マプロとの訣別
もう、陽が少しでも傾けば上着を一枚羽織ろうか、と考えるようになる季節である。
西大通りに面したこのオフィスには南側に窓を造ってはあるのだが、吹く風が涼しいので夕暮前には肌寒いくらいになる。
かと言って、まだ暖炉に火を入れるのも躊躇われるのだ。
結局薄地の上着を一枚増やそうと椅子から立ち上がったマイウス・ペルデディカは、その際に紙を机から落としてしまった。
三十路もまだ半ばというのに白いものが混じり出した髪を掻き上げながら、彼は大切そうにその書類を拾い上げる。
彼にとってあまり良い内容の書類ではないのだが、これを失くしたらたまったものではない。
先日の倉庫火災で燃えてしまった彼の商品の、補償についての書類なのである。
焼失した分は全額補償するとのことだったが、彼はその裏に隠された意図を読み取ってもいた。
つまり、火災はスカラー家からの警告である、という事実を。
マプロで商売を続ける以上、スカラー家の機嫌を損ねるわけにはいかない。
すると、チェモーニ家との契約は解除して、受け取った補償金で返金するより他ないだろう。
それが彼に許された唯一の手段であるように思われた。
だが、彼にとってチェモーニ家との取引を終わらせてしまうこともまた、大きな痛手であるのだった。
ペルデディカ家は少し前まで、マプロではそれなりに歴史の深い、大商人とまではいかなくとも中小商人の中では抜きん出た勢力の家柄だった。
その状況が変化したのはマイウスの祖父がスカラー家の後継者争いに巻き込まれた時からであった。
彼の祖父は、この争いを制したディニウスとは対立した兄と関係が深かったため、それ以降は明らかに冷遇され、有り体に言えば没落したのである。
父はさほど商人としての才覚に恵まれておらず、苦境は彼の代まで持ち越されることとなった。
マイウス自身は再びペルデディカ家の往時の勢力を取り戻すつもりであったのだが、そうでなかったのは彼の兄だった。
兄はマプロでの今後の展望に見切りを付け、四年前にマズマティコ家が支配するカンドロへと移住したのである。
これがただの移住ならば話は一族内の問題に過ぎなかったのだが、兄は手土産と思ったのか、自分に賛同する若い商人をいくらか引き連れていってしまった。
たしかに日頃から弁の立つ兄ではあったし、人望も低くはなかったので、我も共に、と思う仲間であったかもしれない。
とにかくこの一件によってマイウスの立場は、マプロ経済界に小さいながらも混乱を引き起こした男を輩出した一族の長ということになってしまった。
これによって、かろうじて保っていた代々のノイベルクとの販路も、ほぼ全滅に近い状態となる。
もちろんスカラー家を中心とする商人たちの圧力の結果である。
そこでマイウスは壊滅的となった東側への商売を諦め、新たに西側へと賭けることにしたのである。
それがチェモーニ家との契約であった。
彼らの街が完成すれば、その立地から共和国西部はもとより、カーラン、アグバールからの通商路の中継点となることは疑いない。
以前から依頼主のロンドバルドとは面識もあったが、ここで信頼関係を構築しておけば、新都市に代理人を置いての商売もずっと上手くいくはずなのだ。
しかしこの起死回生を狙った策さえ、状況を鑑みるにどうやら断念せざるを得ないらしい。
この世界に身を置いて、彼自身何度か市営倉庫の火災には見舞われているが、これほど迅速に補償金が支払われたことなどなかった。
それはつまり、今回の件にはマプロ市に直接圧力をかけられる勢力が裏にいることを示しているのだ。
これはもはやペルデディカ家もここまでということか。
かくなる上は今の妻を離縁し、新しくスカラーの縁者から妻でも迎えて、一門の末席にでも加えてもらうしか商人として身をつなぐことはできないものか。
そう考えて部屋で書類を手に、一人しかめっ面をしている時だった。
ドアをノックする音と共に、彼に来客があることを下男が告げたのである。
来客とは他でもない、ロンドバルド・チェモーニの長男であるという。
一瞬、追い返そうかという考えがマイウスの脳裏をよぎる。
恐らくスカラーの圧力はチェモーニ家が目的のものだろう。
でなければああも離れた倉庫なのに、狙いすましたように彼らへの商品だけが集中的に被害に逢うものか。
だが、その考えがまだ頭の中にあるうちに、彼は自らドアを開いて下男に客人を通すよう言い付けていたのである。
とりあえずどのような用事での来訪かだけでも聞いておこうと思ったのかもしれない。
本人さえそう思って疑わないのだが、実はドアを開けたのはほとんど無意識のことなのだった。
陽に焼けた黒髪の誠実な青年とその護衛の剣士がペルデディカ氏に迎え入れられてから、再びその扉をくぐるまで実に五時間が過ぎていた。
二人は訪問した時と同じ、裏口から路地へと抜け出た。
それを見送るペルデディカ氏の顔つきは、隠しながらだが憔悴しきったものだった。
その頃にはすでに闇夜が広がり、輝くのはもう二日もすれば消えてしまうだろう弱々しい月と、後は星々だけである。
だが、もしその時人目をはばかるように宿を目指す二人の顔を照らすものがあれば、浮かび上がったのは共に満足気な表情だっただろう。
スカラーの手の者に見つかる危険を冒してまで中央広場近くまで足を伸ばしたのだったが、その成果としては申し分ない交渉ができたのだから。
アムテッロ・チェモーニとその供の剣士は、誰にも気付かれずにマプロへ入り込んでからその五日後、また気付かれぬよう、闇夜に紛れてカーラニア大街道を東へと去って行った。
月のない、暗い夜だった。
それから一月の後、いずれも夜の闇に守られるように、少し前に二人の青年が辿ったと同じ道を急ぐ者たちが幾人かあった。
マセーロ・バノットは老いた両親と信頼の置ける者を数人連れて、ケノッレ・カウディルータは息子夫婦と、クロント・ナタルーゴはほとんど身一つで。
この中ではマイウス・ペルデディカの脱出行が最も大人数で、彼の家族と彼に忠実な部下を連れ出すには馬車が三台満車となるほどだった。
彼ら商人たちは自身の財産のうち、持てるだけを抱えて飛び出して来ていたのだが、誰もが銀行から理由もなく全財産を引き出しては、スカラー家の目に留まる危険があった。
そこでカウディルータは銀行の利子率に文句をつけ、すべて市債に換えると言い、バノットはアグバール向けの大口取引があるとうそぶいて、したがってアウレア金貨建ての預金をルディナ金貨建てに切り替えると言って、それぞれ持ち出しに成功していた。
マイウスは他の家族名義での預金を一つにまとめる振りをして、これも脱出決行の日に間に合わなかったごく一部以外は手許に集められた。
クロントはそもそも口座には雀の涙程度の金額しか残っていなかったので、こちらは補償金と、商隊への投資の保証書だけをしっかりと手にしての身軽な脱出だった。
皆、家屋敷は置き去りにしての、文字通りマプロ市との訣別であった。
これらはすべてマプロの城門を抜け出た後は、カイとトーニを含めた百人の工夫たちに護衛されて、カーラニア大街道を東へ、一目散にヴィンタリを目指す。
剣士二人が中州を離れるので、その間は半ば黙認されていたロンドバルドの夜の散歩は、マディとパエトリウスによって厳重に禁止されたのだった。




