第ニ話:浮気調査編(2)
「いい、アキ。尾行の基本は『風景になること』よ」
週明けの月曜日、夕暮れ時のビジネス街。キャスケット帽を深く被り、地味なトレンチコートに身を包んだルナ先輩が、隣の僕に鋭い私語を飛ばす。いつものズボラな姿は消え失せ、その瞳は完全に獲物を狙う鷹のそれだった。
ターゲットは佐賀ユキさんの夫、タカシ。 彼はオフィスビルから出てくると、周囲を気にするように何度も振り返りながら、足早に地下鉄の駅へと向かった。僕たちは一定の距離を保ちながら、雑踏に紛れてその後を追う。
タカシが向かったのは、銀座の裏路地にある隠れ家的な高級フレンチレストランだった。ユキさんの言っていたレシートの店だ。窓際の席に座ったタカシの前に、一人の女性が現れる。仕立ての良いスーツを着こなした、いかにも「できるビジネスパーソン」といった風貌の、知的な美女だった。
「先輩、あれが浮気相手でしょうか……?」
「……待って。何かおかしいわ」 ルナ先輩は小さな双眼鏡を覗き込みながら、眉をひそめた。
「二人の距離感を見て。親密に愛を囁き合っているようには見えない。むしろ……タカシの方が完全に怯えている」
確かに、窓越しに見えるタカシの顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいるように見えた。女性は冷徹な笑みを浮かべ、書類のようなものをテーブルに滑らせている。タカシはそれを確認すると、絶望したように深くうなだれた。
食事もそこそこに、二人は店を出た。 彼らが向かったのは、人通りの少ない高架下の暗がりだった。そこで女性はポケットから「小さな鍵」を取り出し、タカシの手に握らせた。 「明日までに、例の部屋から持ち出しなさい。手違いは許されないわよ」 女性の鋭い声が、夜の静寂に響く。タカシは生唾を飲み込み、「分かった……」と蚊の鳴くような声で応じた。
不倫の密会にしては、あまりにも殺伐としすぎている。 その時だった。高架下の両側から、足音を殺して接近する不穏な影がいくつか現れた。黒いスーツに身を包んだ、ガタイのいい男たちが三人。彼らは明らかに、タカシと女性を包囲するように距離を縮めていく。
「誰だ……!?」 タカシが悲鳴をあげた瞬間、男たちの一人が懐から特殊警棒を取り出した。
「組織を裏切ってタダで済むと思うなよ、裏切り者が」 標的はタカシではなく、その隣の女性のようだった。しかし、巻き込まれたタカシも無事では済まない。
「アキ、行くわよ!」 ルナ先輩の声と同時に、僕たちの身体は動いていた。 「おい、お前たち! 警察だ、動くな!」 僕は大声を張り上げながら、手に持っていた防犯用の高光度ライトを男たちの顔面に照射した。突然の目つぶしに、男たちが「チッ!」と腕で顔を覆う。
その隙にルナ先輩がタカシと女性の腕を掴んだ。 「逃げるわよ! こっち!」 路地裏の構造を完全に把握していたルナ先輩の誘導で、僕たちは男たちの追跡を振り切り、用意していたレンタカーへと飛び込んだ。
車内には、荒い呼吸音だけが響く。 後部座席でガタガタと震えるタカシと、忌々しそうに外を睨むスーツの女性。ルナ先輩はバックミラー越しに二人を見つめ、冷徹な声で告げた。
「さて、佐賀タカシさん。そして、そちらの彼女。……いい加減、本当のことを話してもらおうかしら。私たちはユキさんから『浮気調査』を依頼された探偵よ」 「ユキが……探偵を?」
タカシは絶句した。彼は頭を抱え、ぽつりぽつりと真実を話し始めた。
「浮気なんかじゃないんだ……。僕は、脅されていたんだ。会社の金を横領したという、身に覚えのない濡れ衣を着せられて……」
彼の隣にいる女性は、数年前に突然失踪したタカシの元同僚の妹、マミだった。マミは兄の失踪の原因を探るうち、ある巨大な「闇組織」の存在に行き当たったという。その組織は、表向きは一流企業を装いながら、裏では膨大な違法資金の「資金洗浄」を行っていた。
タカシはその資金洗浄の片棒を担がされそうになり、マミは兄の復讐のために組織の内部へ潜入し、データを盗み出そうとしていたのだ。先ほどの鍵は、組織が隠し持つ「秘密金庫」のものだった。
「待って」 ルナ先輩がマミの手元を注視する。マミの首元からは、あのユキさんのゴミ箱にあったものと同じ、かすかに甘く妖艶な香水の香りが漂っていた。さらに、マミが組織から盗み出したという資料のコピーに目を落とした瞬間、ルナ先輩の身体が目に見えて硬直した。
資料の隅に印字された、不気味なトカゲの紋章。
「……アキ、これを見て」
先輩の声が、微かに震えていた。怒りと、驚愕と、そして微かな希望が混ざり合ったような、今までに聞いたことのない声。
「この紋章、そして資金洗浄のやり口。……間違いないわ。数年前、私の父さんが最後に追っていた、そしてそのまま消息を絶ったあの『未解決事件』の黒幕よ」
繋がった。ただの浮気調査のつもりで引き受けた依頼が、ルナ先輩が人生を賭けて追い続けてきた、あの深い闇へと直通していたのだ。




