。」
私はびっくりしてまじまじと翔太さんの顔を見つめた。
花火大会…か…。そういえば、夏休みの終わりの方に花火大会がもう一回あるって夢美がいってたな。
そっか、花火大会か…、でも、裏切られた人と花火大会なんて…それにまだ許すって言ったわけでもないし、なんで翔太さんは今さら私と行こうなんて思ったんだろう…。
翔太さんが不安そうな目をしているのに気が付いて、私は咄嗟に笑顔でこう答えた。
「私、行きたいです。一緒に行きましょう。」
私のその答えを聞くと、翔太さんはやった!と嬉しそうに言って私の手を握った。
もう、この人のこんな顔なんて見ることないと思ってたのにな。私はそんなことを思いながら彼に微笑みかけた。
優梨愛、あんた翔太さんの家に行った時点でありえないことしてんだよ。ここまで来たらどうにでもなってしまえ。私はそう自分に言い聞かせた。
でも、なんだか複雑な気分だ。私は、咄嗟に「行く。」と答えてしまった自分に少し驚いていた。
裏切られて、傷つけられて、一番憎んだはずの翔太さんなのに、心の底から嫌いになって、まだ許せていないはずの彼なのに、拒絶することができなかった。
彼の傍にいたいと思ってしまった。自分が知りたいことも、確かめたいことも聞けないまま。
ほんと、あたしって単純な女だな。
自分が崩れそうなときに優しくされたらなびくなんて。
たとえそれが、自分のことを裏切った人でも。ほんと、バカだなあたし。私は自分自身にため息をつきたくなった。
「…やっぱり、何も変わってないですね。」
私は改めて彼の車に乗ってみてそう思った。
彼が好きなシトラス系の芳香剤の香りも、フロントミラーにつけているストラップの位置も、彼がいつもかけるサングラスの置いてある位置も、全然変わっていなかった。
「うん、そうだよ。そっか、昨日は夜だったから気づかなかったんだね。」
彼は鼻の下をかきながら呟いた。あ、緊張してるんだ。私は彼のその様子をみてくすっと笑った。
鼻の下をかくのは、翔太さんの、緊張しているときのサインだ。
ふたりで話して、花火が始まる8時まで時間をつぶすために買い物に出かけることになった。
翔太さんと買い物なんてしぶりだな。それに、車に乗せてもらってどこかに出かけるのも、いつぶりだろう。
そんなことを考えると、少し顔が熱くなった。
「よし、じゃあ行きますか。」
翔太さんはそう言ってアクセルを踏んだ。
はー、満たされてるな、あたし。ショッピングモールのレストランで、私はつくづくそう思った。
翔太さんとの、まあ、いわゆる“デート”は、すごく楽しかった。
車の中では、お互いの現状を言い合った。
私は翔太さんに勧められた県外の大学に落ちて、県内の教育学部がある大学に行くことにしたこと。
そしてバイトを初めて、友達にも恵まれてとても充実した大学生活を送れていること。
でも笹野さんのことや、家族のことはつい隠してしまった。
そして、翔太さんは、今は株のサイトもさっぱりやめて、塾講師として正式に働いているらしい。
株で出きた借金は、祖父が所有していた土地を売って4割方返済できたと嬉しそうに話していた。
だが、まだ全額返済には至っていないようだった。
そして、ショッピングモールに着いた後は、全部の階をまわりながら買い物を楽しんだ。
彼のコーディネートで夏服を買った。
カーキの薄手のカーディガンに、黒のシャツとジーンズ生地のショーパンというコーデだった。
彼が好きなカジュアルコーデ。私が普段はしない服装だったが、彼は常にこの服装でいてほしいといった。
垂れ目で顔が小さい翔太さんが笑うと、思わず可愛いと思ってしまう。
この笑顔に何度ときめき、愛しさを感じたことだろう。
5歳も年上の男性を可愛いと思ってしまう自分の神経に呆れながら、私は彼の笑顔を眺めた。
そして、歩きながら私の腕に絡めてくる彼の白い腕に、微笑みかける彼の目に、私は満たされていった。
ああ、ここにいていいんだなと感じて、幸せな気分になった。そんな彼のやさしさに、私は身を任せた。
買い物の後はレストランへ行き、彼お勧めのカルボナーラを食べることにした。
そして2人でたわいもない話をしているところに注文していたパスタが運ばれてきた。
私は彼に美味しそう、と微笑みかけながらパスタを口に運んだ。
「ねえ優梨愛、俺さ、実は夢があるんだ。」
彼の真剣な口調に、私は視線をパスタから彼の目へ移した。
「俺さ、いつか自分の学校を建てたいんだ。」
え…驚いている私をよそに、彼は言葉を続けた。
「俺、社会人1年目で会社辞めちゃったこと、本当はすごく悔しかったんだ。
…でも、でもさ、会社の理不尽さとか、それに従っている自分とかがすごく嫌で、許せなくて…辞めたんだ。
でも、それが、それがなきゃ…」
翔太さんは、そこから先は言葉を濁した。きっとその先の言葉をこれ以上言うのは、自分のプライドが許さないのだろう。
悔しくて、傷を抉られて、崩れそうになるのだろう。
私はただ黙って彼の目を見つめた。
「それでさ…、俺は、社会で頭がいいやつが、ちゃんと認められる社会を作りたいんだ。俺はそれが正しいことだと思うから。
そのためには、まずそうなるような教育が必要だし、そのための大学を建てるべきなんだ。
頭がよくて、社会で活躍できる人材をもっと増やすんだ。
会社でぺこぺこしてるだけで何もできない能無しよりも会社で活躍できる、そんな頭のいいやつを育てたいんだ…。」
彼は目をらんらんとさせながらそう言った。
私は、ただ黙ってそれを聞いた。
否定もせず、口をはさみもせず、ただ黙って聞いた。
私が聞いてあげなきゃいけないと思った。
それで彼の気が晴れるのなら、彼が叶わないと分かっていてもそれを目指すのなら、私はそれを受け入れてあげるべきなんだと思った。
だから私は、ただ黙って彼の話を聞いた。
こんな話、誰が聞いても馬鹿げていると思うだろう。
何を無茶苦茶な、訳のわからないことを言ってるんだ、負け犬の戯言にすぎないじゃないか、と思うだろう。
でも、私は彼の弱さを知ってしまったから分かってしまう。
その頭のよさゆえに、もてはやされながら就職した会社だったのに、何もできなかった彼の悔しさを、不甲斐なさを。
だから、彼がいま語ったことを本気で思っているということも、そうすることが彼の夢であり、かなえたいことであるということも、分かってしまう。
それに、彼を一度愛してしまったから、どうしてもそれを応援したいと思ってしまう。
「そうですか…。私は翔太さんのしたいことをすればいいと思います。」
私はただ、それだけしか言えなかった。
それなのに、そんな中途半端な返しにも関わらず彼は嬉しそうに笑って見せた。
私も笑い返したが、心の中は何とも言えない複雑な気分だった。




