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Step by Step  作者: Ehrenfest Chan
第9段:海棠、何見て眠る
53/63

9-7

 私は自分がどこでも、夜行バスの中でだって熟睡できると思っていた。けど、こんなにも寝付けないなんて。誰もいびきをかいてないし、スマホの光が眩しいということもない。せめて目を瞑ろうと瞼を閉じると、下から突き上げるような力が発生して、強制的に開眼させられてしまう。そして、真っ暗なはずの車内が、色付いているようにさえ見えてきた。遠足のバス移動のような、楽しげな雰囲気の中にいるような気がしてきた。


 鏡花に会うこと自体が、今の私にとっては緊張させられる特別なことで、それに二つのバイトを無断で欠勤するという、道義に悖る行いも抱えていて、でも何より、また鏡花に出会えるという喜びがあって、このデートが上手くいかなかったらどうしようという不安もあって、それらが左心室と左心房と右心室と右心房を支配して、好き勝手に心臓を動かしている。そんな状態で眠りに付けるわけがない。時々、全部が上手くいってしまった状況とか、逆に全部が空回りした状況を想像して、指先が麻痺するような感触を覚えたり、思わぬ筋肉が弛緩しそうになって慌てたりしている。


 しかしこのまま一睡もせずに鏡花に会うのは危険だ。泣いても笑っても、この一日しか鏡花に会えない。それを、冴えない頭でうとうとしながら過ごすわけにはいかないんだけど……。いや、だからって、考えたいことがあるのに、それを差し置いて寝られるわけじゃないので。背もたれに頭を置き直して、一旦焦らずゆっくり思考を巡らせてみた。


 私が鏡花に救いを見出し始めたのは、ここ数日のことじゃない。ずっと前から鏡花を中心に物事を考えてたし、鏡花のことは特別扱いしてたし、鏡花のことは何でも知ってないと気が済まなくて、それは普通に好意と呼ぶべきものだった。まあ、ここまで追い詰められて、私はようやくそれに気付いた。


 たぶん鏡花は、私から彼女への矢印を、私が自分で引くことを望んでいる。というか、それはあるがままの自分を受け入れて、大人への一段を上るために必要なことでもある。だけど、それに気付くまでに、あまりにも時間が掛かりすぎてしまった。だから、まずはその事を、これまでにしてきた非礼の数々を、今一度謝らなくては。謝れば許されるって確証は、傲慢なことに、どれだけ自分を追い詰めても消えることがなかった。……それでいい、私と鏡花の信頼の証なのだから、むしろ尊ぶべきだった。


 そもそも、私に恨みがあるんなら、的確なタイミングで狙い澄ましたように声を聞かせてこないだろう。あーもう、そんな風にされたら、意識するに決まってるでしょっ。少しの不安なんて簡単に覆ってしまうほど、気持ちが逸る。早く会いたい。どこか一瞬を切り取っただけの写真なんかでは、満足できるはずがない。


 感情が昂ってきた。いつもより三割増しで目が開いてる気がする。鏡花が余計な種を蒔きまくったせいで、自分を律するのが困難なほどの激情が生まれていた。やっぱり、とてもじゃないけど寝られない。それならいっそ、思う存分妄想することにしよう。いきなり手を伸ばすのは危険だから。まずイメージを固めようと思う。



 奇跡的に一睡だけできた。発奮してるおかげもあって、思ったより眠くない。逆に命の危機を感じるほどに冴えている。朝早くに着いてしまったので、とりあえずネカフェでシャワーを浴びてから、それでもまだ早いけど他にすることも無いので、鏡花との待ち合わせ場所に向かった。……いやいや、あんまり早く来すぎると、楽しみにし過ぎてるって思われたりしないだろうか。うーん、思われたら思われたで、口で説明する手間が一つ省けたってことで、自分を納得させることに成功した。


 目印の時計をしきりに見上げながら、柱に寄りかかって鏡花を待つ。平日の朝ということもあって人の往来が激しいけど、鏡花なら迷うことなく私を見つけてくれるだろう。とにかく、早く来てほしい。早く鏡花に会いたいというのもあるけど、何よりバイトを投げ出してきたというこの後ろめたさが、この時間を純粋に楽しませてくれない。早く忘れたい、全部放り投げて、鏡花に全てを委ねたい。


 まあ、仮にバイトをサボって来たという問題がなかったとしても、鏡花に言うべきことを言い尽くせるかという、別の不安に駆られるだけなんだけど。プレゼントまで用意して、退路を断ったつもりでいるけど、雑に渡すだけではダメだし、というかバスの中で、言いたいことをもっとまとめておけば良かったじゃん!ポンコツはもう少し、鏡花と距離を縮められてからにしたいんだけど!


「よすがぁーっ!」


 鏡花の声で、落ち着きなくタップするつま先が止まる。いつの日か見た、てってってってってという走りで、こっちに突進してきた。初めて発した言葉のような呼び声など、かつての面影をどこか忍ばせながらも、大人びたことは隠し切れてない。まあ、外観の雰囲気をがらりと変えたことを、大人びたと形容してるだけかもしれない。けど、一足先に変革を成し遂げたのだった。


 置いて行かれたような気持ちになる。鏡花から送られてくる写真を見たり、話を聞いたり、私は散々あせらされたのだった。だからこそ、置いてかれないよう、血涙を絞ってでも彼女に手を引かれるんだろう。鏡花ならきっと受け止めてくれる。そこは疑えなかった。私が空虚な理想を捨て去れるのか、これは私自身の孤独な戦いなのだから。


「早いねー。おかげで時間通りなのに、罪悪感を感じるよー」

「6時半には着いちゃったからね」

「ねーねー、髪型変じゃない?元々癖っ毛なのに、時間がなくて、寝ぐせを完全に取り除けてないかも」


 鏡花が不安そうに黒目を真上に右斜めに動かすので、体を傾けて横からも見てあげた。


「大丈夫そうだよ」

「良かったー、どうもー」

「前に、髪を引っ張る癖がどうこうって言ってたけど、結んでるのもちゃんと似合ってると思うよ」

「そろそろ様になってきたかなぁ」

「そうじゃなくて、なんか、あの、ぐぬぬ、うーん……、髪を引っ張る癖はなくなった?」

「代わりに、他の物を引っ張るようになったけどね。服の袖とか、こういうのとか」


 鏡花は私の手を持ち上げた。指先がふんわりと包み込まれる。逃れることは簡単にできるけど、ぐっとこらえて、してやったりという顔に余念がない鏡花を、照れながら真正面から見つめる。ただでさえいっぱいいっぱいなのに、こんなに整った可愛らしい顔立ちを突き付けられたら、どうかしちゃうよ……。


 食事のことは全て鏡花に一任しているので、このまま手を引かれる。どういう視線を向けられているのか、鏡花にどう思われてるのか、懸念は尽きないけど、でもそんなものが吹き飛ぶほど嬉しい、心臓が跳び回っている。私はずっと、いや鏡花も、これを待ち望んでいた。なーんだ、受け入れてしまえば恐れることなんて何もない。私に足りなかったのは、絶望を認識するほんの少しの勇気だったのだろう。


 それで、鏡花はここから歩いて数分のパン屋に案内した。コンビニ以外のパンを食べるのはいつぶりだろう。それと、鏡花と美味しいパン屋を訪れたのは、いつのことだっけ。しかし案外、記憶は残ってるもので、それぞれ何のパンを選んだか覚えていた。もちろん鏡花は、これが名物なんだよーとか達者に語りながら、自由闊達に別の物を選んで、私は安定に目がくらんで前と同じものを取っていた。


「縁佳って、朝はパン派?んーー、縁佳って意外と似合うよねー、ねー」

「何が……?」


 質問してきたかと思えば、一人で考え込み始めて、そして勝手に腹落ちされた。


「毎朝、豆からコーヒーを淹れて、洋風の一汁三菜を揃えて、純白の朝日と青い鳥の囀りの中で、それを冷めて不味くなるぐらいゆっくり食べるのが、似合う」

「どんな偏見?」

「縁佳って、様になるんだよ。ただコーヒーを飲んでるだけでも」

「言われたことない」

「みんな見る目ないね」


 鏡花はメロンパンをもちょもちょしながら、コーヒーが非常に啜りにくくなる視線を送ってくる。マグカップを傾ける手が止まる。少し話題を転換することにした。


「そう言えば、マグカップ、ありがとう、受け取りはしたよ。すごい前の話だけど」

「あぁ、ちゃんと届いてたんだ。良かったー」


 鏡花がパンを口から離して、表情を露骨に明るくさせる。これまではそれで十分だった。だけど今回は、今までの焼き直しをしたいわけじゃない。近付きたいのなら、引かれるかもとか変に勘繰らず、鏡花のように自分の全部をきちんと開示しなきゃ、秘密を抱えている場合じゃない。総菜パンに指がめり込むのも気にせず、意を決して、重たい唇と胸襟を開くことに集中した。


「ただ……」

「んー?使ってないってー?別にいいよ、その代わり飾ってね」

「割れて、しまって……わっ私が割ったわけじゃないよ!?机の上に置いといてくれたじゃん?その間に誰かが落としちゃったみたいで……」

「あらあら。大丈夫、縁佳が気にすることはないよ。直接渡すのを諦めた私も悪いから」

「だけど、鏡花の想いが詰まったプレゼントだから、捨てるに捨てられなくて。しかも、実家から持ってきちゃった。今も棚の上の、一番目立つ場所に置いてあるんだけど、あはは、私も少し変になっちゃったのかも……」

「へぇー、何というか、らしくないね」


 らしくない振る舞いなのは、指摘されなくたって自分でも重々わかってる。だからって、クリームパンに負けるほど興味なかったかな。鏡花の反応一つに、自分がどこかへ転がっていきそうになった。


「でも、嬉しい。私から贈られたって部分に価値を見出してくれてるんでしょ。それなら、おやつを我慢した甲斐があるってもんよ」


 まあ、口に出してないんだから、私の本心を鏡花が察せるはずない。そう言い聞かせて、自分を慰めていた矢先、次は気ままに相好を崩してきた。とても強力だった。一撃で私の心を満たしてきた。鏡花の笑顔をもっと見たい。その欲求には抗えず、逸らしていた目線が何度でも引き寄せられていく。


 それと同時に、今まで日の目を浴びられなかった数々の秘密にしていたことを、鏡花になら打ち明けられるって、安心感が舞い戻ってきた。


 腹ごしらえも済んだところで、事前に私が提案した通り、水族館に向かった。もちろん、興味があったわけではなく、単純に定番な感じがしたから希望した。少しでも、そういう雰囲気に近付けたかったのである。


「おー、いいなぁペンギンはー。私も暑いからプールに飛び込みたいよー」


 一羽のペンギンが、私たちの前で水に飛び込んで行った。鏡花はガラスに顔を近付けては、急激に振り返って、それを繰り返す。鏡花は簡単には満腹にならないだろうから、あくまでも空腹感が紛れただけなんだろうけど、それだけでも息を吹き返したように本調子になって、嬉々として舞い上がっている。私も、そういう鏡花を前にすると眠気が吹き飛ぶ。


「うぅーん、ウサギもいいけど、ペンギンもありだな」

「あら、それと同格?」

「飼っていい?」

「はへっ?」


 また、前触れもなく振り向いてくる。って、なんだその提案は。同棲を持ち掛けてるって捉えていいのか?いくら鏡花でも、そんな改まりもせずに告白してくるとは思えないけど、でも軽く浮かされるほどには、私の体が熱を帯びてくる。理性なんて、所詮は戯言に過ぎないのかもしれない。と、返事を迷ってる間に、鏡花は次の展示に進もうとしていた。


「だけどー、常に冷房を掛けなきゃいけないってなったら、電気代が馬鹿にならないかー。やっぱりウサギを飼うことにするねー」


 鏡花はどこまで想像して、どれを冗談のつもりで話してるのだろう。今の私は、何でも本気にしかねない。


 先に進むと、天井まで水槽になってる通路があった。色とりどりの小魚の間を、巨大なエイが羽ばたくように遊泳するのを、下から見上げることができる。まるで水中を散歩してる気分に……感受性が豊かならなれる。


 まあ、それよりも鏡花のほうが気になって、顔をなかなか上げられない。鏡花ってこんなに劣情を煽るような存在だっけと、心がかき乱される。前の同窓会では、ここまでしっかりメイクをしていた記憶がない。私と二人きりだから、気合いを入れてきてくれた……だったらどうしよう、勝手に勘繰って愛しくなってる。それにこの、ラップスカートの裾と靴下の間に覗かせるくるぶしが、そこはかとなくそそり立てる。高校生の頃の制服は、この二倍は脚を露出していた気がするけど、それ以上の婀娜っぽさがある。


 せっかく水族館に来たのにという価値観も持ち合わせてはいるけど、水槽の水に屈折された、常に揺らめいて二度と同じにならない光を浴びて輝く鏡花は、ここでしか見られないと思うと、やっぱり鏡花に夢中になってしまう。


「よすがぁー?面白くないからって、私のことばっかり見てるでしょ」


 見上げた時の首筋が美しいなぁーと見惚れていたら、邪な目線に普通に気付かれた。かつての鏡花も、こんな風に自分で難癖を付けながら、私のことを見つめていたのだろうか。鏡花の行動とか感情は、決して理解不能なものじゃなかった。身をもってそれに気付いて、色んな箇所に散りばめられていた恐怖が、徐々に薄らいでいく


「さっ、行こう、次に」

「いや、鏡花の心行くまで居ていいよ」

「じゃあ、縁佳も真面目に水槽を見てね、私じゃなくて」

「逆に、鏡花が私のことを見つめる気でしょ」

「もちろん。……じゃあこうしよう、横並びになろう、平等にいこう」

「平等、ねぇ」

「見られるのだって、落ち着かないんだよ!」

「私だってそうだよっ」

「んーもう、分かったよっ。私のこと、忘れられないぐらい網膜に焼き付ければいいじゃないっ。特別だよ?」


 鏡花はそう言って私の前に出ると、水面近くを優雅に鷹揚に泳ぐジンベイザメを見上げて、目で追い掛けていた。まるでカメラマンと演者のような距離感から、そんな鏡花の容色を観察する。まっすぐ、逃げずに誤魔化さずに、鏡花という存在に向き合えた気がする。……ついでに、欲も少しだけ満たされたような気がする。



「買ってきたよー、二つ」


 鏡花はそう言いながら、有名らしいエッグタルトを両手に持って、鳥革翬飛な劇場の前で、腕を組んで待つ私の元へ、他の通行人に足を止めさせるような勢いで、一直線に駆けてきた。もし彼女が自分の子供だったら、間違いなく注意してた。


 で、鏡花はそのまま勢いを殺すことなく、そのまま片方を齧った。


「んままーっ」

「ほんと、美味しそうに食べるねぇ。その愛嬌は、誰も勝てないと思うよ」

「縁佳は?……食べないよね」


 どう考えても甘い。大きなボウルに砂糖をどっさり入れてかき混ぜる作業工程が、ありありと目に浮かんでくる。ここまで事前に口に合わないことが予想できていると、逆に唾液が引っ込んでく。


 でも、何度だって自分を叱咤するけど、私は変わるためにここまで来たのだ。その過程で鏡花にいてほしいと願うけど、結局根本を変えられるのは自分の意志しかないから。私は鏡花の手をぐっと掴んで引き寄せた。それは違ったかもしれない。まあ、そこまですれば引き返せなくて丁度いいか。


「え、食べるの……?」

「一口だけ」

「何口でもいいけど。どっ、どうしたの、どうしちゃったの?」


 鏡花のほうが、わざとらしく瞬きして、口をぽっかり空けて唖然としてしまった。いや、向こうが困り果てるなんて、今のところは貴重な姿だから、存分に拝んでおくべきなのかもしれない。


「鏡花がどんなものを美味しいって思うのか、気になるから」

「そ、そうねー、私も、縁佳が何を美味しいと思うのか、ずっと気になってたし、もしかしたら美味しいかもしれないからね。はい、好きなだけ食べて」


 鏡花は口を閉じると、心なしか嬉しそうに、エッグタルトの片方を差し出してきた。こんがり焼き目が付いてて光沢があって、バターと甘い香りが漂ってきて、鏡花にとっては最高なんだろうなって、一目でわかる。髪を耳に掛けながら、どうせならたくさん食べちゃえと、天使か悪魔かわからない存在に唆されて、あまり可愛げのない大きさの一口でそれを齧った。


 絶妙な温かさとカスタードの甘ったるさ、見た目通りの味わいだ。鏡花が不安そうに見守る中、叫ぶ時と同じ筋肉を使って、頑張ってそれを飲み込む。これで変われたと言えるのかって訝しく思ったけど、不味いって分かり切ってるのに、なぜ口にしてしまったんだって後悔より、鏡花と同じものを美味しいって感じられないことに対する悔しさが先立ってて、それが成長なのかもしれないな。


「どうかな……聞くまでもないか」

「美味しい、よ」

「そっかー。もう一口行っちゃう?」

「え、いやそれは……」

「うふふ、縁佳はいちいち可愛いんだからぁー」


 鏡花の顔には時にこうやって、私を出し抜こうとする野心とか、行き過ぎた煩悩が笑顔となって現れる。無邪気なだけじゃないのが、鏡花の良い所だと思う。なんて、そんなことで喜悦というか安心感を得ていると、鏡花はエッグタルトの片方を爆速で胃袋に収めていて、空いた手を私の頭上に広げた。


「撫でてあげる」

「撫でて……え?」

「だって、頑張ったみたいだから、褒めてあげたくて」


 断ったら元の木阿弥だって、自分の良心が恫喝してくる。はぁ、受け止めるしかないか。褒めていいよなんて言葉にするのは憚られたので、目をつぶってそれを合図にした。鏡花に伝わらないはずがなくて、彼女はすかさず私の頭頂部に手を置き、それを慎重かつ丁寧に左右に揺する。


 じんわりと鏡花の温もりが広がる。脳に直接それを覚え込まされるようで、相も変わらずとてもこそばゆい。だけど昔よりも、体をよじろうと、逃げようとする力が弱くなってることも実感できた。鏡花を受け入れなきゃ生きてけないというのは、決して屁理屈の末席として言ってるのではなく、全身全霊の総意なのだろう。ほら、身を他人に委ねるという感覚の良さが、少しだけ発見できた気がする。


 鏡花の手が離れて、恐る恐る目を開く。目の前にはさっきと同じように鏡花がいて、その後ろを無数の通行人が通過していた。そのうちの何割かは、こちらを一瞥していく。それに気付いてしまって、全身が揉みほぐされたような解放感が、一瞬にして烏有に帰した。


「私が撫でやすいように、少し頭を前に出してきて、満更でもない感じだったねぇー」

「ち、違うしっ」


 もはや私が耳を赤くすることに、鏡花は興味がないらしい。ところで、私って緊張したり興奮したりすると、顔の色が変わったりするんだろうか。その答えは鏡花のみぞ知る……でいっか。


「うーん、でもちょっと拙いかな。縁佳のお眼鏡に適わなかったかも。次に会う時までに練習しておくよ、寧々子で」

「いや……、そんなのはいいよ、別に」

「あぁ、やっぱりやり過ぎだったかな……?」

「そうじゃなくて、私で練習すればいいじゃん。私の反応を見て、何だろ、模索してくのが効率いいっていうか……」


 鏡花は私の理性と同じ表情をしていた。でも、鏡花は私が認められただけあって、それだけで終わらず、最後にはきちんと頷いて、「そうする」と宣言してくれた。これから許可なく撫でられても、あまり文句が言えなくなったけど、まあ、それくらいの強制力がなければ、鏡花の強い想いがなければ、私は変われないのだから仕方ない、仕方ない……



 天空には地上とは異なる風が吹いていて、室外に出ると、そんな清流のような風が、私たちを追い越していった。目線を下にしてみれば、見渡す限りの夜景が広がっている。まるで、かつて天を飾っていた星々が地に墜ちたようだ。


 こうして、夜景を鏡花と眺めること自体は、修学旅行の時にもやった。いくらデートに締めが必要だって言っても、同じようなことを繰り返すのはどうかとも思ったけど、意外と正解だったかもしれない。こういう展望台には無数のカップルが跋扈していて、彼ら彼女らの一挙手一投足に急かしてもらえる。


「随分、賑わってるねー」

「人混みばかりで疲れた……?」

「そんな、京都人みたいな婉曲表現ではない」

「なら、いいけど」


 鏡花は立ち止まると、金属の柵に手を置いて、遠くを見渡し始めた。私もそのすぐ隣に立って、鏡花の横顔を眺める。展望台は全体が青くライトアップされていて、鏡花の姿もその中にぼんやりと溶け込んでいた。


「いい場所だねー。よく見つけてくれたよー」

「いや、検索したら上のほうに出てきたから。有名なんじゃない?」

「だとしても、縁佳が提案してくれたこと自体に価値があるんだよ」

「そうなのかなぁ」

「そうだよそうだよっ」


 鏡花は、沈黙を回避するかのように頷いてくれた。しかしそれでは逆に、タイミングが掴みにくい。時々カバンの中に手を入れては、渡さなければならない物を握りしめる。だけど、告げたい言葉が喉につかえて、中々踏み出せない。そうやって逡巡していると、すぐそばに居るはずの鏡花の顔がどんどん遠ざかって、余計に言い出せなくなる。


「大学は、あっちの方角かなー」

「ここから見える?」

「多分、あの山を越えた先だから、見えないと思う」

「まあ、夜だしねぇ……」

「あ!あの観覧車って、修学旅行で私たちが乗ったやつかなーっ」

「どうだろ、観覧車なんていっぱいあるから」

「いやー、あの頃に比べて、ビックになりましたなー」


 私は、こんなに小さくみすぼらしくなったのに……。冗談だとは分かってるけど、そう感じてしまったが最後、笑顔を途切れさせてしまった。


「縁佳……?」

「ん、あぁ何でもない。鏡花って、ちゃんと覚えてるの?あの時のこと、具体的には、観覧車の中で自分が何をしたのか」

「覚えてるよ。……やっぱ覚えてないっ」


 鏡花は面映ゆそうに、口を両手で押さえつけた。


「今ならこんな感じで、冷静さを欠かずに楽しめたんだろうけど」

「そうなの……?」

「あの時は、色んな感情と腹積もりが混ざり合ってて。できる限り縁佳に近付きたいとか、思い出を作りたいとか、押せば意外と縁佳の気持ちも変わるんじゃないかって、虫のいいことも考えてたし。いつか離れてしまうのなら、今のうちにできる所まで行ってしまおうと、魔が差したりもした。まあ、全部杞憂だったのかもね」

「鏡花はもう、私に抱き着きたくないの?」

「縁佳の嫌がることを積極的にするのは、少し違うと思うようなお年頃になった」


 私だって、鏡花に会うにあたって何も脚本を組まなかったわけじゃない。けど、全ての想定に無意識に、鏡花が高校生の頃と同じように甘えてくることを組み込んでいたのだろう。都合よく私だけが変化するなんて、そんなはず無いのに。


 鏡花の変化に戸惑って何も言えずにいると、当の彼女は物静かになって、風を受け流しながら遠くの灯りを見つめていた。時折、この視線が気になって、こちらに顔を向けてきて、天衣無縫に笑う。その度に、まだ何も成し遂げてないのに、私は安心感を覚える。


 だけど、裏返せば鏡花は私のことを、前ほど好きじゃないって、そういう不安が喉をすぼめて、言いたいことを言えなくする。ただでさえ脆弱な計画は、鏡花の大人に近付いた風格と、フラッシュバックする自分の積み重ねてきた罪で、いとも容易く破綻した。


 鏡花が最初に告白した時、それを受け入れてしまえば良かった。喧嘩した時も、いつもみたいに戻って来れば良かった。腐れ縁だと思って、同じ大学に通えば良かった。そうする選択肢を、罪をその場で償う方法を、私はその時々に思い付いてた。私の人生は、簡単にまとめてしまうなら、正しい選択肢を意図的に選ばないでみた結果だった。間違った人生を送ってきたのに、今になって救いを求めるなんて、間違ってた。


 言い出せないまま、時間だけが進んでいく。いくら自分が鏡花に似つかわしくない存在だと自認していても、諦めきれない、一発逆転を夢見たい、そう思う気持ちもあって、プレゼントは未だ手の内だし、何かを言い出そうと唇の隙間から空気が溢れては、それを吸い込んで、もう一度足掻こうとしてしまう。


 まあ、そんな悠長で贅沢な時間も、鏡花の一存であっけなく終わってしまうのであった。


「今日はこれ以上になく、楽しい一日だったよ。ありがとっ」

「そ、それは良かった……」

「縁佳も私のこと、少しは認めてくれたみたいだし」

「少しっ……じゃないっ、鏡花のことは、何から何まで、認めてるからっ」


 今頃、こんな言葉尻を訂正して、いったい何になるんだろう。


「それは嬉しい……。おあー、そろそろ帰ろうか。バスの時間、迫ってるでしょ?」


 私は頑なに首を縦に動かさなかった。けど、鏡花は私の抵抗など意に介さず踏み倒す。そんなところは健在だった。


「次は春休みかなー。いや、年末年始?今年は成人式があるもんねー」


 鏡花は私に期待なんかしてない。それを突き付けられた気になって、言えるかもしれないという自分に対する希望はようやく消え失せて、正真正銘心が折れた。私は最後に誇り高く笑顔に戻って、鏡花が余計に勘繰れないように気を付けながら、展望台を後にした。



 縁佳が夜の光の中へ溶け込んでいく。私は当然のことのように、その背中を見送った。別に、バスターミナルまで送って行っても構わなかったんだけど、疲れたでしょ?と、やけに気を遣われて、タワーの前で解散となった。


 まあ、これだけ大量の思い出を貰ったんだから、これ以上を求めても仕方ないか。そんな今日一日の綺羅星のような記憶たちを握りしめて、私も帰路に就こうとしたその時、スマホが震えだした。永田からの電話だ。一体、こんな夜に何の用だろうか。


「おーい、鏡花ちゃんー?」

「はいはい、どうした、寧々子」

「あ、サークルのことを話そうと思ったんだけど……。今はまだ外かな?」

「うん。まだ大阪にいる。これから帰るけど」

「あら、何を食べに大阪へ?」

「いや、縁佳がこっちに来てくれたから、デート?的な何かをした」

「そう言えば、今日だったんだ。てことは、まだこの間話してた場所にいるの?」

「そうだねー」


 永田から妙な間が送られてくる。何をもったいぶってるんだ。


「え、何、電車止まってる?」

「さあ。それは知らない」

「んじゃー何を言いたいのさー」

「えぇー、それはー」

「それはー?」

「そっ、そんなの、決まってるじゃん。よっすーとは、上手くいったのかなぁーって……」

「上手く……いったんじゃない。楽しかったし」

「えっ」

「え?」


 電話越しだろうと私には分かる、心の底から困惑された。


「関係性を進展させるようなお言葉とか、そういうのは……?」

「あぁー、それは、その」

「鏡花ちゃんっ」

「はいっ」

「よっすーはさ、期待してたんだと思うよ。だってそんな、見るからにカップルで行くような場所に、自分から誘ったんだから、よっすーが、あのよっすーがだよっ」

「だ、だってさぁ……。冷静に考えてみると、私って空回りしすぎなんだよ。だから少しは、縁佳のためにも大人しくしなきゃなーって……」

「鏡花ちゃんの、恐れを知ってるのに蹶然と突っ込んでくるところ、そういう勇気がきっと、よっすーには必要なんだよっ」


 普段の、気まぐれでぼんやりとした雰囲気はなく、そこには私の背中を押すという明確な目標が伴っていた。永田なりに必死で訴えているのである。私はと胸を突かれた。何よりも大切な、闘志のような、懸想のような、確執のような、永田が評価するような勇気のような想いが蘇るようにたぎってくる。そして、縁佳と過ごした時間を、ただ出来事をなぞるのではなく、その時の感情と高揚と共に思い起こした。


 私はなんて馬鹿なんだ、こんなにあからさまに近付いてくれたのに。言い訳をするなら、大学生になってから縁佳と接する時間が格段に減って、感性が鈍ってしまったのだろう。高三の頃に、明世が悩んでいるところをつついた時、同時に自分事として色んな心配をした。どうやって自分の気持ちを伝えようかとか、縁佳が新しい幸せを掴み取ってしまうんじゃないかとか。でも、自分が縁佳に対していだく感情までもが変わってしまうとは、微塵も想像しなかった。


 縁佳は縁佳で、私が思っていたように追い詰められて、私に縋り付くしかなくて、でもそれに失敗して逃げるしかなくて。これは、縁佳にとっても私にとっても、無難に最後にして最大のチャンスなのだろう。


「ねぇ、今から追いかけたら、何とか取り戻せるかなぁっ」

「そうだよ、私と話してる場合じゃないよっ。はい、切るね、また明日!」


 再び顔を上げて、目が眩みそうになるほど煌びやかな街並みを直視する。見送った背中は、そこで細い路地へと曲がっていった。縁佳だって深く傷付いてるだろうし、まっすぐ家に帰る気にもなれなくて、人混みも避けたいから、裏道を使って遠回りしている。……こんなに鈍感な今の私の読みを信じるのには、いささか不安が残るけど、そう信じるしかない。縁佳とは違う方角に、周りを驚かすように駆け出して、先回りすることにした。


 やっぱり、縁佳の手を取るのは、他の誰でもなく私だ。私だけが、縁佳を救ってあげられるし、生きる意味を提供してあげられる。だから、私も同じ船に乗ってやる。一緒に浮き上がれるか、溺れ死ぬか、最初から最後まで二つに一つだ。



 八月の下旬だというのに、真冬のような全身の震えが、未だに止まる所を知らない。きっと唇は紫色に変色して、顔面蒼白で猫背でふらついてて、……ダメだダメだ、今の自分を客観視するなんて、自殺行為だ。


 でも、今回ばかりは自分を正当化できない。鏡花に好きだって伝えたくて、それで遥々ここまでやって来たのに、何も言い出せなかった。一人で自分の生きる場所を踏み固めるのは限界だから、鏡花にだけでも自分を認めてほしくて、鏡花に負けないぐらい強く願ったはずなのに、無理だと悟って逃げ出した。


 私は変われたと思い上がっていた。でも本当は、全然変われてなかった。自分の本心を、自分の口で言えなきゃ変われない。それを履き違えていた。変われるなんて勘違いをするんじゃなかった。あの展望台で、終業時間まで粘ったとしても、どうせ言い出せてなかっただろう。それどころか今後、一生涯鏡花と交流を保ったとしても、言えずじまいだと思う。鏡花が感じていたじれったさを、今度は私が背負うことになるのかなぁ。


 表の通りをこんな顔で歩けるはずも無く、裏道に入ってどんどん深淵へと進む。もういっそ、迷ってしまってもいい。そう思ったのも束の間、誰もいないことが分かると、急に涙がこみ上げてきて、先に進む気力もなくなる。気が付くと、腕で顔を隠すように電柱に寄り掛かって、帰りのバスの時間も忘れて立ち止まっていた。


 涙がやけに美しく、真珠のように輝きを放ちながら地面に落ちていく。これから一生、哀れなままの人間には光など不要なのだろう。体から希望が放り出されてるような気がした。こんなに希望に満ちていたのに、使わずにアスファルトの割れ目の雑草の養分になるぐらいなら、せめて鏡花に託しておきたかった……。


「縁佳っ」


 そんな事があってほしくて、奇跡があってほしくて、私はその声に反応して顔を上げていた。たとえ他の全てが霞んでる人生でも、絶対に彼女だけは見失えないんだろう。ようやく元の人格に戻る決意がみなぎってきた。穴だらけの自分は、この人に埋めてもらえる、だから大丈夫。そんな冷静なことが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。それで十分だった。


 多大な感情を処理するのに忙しくて、電柱の傍から一歩も進めないどころか、後退しようとして足が絡まって、再び電柱に手を付くような私に向かって、鏡花は容赦なく近付いてきて目の前で止まった。全身の病的な震えは止まらない。けどそれは、真冬のような鋭く刺してくるものではなく、私が一度として味わったことのない高揚感から来るものだった。


「泣き顔、……とてもかわいい」


 すぐそこに佇む鏡花の顔は、陰になっても分かるほど、そんな事を呟いてしまうほど、どこか綻んでいた。正直で欲を包み隠せなくて、でもそれこそが鏡花らしさで、私に足りない部分で、私が好きな鏡花だった。


「鏡花。いいかな……」


 鏡花が頷くのを待たずに、一旦目を逸らしてから、もう一度鏡花の視線に合わせて、それから震い付いた。


 太陽を抱きかかえてるかのような灼熱の塊、そう思うくらい、私にとっては暖かすぎて火傷しそうだった。だけどもう、これから逃げも隠れもしない。鏡花が与えてくれた最後の機会を、私はきちんと抱きしめる。私は決めたんだ、鏡花の好意にもたれ掛かるんだって。


「鏡花、鏡花……!」

「うん。ここに居るから。落ち着いて」

「いろいろ謝らなきゃなのにっ。悪かった、私は未熟だった、鏡花をたくさん傷付けてしまった。今になってようやく気付いた。それなのに今さら泣き縋って……。自分勝手だって分かってるけど、でも、やっと一つだけ好きなものを見つけられたのっ。だから、こんな私でも受け入れてくれますかっ?」

「野暮なことを聞くようになったね。どうしてほしいの」

「どうしてほしいって、そんなの、助けてほしいだけで……、転んだぐらいじゃ泣かないと思ってた。だけど、無理だよ、いざ挫折してみたら分かった。一人じゃ立ち直れないよ……」


 息が詰まりそうになる、というか実際詰まってた。だからこそ、最後の最後までそびえ立つプライドを打破できた。


「お願いします、代わりに鏡花の全部を受け入れるからっ!だから、だから……」

「少し意地悪だった。はい」


 鏡花の腕が私の体を締め付ける。ご褒美のように、暴力的な慈しみが注ぎ込まれる。まだ、もどかしさとぎこちなさは残るけど、着実にどうでも良くなりつつある。鏡花に触れられて、自分の殻を打ち破れて、自他の境界が曖昧になって、脳の正気を司る部分が麻痺して、蒸し暑さも相まって完全に酔いしれている。


「大丈夫かな……?」

「鏡花のしたいようにして平気だから。全部を受け入れる覚悟で来てるからっ」

「ありがとう。……あの、わっ私も、謝りたいことがあって、えっと」

「鏡花は何も謝らなくていい。ずっと待っててくれた、それだけで、私がどれだけ救われたことか」

「いや、だって私は縁佳を試したんだよ?しかも、ずっと待ってるはずだったのに、この好きって感情を、少しだけ忘れかけてしまう瞬間があって……」

「そ、そうなの……?」

「こんなに誑かしといてさ、そんなのってあり得ないよねっ……」


 この温もりが、波打つ鼓動が、寛大さが、全て嘘なのだとしたら、……考えただけで嗚咽が止まらなくなる。もしそうなら、死ぬまでより大きな苦痛に身を投じ続ける。そうなる気がする。どうせ一人では立ち直れないのだから、少しでも可能性のあるほうに賭けたに過ぎないけど、それでも私は、鏡花は期待を裏切らないって、期待したことないのに疑わなかった。


 鏡花だって最初から迷ってたわけじゃない。私が破綻するまで身の振り方を変えないでいたから、ここまで時間が掛かり過ぎたから、ただの自業自得ならいいものの、鏡花を巻き込んで盛大に挫折した。


 私はとんでもない過ちを犯したんだ。だとして、一歩でも引き下がる理由もなかった。鏡花の中に私を拒否する選択肢が生まれたのだから、それを選べばいい。私は、私のためにもう自分から鏡花を離したりしない。爪先が痛むのも気にせず、背伸びして彼女に寄り掛かった。


「鏡花、鏡花っ、どうして、どうして……」

「ごめんなさい……」

「どうしてそんなことを言うの?」

「だって、まるで縁佳が悪者みたいだから。私は、私を拒絶する縁佳が間違ってるって思いたくない」

「そうじゃ、なくて。そんなのどうでもいいでしょ。忘れるまで、心に秘めておけばいい」

「何度も何度も、どうするのが正解なのか分からなくなった。全部、本当に本気で悩んでたんだからっ。ちゃんと言わなきゃって……」

「鏡花は正直すぎるんだよ」

「それも、長所って言い張るんでしょ」

「そうだよ、全部愛しいよ、鏡花っ」


 鏡花が思いの丈を一から十まで伝えてくれたから、私は鏡花に対して真剣に向き合おうという気になれた。鏡花が正直な人間じゃなかったら、自分の弱みを全てさらけ出すほどの信頼を寄せることは叶わなかっただろう、と残された思考力で、全力で想うのだった。


「鏡花が今この瞬間にどう思ってるか。それだけだからっ」

「そっか。……じゃあ、お言葉に甘えて、もう少しだけ」


 少しずつ鏡花の体温とリズムに慣れてきて、鏡花のことを詳らかに、正確に感じられるようになってきた。華奢ながら見かけ以上に柔らかくて存在感があって、すっかり垢抜けて変貌を遂げた鏡花だけど、ここまで距離を詰めた者の特権のように、どこか落ち着く変わらないにおいがあって、初めて好きになれたものが、鏡花で本当に良かったと思って、その運命か何かにまた涙が溢れてきた。



 ——どのくらいの間こうしてたのだろう。とても長かったようで、誰も通り掛からなかったから、案外短かったのかもしれない。ともかく、二人分の温もりが混ざり合った結果、二倍以上の熱を生み出してて、それから解放されると、この溽暑に凍えるような思いさえする。まだまだ求めたくなる。けど、これからいくらでも確かめられるんだし、今のところは我慢することにした。


 眼前には縁佳の顔が広がっていた。それも、見たことがないほど繊弱で及び腰で、たじろいで自信なさげにして、燻ぶって拗らせて、でも、私が知っているいかなる縁佳よりも艶やかに思えた。


「縁佳、何をそんなに泣いてるの」


 縁佳の涙袋に手を伸ばして、震えたままの指で涙粒をさらった。そんなことをしたら、前の縁佳だったら不機嫌になって距離を置かれたけど、どんな決意をしたのやら、今の縁佳は一歩も引かずに、伏し目に正々堂々と照れようとするだけだった。そんな表情に、和らぎ始めた心臓がまた沸き立ちだした。


「こんな情けない顔が見たかったんでしょ。じゃあ、いいじゃん」

「うぐっ。……返す言葉もございません……」

「えぇ、何かないの?」

「だって私は、こうやって縁佳から弱い部分を見せてほしかったから。ずっと、それだけを追い求めてたんだから」

「なんか、お疲れさまでしたっていうか、長い間枕を低くし続けてすいませんというか……」

「そっちこそ、私のことをこんなに長い間意識し続けて、お互い様でしょ?」

「なのか、なぁ……」


 首を傾げて、歯切れも悪く、こっちに漫然と問い掛けるこの感じを、縁佳が仕向けてくるのは何だか新鮮だった。


「はっ、今何時っ!?」

「あっ、もしかして予約してたバスに間に合わない?」

「ギリギリだけど、たぶん大丈夫」

「そ、そうなんだ……」

「じゃあ、行こうか」


 縁佳は広告付きのポケットティッシュをカバンから取り出し、それで涙を拭いながら、バスターミナルの方角に向かって歩き始めた。あの頃とほとんど変わらない後ろ姿、それは一抹の安心感と引き換えに、危うさをもたらしていた。まあ、私が全部を包み込めば済む話か。大人になったような自惚れた感覚を胸のどこかに秘めて、縁佳の真横に降り立った。


 そんな感じで、あんな風に謝っておいて、私はすっかり縁佳に染め直されていた。縁佳との別れ際は、こう、いつも寂寥感に満ちている。どうにかこの時間を引き延ばしたくなる。そうか、もう踏みとどまる必要もないのか。


「縁佳っ!わ、私の部屋にっ、ととっと泊まってきませんか……?」

「え?」


 本気で吃驚してから、口角をへこませて困惑してみたり、一定の理解を示そうとしたりしてくる。変わらないのは後ろ姿だけで、表情や仕草はどこかたどたどしい。今日のデートで見せてくれた色んな新しい表情も、以前のように着飾るのを辞めようと、縁佳なりに努力した結果だとしたら……、あまりにも愛しい。過渡期は今しかないんだから、それはそれで大切にしなきゃ。


「それって、どういう意味だか分かってるの?」

「普通で普遍的な範囲の意味しかないけど何かっ」

「鏡花の常識がどうズレてても構わないけど、明日、2限から出席取るタイプの必修なんだよねぇ……」

「あっ、そっそれならしょうがない……」

「まっ、どーでもいいっ!」

「どうでもよくはないよっ。大丈夫、留年しない??」

「いや、それでも、鏡花と話がしたい。もっと話さなきゃいけないことが沢山あったのに、昼間は適当な雑談しかできなかったから……」

「そんなに?」

「私ってさ、人に相談したり誰かを頼ったり、そういうのが苦手で」

「それは知ってる」


 即答したら、下手な相槌を打つなって、顔をしかめられた。周知の事実なのに、まるで本邦初公開のように語り出すほうが悪いのに。


「何とか誤魔化しながら生きてたけど、限界で。でも、鏡花になら打ち明けられるかもって」

「私なんかに、打ち明けられそうですか……?」

「うん。家に呼んだんだから、朝まで付き合ってよね」

「私はいいけどー、縁佳は朝まで起きられるのー?」

「がっ頑張るからっ」


 眩い摩天楼の影の中の裏路地を、縁佳と足を交互に出しながら、お互いの歩幅を意識し合いながら進んでいく。そして、まだ見ぬ距離感に戸惑った縁佳が、時々接点を見るために横を向いてくる。ふと、確からしい理由を、私も探求しなくちゃいけないのかなぁーとか思ったけど、これを理由にしてもいいのかもしれない。循環参照な気もするけど……。

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