泥棒猫の罪重ね
毎日が粒揃いで大仰に絢爛に輝いている。どれを捥ぎってみても、ジューシーで甘さと酸っぱさのバランスが取れていて、何粒でも口に放り込みたくなる。高校生までの自分の人生が、いかに大味で水っぽかったのかを思い知った。
でも、何粒食べたところで、いつになっても満腹にはならない。まあ、幸せなのは食べている最中であって、満腹=幸せではない。ただ綿棒かなんかで満腹中枢を刺激されただけなら、ただ苦しいだけだろう。幸せが積み重なった結果だから、尊ばれているだけだ。まあだから、このまま生殺しでも差し支えないけど、でも、その先に何があるのか、気にならないこともない。
「アイス取り分けたよ、永田さん、おーい」
「おあっ、ありがとう」
今日の雲は動くのが速いなぁと、窓の外を漫然と眺めていたら、肩を叩かれて名前を呼ばれた。随分、空に寄り掛かって心を許していたようで、現実に引き戻されるような、大げさな感覚があった。
まあ、そんなのは決して表情に現れないささやかな衝撃で、現実にはもっと衝撃的で刺激的な出来事で溢れている。対角線上には鏡花が座っていて、しかもただの鏡花じゃなくて、いちごてんこ盛りのパフェを前にして、意気揚々とスプーンを構えて、糖衣掛けのように瞳を輝かせる鏡花である。希望と期待で胸を膨らませて、一点の疑念もなく笑顔で、私は抵抗する間もなく突き飛ばされた。
現実の起伏は険しすぎる。だから私は、遠くのあまり変わらない景色に逃げ帰ってしまうのかもしれない。激しく屡叩きながら、時々鏡花を一目拝もうと目線を斜め上に動かしては、まだレベルが足りなくて、机の上の紙ナプキンまで後退するのを、幾度と繰り返していた。
「よく食べるよねー、島袋さん。大食いサークルだとは思わなかった」
「昔からこうなの?」
「えっ、あ、うん」
「食べないと溶けるよ」
「うん、うん、食べる食べる」
鏡花は何人前だろうと一人で食い尽くして、残りのメンバーはこうして一つをシェアすることが多い。私はアイスの部分しか食べないけど。
「二人って同じ高校出身なんだっけ?」
「そうだよ。どっちも白高出身ー」
「って略して呼ばれても分からないよー」
「厳密には小学校も同じだったんだけど、一回しか話したこと無かったんだよね」
食べるのに夢中で聞いてないと思ったら、鏡花が自信満々に口を挟んできた。確かに、私にとっては淡いというか透明な運命の始まりだけど、ややこしいから省いたのに。まあいいけどさ、覚えてくれているんだもんね。
鏡花は大学生になって、常葉に唆されてこの食べ歩きサークル、上海茶会サークルを結成した。私は極度の偏食家だけど、なぜか誘われた。まあ、鏡花にとってそれなりに信頼できて、物理的に距離が近いから選ばれただけだろう。縁佳が理想で、現実的には明世、でも二人とも東京の大学だからなぁ。
「それじゃあ、次回の活動は休み明けということで」
「はーい、またねー島袋さんー」
サークルのメンバーの二人を駅まで見送り、私たちも帰路に就く。今日も美味しいものを食べられて、法悦に浸る鏡花を流し目に映しながら、赤みがかった空を見上げて、無邪気さを追い求めた。……なんか話したほうがいいか、別れ際は寂しくなる定めだから。
「夕方になると、少し肌寒いね」
「うん。でも、もっと寒いんじゃない、新潟は」
「明後日かー、同窓会」
「焼肉屋なのにアイスしか食べない寧々子が、今から目に浮かぶ……」
「鏡花ちゃんは、やっぱり食べ物のことが先に来るんだね」
「えぇ?まあ、皆と会えるのも大事だと思ってるよ。縁佳とも会えるし」
「どうなの、連絡取ってる?」
「業務連絡なら……」
「そっか。でも直接会って話したら変わるかもね。き、きっと鏡花ちゃんの想いに応えてくれるよ。だってよっすーだもん、だからー大丈夫、ね」
最後に念を押してみるも、鏡花は首を縦に振るだけで、そして私のような、他人を深く推察しないような人でもわかるほど、ますます気に掛けたくなるほど、思い詰めた顔に変化していった。縁佳のことを深堀りするのは、明らかに失敗だったな。そもそも私は、二人の関係に言及しないよう、今まで散々気を付けてきたのに。下手を打っただけじゃなくて、自分に課したルールを破ってしまった。とりあえず責任を取るつもりで、口を空振らせながら、沈黙を破る妙手を編み出してみる。
「そっそう言えばさ、覚えてたんだね、昔のこと」
「ずっと覚えてたでしょ。さすがに何の話をしたかまでは、朧げになっちゃったけど、ちゃんと譲り受けた写真も持ってるしっ」
「良かったー、いやもちろん、信じてたけどね」
「大学に入って、一緒に色んな場所に出掛けたのも、だいたい覚えてるから。見くびらないでくださいな」
鏡花はしたり顔でそう言った。今度は私のほうが言葉に詰まってしまう。それは本来、私ではなく縁佳と埋めるべき青春であって、私が二人から奪ってしまった機運で、私が眺め返す権利があるのは初めの1ページだけで……。
「それじゃあ、また明後日」
鏡花に余計な気を遣わせる前に、ありふれた見通しの悪い交差点に到達した。別れて、立ち止まって、鏡花の背中を見送る。罪重ねた時間たちが、首を絞めて鼓膜の奥で響き渡る。この瞬間でさえ、私は過剰に寂寥感を募らせていて、それは罪の数を増やしているのと同義だった。
いつもぼんやりしていて、重心からは少しだけ距離を置いて、掴みどころの足りない人なんて言われる。自分が自分を傍から見たら、口を揃えると思う。私の魂は上の空に住んでいるのだろう。
でも実際は、思索依存症とも言うべき状態だった。そしてその思索の内容も、誰にも理解されないような深邃なテーマではなく、誰もがもっと激しく懊悩するようなことで、だけど、そういう事には興味がないって誤解されている。正したほうがいいのかもしれない。でも私は、恐らくそのイメージ通りの人間になりたいのだろう。期待されれば、周りがそう認識すれば、私もその通りに振る舞えるかもしれない。だから、わざわざ正したりしない。
私は、鏡花にとって一過性で刹那的な友達でありたい。全てが収まり良く完結してほしい。……早くとどめを刺してほしい。
「ごめん、呼び止めちゃって」
「いやいや、全然いいよ。どうした?ミケ」
縁佳が再び東京へ戻っていくのを改札前で見送って、仲間内だけの同窓会は無事に幕を閉じた。さらに常葉と実家に帰っていく鏡花が、駅の外に出ていくまで見送って、私にしては珍しくその視線を人間に向けた。
「おや、ミケ?どうした?」
明世こそが真の猫なんじゃないかってぐらいの速度で、すぐに気付かれた。いやまあ、気付いてほしくて視線を送ったんだから、間髪入れずに気付いてくれてむしろ喜ぶべきなんだけど、心の準備をこれからやろうとしていた私は、もう少し重心から離れて、明世を重心から引き剥がして、そしてなんかいい感じのアシストを翹望した。
「最初、机が違ったから、あんまり話せなかったねー」
「あーうん。そもそも、私とモロックマ、サシで話したこと、ほとんど無いけど」
「それでー?二次会でもする?」
「それはしないけど、えっと、いいの?あの人を置いてきて」
「どうせ明日も会うんだし、今はミケの用件を優先するよ。何かな、しまちゃんのこと?」
人とサシで話すのには、やっぱり苦手意識がある。見たい物を見ようとしただけなのに、隠したい物を隠しているだけなのに、あらぬ感情を捏造されて、先手を打って暴かれるから。
「顔に書いといた甲斐があるね」
「直接言葉にして伝えてくれてもいいのよ」
「……本当に顔に書いてあった?」
「皆でご飯を食べてる時も、珍しく声のするほうを眺めててさー。好きな方向を気ままに向いて、人の話は意図的に半分ぐらいしか聞いてなくて、それが元気なミケだもん。だから、ちょっと変だなって思ってただけ」
「そっか。……ありがとう」
「まだ感謝するには早いよー。でー、しまちゃんがどうかした?」
「あぁ、どっどうなの?二人は、上手く和解できた?鏡花ちゃんの気持ちは、ちゃんとよっすーに届いた?大丈夫かな、まだ心配しなきゃダメかな」
この1年、私は鏡花のことを誰よりも近くで、誰よりも長く見てきた、というか実質的に寄り添ってきた。だから、その艱苦も悲嘆も憔悴も焦燥も、遥か彼方の縁佳への執着にも似た恋情を募らせ、時々自分を否定してしまう姿も、全部目の当たりにした。早く鏡花に解放されてほしい。私も、時間が経つにつれて、その思いをどんどん募らせていて、この同窓会という絶好の機会に、鏡花より先に破裂したのだった。
渡ってきた足場が崩れていくかのような、絶妙にスリリングで後がない感じに背中を押されて、明世に問い詰める。彼女は私の両肩を軽く叩いて、優しく宥めてくれた。
「少しは前進したと思う。仲直りはできたんじゃないかな」
「じゃあ、これでっ」
「でも、今すぐにしまちゃんの望みが叶うかと言われると……。ゼロに戻ったというのが正しいのかな」
「何とかならないの」
「こればっかりは、もっと時間を掛けて、関係が成熟するのを待つしかないよ」
「いつまで待たせるの。これ以上、鏡花ちゃんに気詰まりした、先の見えない日々を送ってもらわなきゃいけないの?鏡花ちゃんにだって、しなきゃいけない事、他にしたい事、色々あるはずなのに。これから関係を成熟?させるために、またよっすーのご機嫌取りをしなきゃいけなくて、それでまた精神をすり減らして……。私は、鏡花ちゃんに早く幸せになってほしい。早く、楽になってほしい」
明世に苦し紛れな表情をさせてしまった。二人の問題は明世にはどうしようもないし、せめて縁佳に文句を言うべきなんだ。私は明世のことを少し舐めている。拗らせた本音をぶちまけても、明世なら怒らないで聞いてくれると思っていた。
「うあっ、ごめんなさい……」
「謝ることはないよ。ただ……そうねぇ、しまちゃんは、他の時間を削ってでも、よっすーと付き合いたいんじゃないの?」
「でももし、付き合えなかったら。悲劇で終わるかもしれないのに、ずっと身を削り続ける鏡花ちゃんを見てるのも辛いんだよ。呪われてるようにも思えて、こんなのおかしいよ……」
やっぱり目を逸らさずに、一対一で話すのは難しい。でも目は合わせてなくても、耳だけはそば立てているから、明世の声色の変化だけは感じ取れて、少しだけ熱が冷めた。
「ミケはさ、誰のためにしまちゃんを解放したがってるの。本人のため?それとも、自分のため?」
一度引いた熱が、もっと大きな緊張感になって帰ってきた。
「そんなの、鏡花ちゃんのために決まってる」
「それは本当?別に、自分のためだっていいよ」
自分のためだ、自分が解放されたいから、鏡花の第一希望が満たされることを心から願っている。揺るぎないし疑いようがない。自分が手を貸さなければ、願うだけなら許されると勝手に決め付けている。……理想と現実と妥協が入り混じって、どうするべきなのか自分が全く分かってないことに気付いて、目が回りそうになった。
「少し場所を変えようか」
明世はそう提案して、駅の外へ歩き始めた。逃げてしまいたい。だって、聞きたいことは聞けた。二人にはまだまだ時間が必要だって、聞くまでもない返事が聞けた。もう夜も遅いし、みんな解散して各々帰路に就いている。これ以上、私のくだらない事情で明世を引き留めるべきじゃない……。
「ミケー?そんな遠くに行くわけじゃないよ。ただ、改札前は人通りが激しいから、気が散るかと思って」
明世は少し進むと、振り返ってそう追記してきた。別に、それは誠に残念なことに、ここで明世に付いて行ったところで、次のステップに進めるわけじゃない。いやまあ、だからこそ、付いて行って損することはない……と自分を説得した。
いつの間にか工事が終わっていた駅前広場の、街灯の当たらないような、都会だったら酔い潰れた人々が横たわっているような隅っこを見つけて、明世は立ち止った。
「言ってみてよ、ミケの本音。一人で抱える必要はないから」
明世は選ばせてくれない。選ばせないのが優しさ、逃げるのは私の責任。一人で勝手にそういう意図があるんだろうと信じ込んだ。
「そうだよ、……自分のためでもあるよ」
「んー……、もしかして、しまちゃんのことが、好きなの?」
「んな、すっ好き……なんで分かった!?」
「違わないんだ。意外ではないけど」
そうは言っているが、私には少し吃驚したように見えた。ともかく、知られてしまった以上、それを否定したり、余裕があるような態度を貫いたりはできない。夜風がやけに火照った私の頬を掠めていく。夜の闇は、人をより脆弱にする。全部吐き出してしまう気になった。
「私は、鏡花ちゃんのことが好きだ。好きなんだ、ずっとひた隠しにしてきたけど、今さら嘆いても仕方ないけど、よっすーよりも前から小学生の時から、決して変わらず一筋に好きだ」
「小学生の時って、前に言ってたあの遠足の時?」
「そう。ゆくりなく一緒にご飯を食べることになってね。それで、話して好きだなぁーと思っちゃったの。どこが良かったのかなぁ。小学生だったから本当に、かわいくて愛おしくて、そんな単純な理由で好きになったのかね。でもその後は、一度も話しかけられないまま、遠くで見てるだけで。高校も一緒だって知った時は、いくら私でも、震えが止まらないほど嬉しかった。だけど、今までできなかった事が急にできるようになる訳もなく、それに鏡花の周りにはいつも誰かがいて、だからすっこんでた。なんか、回りまわって、鏡花ちゃんと友達になっちゃったけど、それでも固く決意して、鏡花ちゃんが絶対に恩を感じないよう、肝心な場面では出演しないよう心掛けた。鏡花ちゃんは、鏡花ちゃんの好きな人と付き合うべきだから」
「はぁー…………、なんて言ってほしいんだ」
「褒めて」
「褒めてほしいなら、もっと早く言ってよ。まったく、一体どこにそんな重たい感情を秘めてたのやら」
「脇腹」
「笑い事じゃないのよ」
明世は腕を組んで、こめかみを押さえてみたりもして、今再び大きく溜息を吐いた。自分たちの周りだけがバリアのように静寂で包まれたのを感じて、私がいかに長ったらしく、重量感のある感情を抱えていたか自覚した。
「で、耐えられなくなって、そわそわしながらしまちゃんを気に掛けてたと」
「高校生の頃は、心の準備をしてから、話そうと覚悟を決めてから話せたけど、今はもう、どんな時も行動を共にしてるから、だんだん気持ちが抑えられなくなってきて……」
「しまちゃんがよっすーと付き合ってしまえば、自分は楽になれると思った?」
「う、うん」
私は何段階かに分けてカクカクに頷いた。
「とっくにそういう域は越えてるよ。このまま傍観していても、この先だいぶ長いこと引きずるようになるだけじゃない」
「だからって、どうにもならないよ、こんな重たい感情。待つしかない、諦められるその日まで」
「到底、そんな日が来るとは思えないけど……。待ったところで、状況が好転することなんて、あるの?」
明世はそう言い切った。私が痛いほど理解していることを、淀みなく流麗に断言された。小学生の頃から想いを募らせて、でも結局、機会なんてものは訪れなくて、私の胸の内がどんどん曇っていく一方で。それに今の鏡花だって、縁佳が好きになってくれるのを待つらしいけど、なかなか進展しない。残酷な一手を食らって、面食らった。
「あのさミケ、その想い、しまちゃんにぶつけてみても良いんじゃない?」
「嫌だ」
「今のしまちゃんは誰のものでもない。よっすーが気を悪くする権利なんて無いんだから」
「しまちゃんは、私からの好意を望んでない。私は、鏡花ちゃんが一番幸せになってほしい、そういう道を進んでほしい」
「そんなの聞いてみなきゃ分からないし。それに、今のしまちゃんが、この先もよっすーの一顰一笑に翻弄され続けるしまちゃんが、ミケには幸せに見えるの?さっき自分で言ってたでしょ。このまま身を削り続けるのを見てたくないって。それが本音なんじゃないの?」
縁佳は極悪人だと思う。鏡花を愚弄しているとしか考えられない。だったら……最終的な判断は鏡花がするものだけど、助けられるのに助けないという選択は少なくとも不義理だ。それに、宇宙より速く膨張する初恋に、そろそろ体が耐えられなさそうだから。
「自分で幸せにするんだ、ぐらいの気概じゃないとね」
「でも、振られたらどうしよ……。生理的に無理とか言われたら死ぬ」
「その時は……私が頑張って励ますから、あんまり拗らせないでよ」
「モロックマ~、2番目に好き~」
「飼い主の食べてる物を見境なく欲しがる猫みたいなムーブやめろ!」
ただの午後3時のファミレス、鏡花はお腹が空いたと言ってハンバーグを頬張っている。肉とソースがこんがり焼けたいい匂いが、こちらにも漂ってくる。美味しそうだと頭では理解しているけど、全く食べたいと思わない。
「結局、食べるのね」
「うん。わざわざ胃の中を空けちゃったからね」
本当はサークルの活動として、別の店に行く予定だったのだが、運命の強制力だか何だかで、他の人に軒並み急用ができてしまったため、今日の午後は二人きりで行動することになってしまった。明世に苦言を呈されてから一週間ぐらいあったのに、心の準備は完了していない。鏡花とデートしたら食べてばかりなのかな、と妄想して、小手先で焦りを鎮めようとするばかり。
「あっあれから、どう、なの、よっすーとは」
「んー、友達には戻れたのかなぁ」
「よか良かった、ですね……」
いつもと違うテンポを察したのか、鏡花の食指が止まる。冷や汗が一筋、私の首筋を滑り落ちる。
「どうしたの……?」
「ここから、どうしようかなーって。分かってたけど、縁佳は私と友達でいたいんだよ。それ以上のことは、どれだけ時間が経とうと望んでない。いやー、挫けてくれると思ったんだけどねー。……私のほうが挫けそう」
私が何か言葉をかける前に、鏡花は付け合わせのポテトを、デミグラスソースをたっぷり漬けて、二個同時に口に入れた。
「だ、大丈夫だよっ。鏡花ちゃんならきっと、きっと……」
こうやって擁護するのが正解なのか?そう思ってふと言葉に詰まる。いくら行動を決定するのも責任を負うのも自分自身だとしても、今の私の発言は鏡花の意志決定を大きく左右する。1年間行動を共にしたことで、全幅の信頼を得てしまった。そんな私が、足に力が入らない倒れそうな鏡花を無理やり矢面に立たせて、それは間違っている。だったらせめて、その呪いから解放される選択肢を与えたほうがいい。シャーベットが溶けてしまうほどに、スプーンを持つ手が熱く震い立っていた。
一緒に食事しただけで解散するのは物足りないと鏡花も感じたのか、しばらくその辺を散歩する運びになった。時期は四月の頭、ここ白川疎水は桜が満開だった。細い水路の両岸に桜の木が連なり、散った花弁が水面に蓋をしている。とても風情のある光景だけど、地元の人とたまにすれ違うぐらいの静けさで、花の中心がほのかに色濃くなっているのも、呑気に確かめていられる環境は整っている。
桜並木に必死に目線を固定する。でも、私には日本人の心なるものが足りてないのか、桜よりも隣の鏡花が気になり過ぎる。我慢できずに反対を向いてしまった。
鏡花も同じように斜め上を見上げていた。それで目が合った。水面に映る何某はだいたい有り難がられるけど、鏡花の瞳に移る桜は須らく美しい。我慢すれば良かった。桜を愛でる鏡花を、不自然なほどに見つめてしまった。
「寧々子」
「何……?」
「綺麗だねー」
「うん、綺麗だねー」
「んー、花より団子?」
「いや、綺麗だと思う」
「私のほうを見て言われても……」
「ちがっ、そういう意味じゃっ……」
不自然な身振り手振りな私を前に、鏡花が僅かに左右に振れた。一枚の花弁が斜め上から舞い降りて視線を遮る。その花弁が視界の外に消えたら、足を止めて言ってしまおうと決めた。
「鏡花ちゃん、あの、私、鏡花ちゃんが、あの、すっ好きです……」
はちゃめちゃで歯切れが悪くて、もういっそ伝わってないことを祈りながら、脳震盪になりそうなほど思いっきり顔を上げた。鏡花は……唖然として茫然自失として、言葉を詰まらせていた。私のほうは緊張で、肉体が感じたこともないような乱れ方をしている。熱いような寒いような、痒いような痛いような、浮ついたかと思えば、急に重力で地面に縛り付けられて、爪が刺さるほど強く拳を握りながら、鏡花のジャッジメントを待った。
「い、いつから……?」
「いつから……前から、八月ぐらいから?」
嘘はよくないと思いつつ、しかし小学生の頃から引きずってるなんて言ったら、なんて思われるか分かったものじゃないので、一年ほど近くの大学に通って、一緒にサークル活動をした過程で気になったという設定にしようとしたけど、少し時期が具体的すぎたかもしれない。
「あ、あぁ、いやえっと、突然すぎて驚かせちゃって、ごめんなさい。ほ、本気だからっ」
「それはー分かってるよ……」
「じゃあ」
「少し考えさせて、ほしい」
最後の最後に目線を合わせられそうだったけど、「今日は帰る」と鏡花は一言呟いて体の向きを変えて、橋を渡って自宅のほうへ小走りで駆けていった。
私たちが何を思おうと桜は舞い続ける。鏡花の去り際を飾り立てる。これが最後かもしれないって頭によぎる度に後悔する。美しく散ればいいというものでもない。その後は、土に還るか掃いて捨てられるか。そうなりたくないって、心臓が引き締まるほど強く思う。私は結構自尊心が大きいんだろうな。
あれから、どれだけの時間が経ったのか。そんなに経ってないかもしれない。一日二日、それが信じられないほど長く感じて、鏡花からの連絡を、スマホに張り付いて待ち続けている。もちろん何も送られてこない。暇だから過去の会話遍歴を何度もスクロールする。紋切型のやり取りが並ぶ。無謀だったのか、と自問自答が巻き起こる。でも私はこの1、2年に限れば、縁佳よりも鏡花に寄り添っていた自負がある。まあ、寄り添うことなら友達だってできるわけで、さすれば恋愛関係になれるというものでもない。
結局、私のわがままを鏡花が受け入れてもいいって思ってくれるかどうか。私は縁佳と違うって主張してみたくても、意に反して振り回してくるという点で、鏡花の眼には全く同一の存在に映ることだろう。
少し考えさせてほしいとだけ告げて、私の前から早々に立ち去った鏡花の表情がフラッシュバックする。多分ダメだ。でも、なまじ積み重ねてしまった関係があるから、鏡花は今まで通りに戻す方法を模索しようとしてくれている。私が無意味に壊したことに対する善後策を、鏡花が一任してくれている……。
もし中3の時に勉強の手を抜いていたら、縁佳と仲良くならなければ、明世の言葉に耳を傾けなければ、天使は良かれと思ってチャンスを無責任に与える。ちょっとかっこいい。はぁ。
一回一回の呼吸がまるで、深呼吸かのように時間が遅々として進まない。ダメだって分かってはいるけど、はっきりさせたくて救いを搔き集めたくて、その手に握っているスマホで、鏡花に電話を掛けてしまった。待っているだけじゃ何も変わらない、それは本来、自分を急かすための方便じゃなかったはずなのに。
「もしもしぃ、ねこぉ?どったん?」
「え、あ、え、えぇ?常葉先輩??」
「だよぉー」
「な、なんで、鏡花ちゃんに掛けたのに」
三回ぐらい画面を見直した。巧妙になりすましているという可能性も、常葉ならありえなくは無いが、その冗談を楽しめるほど、今の私に精神的な余裕はない。おくれ毛を引っ張ってガス抜きをした。
「鏡花には掛かってるよぉー」
「近くにいる感じですか?」
「私の膝で寝てるよぉー」
「はっ、膝!?」
「鏡花はぁ甘えん坊だからねぇ」
まるで時間が止まったかのように、私は硬直していた。どうして常葉と居るんだろう。いやいや、そんなのは鏡花の自由だ。縁佳に恋して身をやつそうと、常葉に軸足を移そうと、私が文句を言う権利はない。だけど、不干渉を目指したんだから当然とは言え、相手にされないというのは傷付く。傷付いてから、先に手を出してから臍を噛む。
ともかく、私はそれ以上なにも言わずに電話を切って、ベッドの上で香箱座りでもしながら項垂れていた。この姿勢、なんか落ち着くんだよね……。
翌日の夕刻、私の部屋に訪ね人が一人ありけり。まあそれは、ただの明世だった。黎夢の仕事の付き添いで近くを通り掛かったので、遊びに行くねって1時間前に言われた。特に意地悪する理由もないので、家に上げた。
近所のスーパーのレジ袋が、がさがさと擦れる音がする。何を買ってきたんだろうと、少し期待が高まり前かがみになる。
「はい、キウイ」
「お主、我をキャッツだと思っておるな」
「だって喉をごろごろ打ち鳴らせるじゃん」
「それだと雷神様も猫になるけど、あんな厳めしい猫がいてたまるか」
野菜室で私みたいに不貞腐れられても困るので、さっさとナイフで真っ二つに切って、その場で一緒にスプーンでほじくり出しながら食べた。甘酸っぱくて瑞々しくて、さっきまでへたり込んでいた私にハリを返してくれた。あと、酸味で口をすぼませていた明世の顔が面白かった。
「元気だったかい、ミケ。この間ぶりだけど」
「あんまりー。もうすぐ大学の授業が始まるから」
「それは憂鬱だねぇー、私も他人事じゃないけど」
明世は相変わらず背筋を伸ばして正座して、そこまでして猫になりたくないのだろうか。私は最悪くらげでもいいので、明世の腕にごっそり寄り掛かった。
「でーミケさー」
「振られたよ」
「え、えぇ」
明世の目がこまめに動く。無意味に明世まで巻き込んでしまった、自分から首を突っ込んできた奴だけど、私はどうしても罪悪感を拭い切れなかった。
「ごっごめん、私が唆したから」
「許す。何も唆さない友達なんて、あんまり楽しくないから」
「そうなのかなぁ」
そのまま重力になすがままにされて、私の頭は明世の太ももに着地した。明世の手が私の稜線をなぞるように滑っていく。
「泣くなよー。辛いだろうけど、でもこの先に禍根を残すよりは良い選択だから」
「泣かないけど、もっと励まして、めっちゃ褒めて、私は王妃よ、おーっほっほっほ」
「生理的に無理って言われたなら、臣下役やってあげる」
「少し考えさせて、としか言われてないや」
特に意味もなく、仰向けになって重力に逆らって両手を伸ばしてみると、その先で明世が口に手を当てて考え込んでいるのが目に入った。
「それ……だけ?」
「うん、でもすっごい素っ気なかったし」
「『私は縁佳以外と結ばれる気なんてないんだから!!』みたいなことは、言われてないの?」
「心の中では、そう思ってるのかもねー」
明世による鏡花の物真似のつもりの裏声、普段ならけらけら笑ってた。
「私は、もしその気がないなら、今もまだよっすーのことが大好きなら、決して迷わず、しまちゃんはミケを切り捨てると思うけど」
「それはーそうだけど……。逆に私でいいなら、きっぱり言ってくれるはず。そういうところが、私を、ね、狂わせたんだ」
「いやいや悩むと思うよ。たとえ新たに生まれなくても、今までに積み重ねたがすよへの想いは、すぐに消えないし。それに、この想いは今やしまちゃんの芯だから、それが揺らぎつつあると気付いたら、不安を感じると思う」
「つまり私は、鏡花ちゃんの不安を加速させたってことだよね。私が、余計なことをしなければ……」
「でも、遅かれ早かれ、その芯は揺らぐよ。その時にしまちゃんを安心させられるのは、ミケだけなんじゃないの」
明世の春のように温かい手が、私を納得させにかかる。落ちてしまいそうになるけど、ぎりぎりの所で小枝か何かに引っ掛かって反論する。
「違う、鏡花ちゃんには常葉先輩もいるじゃない。よっすーの枠を埋めるのは、私じゃなくて常葉先輩なんだ」
「私とミケがそういう関係じゃないように、ただの疑似姉妹かもよ」
「でも、その境界線は流動的だし、恣意的だから」
「さあー?それじゃ、やっぱり聞いてみないとねー。覚悟するんだミケ、実質二度目の失恋の最中にあるしまちゃんの、希望になるんだ」
「どうして今更そういうことを言うの?」
「今更、踵を返せないでしょう?」
明世は控えめに微笑みながら、私の顎を撫でたり手櫛で髪を梳いたりしてきた。確かに、宣言通り励ましてくれたけど、私に新しい悩みの種を植え付けてきやがった。
鏡花が私を選ぶということは、そもそも選ぼうか迷わせること自体が、鏡花にもう一本切り傷を入れるということに他ならない。自分の信念を曲げて、今まで掛けてきた労力を全て水の泡にして、私という存在は、それを超えられるのだろうか。
初めから一切合切行動しないのが最良だった。それはそうなんだけど、ほんの序章だけでも演奏してしまった以上、最後までやり切らなきゃいけない。新たな呪いが生まれた瞬間だった。
「頑張れミケ、自信を持って。多分……大丈夫」
「その根拠は?」
「分かんないけど、でもしまちゃんがミケを邪険にすることはないと思う!」
「くそ、こんな適当に励まされるとは、騙されたぜ」
次に鏡花に会った時、何を言うべきなんだろう。やはり、自分がいかに鏡花にとって必要な人間か、熱弁するべきなのか。一見、滑稽に思えるけど、そう素直に正直であったほうが、鏡花も安心するのではないだろうか。それで思い出したけど、いつから?と聞かれて、とても小学生の頃から一途に、とは答えられなかったけど、これも正直に告白したほうが、鏡花は評価してくれると思う。
ぐあーっ、なに分析して、打算的に動こうとしているんだーっ。私たちは純愛であるべきなんだ、理由は特にないけど……縁佳への対抗意識?あるいは、明世の鼻を明かしてやりたいのかもしれない。
私たちの意に反して、日常というのは自動的に進んでいく。もしも、もしかしたら、ともすれば、鏡花は私と行動を共にするのを避けていたのかもしれないけど、時間は残酷で、そろそろ新入生をサークルに歓迎しないといけない時期となった。そんなわけで、近所のカフェで打ち合わせと作業を行うこととなった。
自然と目の前の鏡花の一挙一動を気に掛けてしまう。ノートパソコンの画面に顔を近付けて、その過程で髪をかき上げてみたり、ノールックで横のパンケーキを頬張ったり、その度に自分の心が飛び跳ねるのを実感する。私は長い間、自分の欲情を上手く抑え込めていると自惚れていた。けれど、それは風が少し強く吹けば崩れてしまうような矜持で、明世の言う通り、永遠にこれを維持するのは不可能だったんだろう。進むしかない、自分の中で最後の確認ができた気がする。
「待って、鏡花ちゃん」
帰り際、解散して各々の道を歩み始めたタイミングをこっそり待って、少し付いていって鏡花に声を掛ける。ただ呼び止めるだけなのに、こんなに息苦しくなって、喉に違和感を覚えたのは初めてだった。多分、今後もしばらくはこんな感じだ。何度だって思う、一歩踏み出さなきゃ良かったと。鏡花は縁佳のことを完璧には忘れられないし、私は鏡花の本当の夢を挫いたという罪の意識を背負う。まあ、悪いことばかり考えても仕方ないか。そう仕切り直してみようと試みた時には、すでに始まっていた。
「この間のことかな。あぁ……」
「あの時、一つ嘘をついちゃったから、訂正させてほしい。好きになった時期を八月ぐらいって言ったけど、本当は、その、一番昔からで」
「一番昔?」
「一番昔、初めて話した遠足の時。その時に、他の子にはいだいた事のない、特別な感情が花開いて、その日の帰り道から今日に至るまで、ずっと鏡花ちゃんの声が表情が温もりが消えなくて、でもそれ故に話し掛けにくくなって、ずっと陰から見てて……。きっ気持ち悪いよね、引くよね、でも、気持ち悪い部分を隠すのも違うと思ったから、ちゃんと話した上で判断してもらいたかった」
「私は……女の子を好きになることに抵抗がないから、大丈夫だよ」
そういうことでは無いと思いつつ、あえて外したのかもしれないと考えを巡らせた。そんな事をしているうちにも、鏡花は目を伏せて、結論を急ごうと最善を尽くしていた。
「まだ、迷ってる……?」
「え?まあ、ね。自問自答で収拾が付けばいいけど、すごい失礼ながら、二人を比べちゃったりして」
「よっすーはどうか知らないけど、私はいいよ。だって、鏡花ちゃんの恋路に横槍を入れた立場なんだから」
「横槍じゃないよ。寧々子は正面から来たじゃない」
鏡花の顔は未だに晴れない。昔懐かし曇り顔、とそれにノスタルジーを感じるのは、私と縁佳と、あとは常葉ぐらいだろうか。だけど、真意を話すのが怖いから私を気遣っている、という風には見えなかった。鏡花はまだ迷っている。それが分かっただけで、私にとっては十分だった。慌てて結論を聞き出そうとするのは辞めた。
「私は、今だってこの瞬間だって鏡花ちゃんのことが好きだ。小学生の時に生を受けたこの感情は、少し熟れたりぐれたりしたけど、今も確かに私の体を巡ってる。それは本当だから。えっと、伝えたかったのはそれだけ。じゃあ、また今度」
「私はっ、私のことを好いてくれる人を優先したい!」
鏡花は私の手を両手で強く握って引き込んできて、振り返らずとも果てしない熱量が伝播してくる。普段通りの楚々として純真な声質の中には、トランペットのような主人公じみた空気が織り交ぜられていた。
「迷ったし、そんな自分をすぐに受け入れられなかった。だって、私は縁佳が好きだったはずだから。でも、今この瞬間に一番近くにいて、今の自分を支えているのは寧々子だもん。その想いには応えたいんだ」
体が硬直して、五感だけが一人前に肥大化していく。目の前が桜色に染まったようで、春爛漫の真っ最中に毛布に包まるように暑くて、水蜜桃のようなただれるほどの甘さが溢れる。私は漫然と生きてきただけなのに、なぜか少しだけ報われた。まあ、それを疑問に思うのも面倒だった。
「とかー言ってみたけど、結局、私は誰かを愛したいんじゃなくて、誰かに純愛を向けてほしかっただけなのかもね」
さっきまで俯いて、私の足元辺りをめがけて叫んでいた鏡花は、今度は少し顔を上げて、手に籠める力を緩めて、極まりが悪そうな笑みを浮かべた。でも、その瞳はどこまでも澄んでいて、腕を引っ張られることよりも何よりも、強力な引力を有していて、理性を失わせる魔性があった。
「純愛なんて、そんな綺麗なものじゃないよ……」
「綺麗は汚い、汚いは綺麗と言いますし。物は言いよう、表裏一体」
「名言を使われると、説得力が増してずるい」
「辞めてよ、さっきから、気取ったことばっか言ってて、恥ずかしくなってきたんだから」
喉元を過ぎれば、たちどころに暑さを忘れ、手と手を結ぶことだって、昨日もやったような気がしてきた。ここ数日、特別な会話と思索を繰り広げた私たちが馬鹿みたいに見えて、笑えてきた。これだけ頑張っても、たぶん前からそんなに距離は縮まってない。でも、幅を持たないその “直線” を越えたかが重要なのだろう。
難所は越えた。あとは野となったり山となったりしたら困るので……こちらから手を握り返して、びっくりしないぐらいの強さで引っ張ってみた。
「鏡花ちゃん、行こう!」
「どこに?」
「んー……、夢の果てまで?」
「起床だね、それは」
「はい、アイス取り分けたよ」
「ありがとー」
サークルの一員が、いつもの如く、パフェからアイスを取り出して、その皿を私のほうに滑らせてくれた。
「あぁーっ、またアイスだけ食べてるーっ。もっと色んなもの食べなきゃダメって言ってるでしょ」
「だってー、冷たい物はのどごしがいいんだもんー」
「そういう問題じゃないー。はぁ、今年の健康診断は大丈夫かなぁ」
「鏡花ちゃんも大概だと思うよー」
「何だとーっ」
鏡花は上半身をねじってまで真横を向いて、むすっとしているつもりな顔で、フォークを差し向けてきた。対する私は、頬杖を突いてにこにこして、余裕そうな感じを醸しておいた。太っても知らないぞー。
「二人って、すごい仲いいよね。付け入る隙がないぐらい」
「うんうん、距離近いしねー」
そう指摘されて初めて気付いて、鏡花に目配せしてみて、でもなんか全然離れようとしなくて、縁佳が手を焼かされてきたのは、こういうところだったのかと、付き合ってみてようやく理解したのであった。
多少の古傷をお互いに労わって、時々ぐずぐずしていた過去を心臓が縮むような思いをしながら見返しつつ、私たちは次の段の日常を積み重ねるのだった。




