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月花探偵  作者: 蜜柑
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第一話:浮気調査編(1)

「……ねえ、アキ。お腹空かない?」


 夕暮れ時の神坂探偵事務所。ソファに寝そべり、週刊誌を顔に乗せたまま声をかけてきたのは、この事務所の所長であり僕の先輩でもある、神坂ルナさん(24)だ。


 「空きましたけど……。ルナ先輩、まさかまた僕の財布をアテにしてます?」


 斉藤アキ(23)、それが僕の名前だ。大学時代から数えてもう何回目になるか分からない警戒心を声に混ぜてみる。しかし、彼女は顔から週刊誌をどけると、トレードマークであるキャスケット帽をちょこんと直しながら、満面の笑みを浮かべた。


 「えへへ、正解! さすが私の優秀な助手カモ兼後輩! 今日のディナーはアキのおごりでラーメンね!」 「犬扱いをやめてください! あとカモって本音が漏れてます!」


 いつもこうだ。普段のルナ先輩は、お調子者で、ちょっとズボラで、お腹を空かせた僕を振り回すのが上手い。


 でも、僕は知っている。彼女がこの事務所を継いだ本当の理由を。壁に掛けられた、一枚の古い写真。そこには、数年前に未解決事件に巻き込まれ、今もなお行方不明のままの彼女の父親――先代の所長が写っている。


 先輩が探偵を続けているのは、その手がかりを掴むためだ。


 「――よし、じゃあ出発!」


 ルナ先輩が勢いよく立ち上がった、その瞬間。トントン、と事務所のドアが控えめに叩かれた。


 「ごめんください……。こちらで、相談をお願いできると聞いたのですが……」


 現れたのは、不安げに周囲を見回す一人の女性だった。その瞬間、室内の空気が一変する。


 「――いらっしゃいませ。どうぞ、そちらのソファへ」


 さっきまでの緊張感のない笑顔はどこへやら、ルナ先輩の声から一瞬で甘さが消え、ひどく澄んだ、冷徹とも言える響きを帯びた。これが、僕の知るもう一人の「神坂ルナ」だ。推理のスイッチが入った彼女は、どんな一流の刑事よりも冷静で、鋭い。


 「まずお名前と年齢、こちらで依頼したい内容を教えていただきたいです」


 彼女の口癖と言えるほど聞き飽きたセリフだ。神坂探偵事務所の、少し建て付けの悪いソファに腰掛けたその女性は、膝の上でバッグのストラップをぎゅっと握りしめ、淡々とした、けれどどこか震える口調で答えた。


 「名前は佐賀ユキです。年齢は24歳です。こちらで依頼したい内容は……その、主人の『浮気調査』です」


 絞り出すような声だった。


 さっきまで「ラーメン、ラーメン!」とはしゃいでいたはずのルナ先輩は、デスクの引き出しから手際よく調査用カルテを取り出し、万年筆を構えている。その横顔には、お調子者の面影など微塵もない。ルナ先輩は不思議そうに言葉を詰まらせた彼女の様子を観察しながら、静かに尋ねた。


 「ご主人ですね。お名前と、そう思ったきっかけを教えていただけますか?」


 ユキさんは一度、深く息を吐いた。


 「夫の名はタカシ、26歳です。結婚してまだ2年なんですが……ここ一ヶ月、明らかに様子がおかしくて。これまでは残業なんてほとんどなかったのに、『急な仕事が入った』と帰りが遅くなる日が増えました。それに、スマホを片時も手放さなくなって、画面を下にして置くようになったんです」


 「なるほど、典型的な兆候ですね」


 ルナ先輩は淡々とペンを走らせる。


 「でも、それだけじゃありません」 ユキさんの声が、微かに震えた。 「一週間前、彼のジャケットをクリーニングに出そうとしたら、ポケットから見慣れない店のレシートが出てきたんです。都内の高級レストランのものでした。日付は、彼が『会社の飲み会だ』と言っていた夜。……2名分のコース料金が支払われていました」


 「ご主人から、そのレストランについての話は?」


 「何も。私の誕生日は来月ですし、結婚記念日でもありません。それに……」 ユキさんはバッグから、一枚の小さな紙切れを取り出してテーブルに置いた。 「昨日、彼の書斎のゴミ箱に、これが丸めて捨ててあったんです」


 それは、女性物の高級香水の試供品に付いているような、ブランドのロゴが入ったムエット(試香紙)だった。鼻を近づけなくても、かすかに甘く、どこか妖艶な香りが室内に漂う。


 「……私、怖くて。夫に直接聞く勇気がなくて、ここに駆け込みました。本当のことが知りたいんです。もし、本当に裏切られているのなら、私は……」


 ユキさんの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。


 「――分かりました。そのご依頼、神坂探偵事務所が確かにお引き受けいたします」


 ルナ先輩はペンを置くと、ユキさんを安心させるように、静かだが力強い笑みを浮かべた。 


 「アキ、すぐに契約書の準備を。……ユキさん、真実がどうであれ、私たちはあなたの味方です。ご主人の行動パターン、週明けからのスケジュールを詳しく教えてください。私たちが必ず、白黒ハッキリさせてみせますから」


 「……ありがとうございます」


 ユキさんがホッとしたように胸をなでおろすのを見ながら、僕は複雑な気持ちで書類を挟んだバインダーを手に取った。


 浮気調査。探偵事務所としてはありふれた依頼だ。けれど、この時の僕はまだ気づいていなかった。この一見よくある不倫騒動の裏に、ルナ先輩が追い続けている「あの事件」の影が潜んでいることなど、微塵も想像していなかったんだ――。

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