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ロンドバルドの死


 ロンドバルドが危篤と知ったニールは、すぐに中州へ戻ることを決意する。

 二頭立てで曳いていた馬車からは一頭が外され、ロッカの乗ってきた馬とで先を急ぐこととなった。

 ロッカとニール、トーニとカイがそれぞれ二人ずつに分かれて跨り、馬車の方はというとビノンらが後から追い掛ける。

 ゆっくりとした馬車の速さで半日の距離のところまで来ていたので、馬を急がせれば小屋まで三時間かかるかどうかといったところだろう。

 だが、それまでロンドバルドの命があるかも危ういと思えるほど、ロッカの表情は深刻だった。 


 やっと昇りきった朝日を左手に見ながら、四人と二頭はひたすら南へと走った。

 もちろんカイも心配ではあったのだが、それ以上にトーニは気が気でない様子だった。

 しきりに鐙に踏ん張った脚を締め付けながら、なるべく馬を急かそうとしている。

 ロッカも同じ様子だったが、その背中に腕を回すニールの表情は、四人の中では一番落ち着いているように見えた。

 それはいつもの、何かを思案しているような顔つきだった。

 ただ、今日に限っては、やや眉が真ん中に寄っているようにも思えたが。



 太陽が地平線と天頂の中間にきたくらいの頃、ようやく中州の北を流れる川にたどり着く。

 まだ橋を架けていないので、馬で川の中へと入って行かなければならない。

 秋から冬にかけては上流でも降水量がうんと減るため、今の水量はそれほど多くはない。

 それにしても、何も考えずに乗り入れれば馬の首まで浸かる程度の深さはあったので、工事の足場とするために石を積んであった場所を探す。

 幸いその場所にはすぐに見つかるよう目印があったので、渡河は難しくはなかった。


 ロンドバルドの状態は、工夫たちには知らされていないとのことだった。

 しかし小屋へ近付くと、彼らも何か不吉なことが起こったらしいことを察したのか、皆不安そうな顔をして集まっている。

 いつもならば怒鳴りつけながら彼らを現場へ追い立てる大男も、昨日の夜以来小屋から出てこないのである。

 誰もが、自分たちを取り巻く状況が、作業どころの話ではないということに気付き始めていた。

 そこへ蹄の音も高く二頭が駆けつけたので、工夫たちの視線は一斉に馬上の四人に、とりわけニールへと注がれた。

 四人は彼らをかき分け進むこともできないので、居住区となっている一帯の手前で馬から降りる。

 そして二頭をロッカ一人に任せて、三人は小走りで小屋を目指した。


 チェモーニ家の小柄な次男の両脇をカイとトーニが固め、その前には工夫たちが何も言わずに開けた道ができた。

 皆が、これも何も言わずに訴える不安と苛立ちで張りつめた空気の中を、三人ともひたすら小屋を目指して進む。

 トーニも相当に気が急いているのだろうが、それでも主人を追い越さないよう、精一杯我慢をしているようだった。


 若い工夫の一人が前を通り過ぎようとするニールを呼び止めようとした。

 それを別の、やや年長の工夫が肩を掴んで制する。

 その年長の工夫に、ニールが感謝の視線を投げかけた。

 その仕草は、緊張の支配するこの場でとりわけ優雅なものに思え、カイは息を呑んだ。

 つい先ほどまで馬上で固く結ばれていた口許が、これほど柔らかな笑みを湛えるとは。

 やはりこの少年は、自分には真似のできようはずもないことをするものだ。

 ほんの僅かな間だけだったが、カイは目前の危機をも忘れて、自らの右手の前を歩くニールを感心して見つめるのだった。



 幾人ものすがるような視線を背中に浴びながら、三人は小屋の扉を開けて中へと入る。

 すると、すぐにパエトリウスが立っており、ロンドバルドの寝室へ向かうよう告げられる。

 誠実な技師らしく、感情を噛み殺していることが一目で判る表情であった。

 二階への階段を、先頭のニールは一つずつ、踏みしめるように上る。

 顔つきや仕草はいつも通りを装っているが、重々しい足音が、普段心の内を他人に見せびらかすことをしない少年のことを代弁していた。

 小屋に入った瞬間から、待ち受けているのが悲しみ以外にはないだろうことを、カイも感じ取っていた。


 ドアのない寝室の入口をくぐると、今にも泣きだしそうなクラウティーノが駆け寄ってくる。

 そして、何を言うでもなくカイのズボンの裾を掴んだきり、眼に涙を溜め始めた。

 クラウを抱き寄せて背中をさすっているうちに、ニールとトーニは、ロンドバルドの臥すベッドへと歩み寄っていた。

 傍らにはアムテッロとマディが立っている。

 アムテッロは弟の帰還を喜んで迎え入れるような素振りをみせたが、長くは続けられず、すぐに肩を落としてしまった。

 マディは三人が入ってきてからもずっと腕を組んで黙ったまま、怒りとも驚きともつかない表情で、目も見開かれ、枕元に立ってどこかを凝視していた。

 気付けばパエトリウスも入口までやってきており、カイの頭越しにベッドを見つめている。

 この寝室は、小屋の中では広い方の部屋なので、ここに集った人数くらいなら全員無理なく立っていられるのである。

 しかし、隙間はまだそこここにあるが、悲しみに満たされた室内には、もうこれ以上何も入りはしないように感じられた。


 ひとしきり涙が溢れきったクラウの肩を抱くようにして連れ立ち、カイもベッドの足の方に立つ。

 そこに横たわっていたのは、ほんの一月もしない自分たちを見送った時とは、別人のような顔になったロンドバルドだった。

 血の気は一切が引いてしまったようで、目の周りも落ちくぼんでいる。

 まぶたは閉じて動かないが息は浅く、まるで活力の化身であったような男とは思えない変わり様だった。

 今まで結び付けて考えることさえ馬鹿馬鹿しいと思えた冥界から使者が来て、いつ連れて行くかと寄り添っていた。


 皆の視線が注がれると、それに気付いたかのように、ロンドバルドは目を開いた。

 しばらく虚ろな眼差しだけで周囲を見回す。

 そして、自分の右手の辺りにいた次男を見つけると、震える唇で名前を呼んだ。

 初めて会った時の朗々と通る声が何年も前のことに思えるほど、弱々しい口調だった。


「ニール、リコローニは金を出したか」


 それにニールが、はい、とだけ応えると、満足そうに口の両端を動かした。

 それさえも一仕事であるような、ゆっくりとした動きだった。

 そして眼差しを天上へと戻すと、ニールを呼んだのと同じようにか細い声でマディを呼ぶ。

 マディは腕を組んで怒ったような顔のまま、なんだ、とぶっきらぼうに答えた。


「どうやら、俺はもうじき死ぬようだ。すまないが子供たちと皆のことを頼む」

「そんな勝手な話があるか。お前が始めたことだ。お前が最後まで責任を持つべきじゃないのか、え。弱気なことを言うな」


 そう言うマディは、今にも掴みかかっていきそうな顔と声で、臥した病人を睨み付けている。

 だが、反対にロンドバルドは穏やかな顔で微笑み返す。

 まるで子供の癇癪を静かに諭す、親か教師のような優しい表情であった。


「いや、こればかりはどうしようもなさそうだ。お前しか頼める奴はいないじゃないか」


 また新たに怒りを爆発させたように身体を震わせた大男が何かを言いかけているうちに、ロンドバルドがまた口を開いた。


「昔から、小さい頃から面倒なことに付き合せてばかりだった。けど、お前はいつも手伝ってくれたな。すまない。これで最後だ」


 するとマディの身体の震えが段々と小刻みなものになり、荒く短かった鼻息も、長いものを吐き出すようになっていった。

 そしてがっちりと組んでいた両腕をほどくと、大きな左手で顔を覆い、そんな、と呟いたきり、何も言えなくなってしまった。


 次に呼ばれたのは彼の長男だった。


「お前がチェモーニ家を継ぐんだ。そして弟たちを守れ。いいな」


 アムテッロは悲しみを隠し切れない表情のまま、言葉はしっかりと父に答えた。

 そしてカイのすぐ傍にいたクラウティーノを招きよせると、父の顔の近くへと進ませる。

 それでやっと、まだ背が小さいために首を動かしただけでは目が合わなかった末の息子を、ロンドバルドも見つめられたのだった。


「クラウ、兄さんたちの言うことをしっかり聞け。皆、お前の味方だ」


 そして息子の頭を撫でようと右腕を動かすのだが、もう、うまくいかないらしい。

 アムテッロが持ち上げてやって、ようやく果たせたのである。

 父親が幼児に向けた顔は、そのまま彼の斜め後ろに立っていたカイにも見えた。

 生気のない、土のような顔色だったが、瞳だけは変わらずに深い青色だった。

 クラウティーノは、父の言葉に対して頷くだけだった。

 ロンドバルドには、それで十分満足だったようだった。

 浅い呼吸から、突然深い息を吐き出して、また枕に頭を沈めてしまった。

 


 その後はまた苦しそうに顔を歪めて、呼吸も乱れがちになった。

 一同に、もしや、という思いがよぎるが、これは数分である程度落ち着いた。

 小康状態になったようだったが、もう体力がほとんど残っていないのは明らかである。

 このまま安らかに過ごすこともできただろうが、しかしロンドバルドは再び目を開いた。

 最後の力を振り絞っているのだと、誰もが分かっていた。


 呼ばれたのはパエトリウスだった。


「ガイウス、街は完成するかね」


 沈痛な面持ちだった技師は、その言葉にはっと頭を上げる。

 ベッドへ向かって答える顔は、病人に対する同情でなく、技術者としての誇りが表れていた。


「資材が届きさえすれば、間違いなく完成するでしょう」


 それを聞いて、また精一杯の笑顔を作る。

 もう表情を変えるだけでも辛いはずだ。

 それでもそうするのが、彼の矜持なのだった。

 一同も何も言わず、彼らの愛するリーダーの意志を尊重する。


 そして、ニールが呼ばれた。


「いいか、ニール。街を完成させろ。必ず造り上げるんだ。お前が引き継げ。チェモーニはアムテッロが継ぐ。家のことは任せればいい。この仕事はお前が継ぐんだ」


 ニールは、もう荒く吐き出す息の方が多くなってしまった合間の言葉の一つ一つに、はい、と答えている。

 それを聞いているのか、ロンドバルドは一方的に喋り続ける。

 呼吸がうまくできないので、物を言えず喘いでいることもしばしばだった。

 だが、言葉が伝わらないときでも、伝えたいという気持ちが心に刻み込まれるようである。

 眼の焦点も定まらず、もはや誰の姿もはっきりとは見えていまい。それでも、ロンドバルドは瞳を閉じはしなかった。


「街が完成したら。素晴らしい街が。名前を決めてある」

「何というの、父さん」


 そこでようやく息子の返事に気付いたように、父親は、うん、と言って口を一度閉じた。

 呼吸を整えているようだった。

 荒いのは変わらないが、それでも少しばかり規則的な息遣いになる。

 それがやっとだった。


「シルスティアだ」


 それは彼の妻であり、三人の息子の母である、シルスティーナの名を冠した命名だった。

 両目に力を込めていたようだったニールが、笑みをこぼした。

 アムテッロも同じだった。

 マディは嗚咽の混じった溜息を一つだけ吐いた。


「いい名前だ。母さんもきっと気に入る」


 息子の言葉で、もう一度だけ笑顔になる力が湧いたらしい。

 にっこりと微笑んだロンドバルドは、そうか、と言って、また深い息を吐き出した。



「アムテッロ、他に誰がいる」

「カイとトーニがいます」

「二人を、ここに」


 するとニールは、今まで自分がいた場所を二人に指し示す。

 もう話さなくていいから、楽にしていてほしいとも思う。

 しかし、それは何よりロンドバルドの意志ではなかった。

 カイより先に進み出たトーニがベッドの脇にひざまずき、力の抜けた右手を取って握りしめ、旦那、と言う。


「トーニ、お前の行く末が心配だ。短気を捨てろ。憎しみを損と思え。今日のことをする時に、明日のことを考えろ」


 トーニは一々に頷いて、流れる涙を拭おうともしなかった。

 粗末な木の床に、頬から顎を伝った水滴が、当たっては吸い込まれていった。

 そして、そのまましばらく手を握ったまま俯いていたが、おもむろに立ち上がると、無言でカイの背中をベッドへと押した。

 涙は止まっていなかった。


 おずおずと進み出ると、ロンドバルドさん、と呼び掛ける。

 もう首を動かす力も残っていないようだった。

 天井を見上げたままの顔の、口元に耳を寄せる。


「カイ。ニールと、仲良くして、やってほしい」


 その声はもう随分小さく、恐らくカイ以外には聞こえなかったに違いない。

 ほとんど吐き出す息に紛れた言葉だったからだ。

 しかし、それでもカイには不思議とはっきり聞こえた気がするのだった。 そして、

「必ず」

 と答えた。

 それは言った自分の考えさえ越えた、心の奥から飛び出た言葉だったように感じた。

 またロンドバルドは何も言わなくなり、呼吸に専念していた。



 しばらく呼吸が乱れたり、落ち着いたり、といった時間が繰り返された。

 太陽は、今は屋根の真上にきているらしい。

 今日は風がないので、暖かに思われた。


 もう深い息はできなくなっており、はあはあ、と苦しそうな呼吸が続く。

 皆で見つめていると、そのうち唇が僅かに動いているのが判った。

 何かを言っているのか。

 そう思ってアムテッロが耳を口元に近付ける。

 だが、もう言葉になっていないようだった。

 誰も、何も言わず、その時に備えていた。

 押し寄せるだろう悲しみに、ひたすら身構えていた。

 クラウティーノすら、アムテッロに両肩を抱かれたまま、身じろぎもしない。


 ある時、吸うより吐く息の方が少しばかり深くなった。

 それは五回ほど繰り返されてから止み、それからはもう二度と始まることはなかった。

 見る者の心を、そしてまだ幼いほどに若い剣士の心をも魅惑した、深い青の瞳は永遠に閉じられた。

 後半月でもう一年加わるはずだった、四十三年の生涯であった。

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