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Step by Step  作者: Ehrenfest Chan
第9段:海棠、何見て眠る
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9-6

 篠突く雨が傘を叩いて、そんな音が至る所から波紋を広げて、都会の猥雑な雨模様を奏でる。目を瞑ってその音に耳を傾ける。自分が現実世界から遠ざかっていくような、既知の感覚で表現するなら、浮遊感に対応するような感じを覚えた。そして瞼の裏に、この交差点を俯瞰する映像が流れる。信号待ちをしている傘は色とりどりなはずだけど、この曇天と夢による補正で、いたくくすんで見える。


「平島さん?おはよー」


 はっ、立ったまま寝るところだった。信号から流れる小鳥の囀りが、目覚まし時計のように脳内に鳴り響いて揺さぶってくる。そして隣には、同じ学科の友人がいた。頭は回ってないし体も休養を求めてるけど、目だけは冴え渡っていた。


「おはよー」

「朝から雨って憂鬱だねぇー」

「そうだねぇー」

「あら、平島さんにしては珍しく睡眠不足?」

「そうなんだよ」

「仕方ない。私たちぐらいの年齢の若者って、夜型になりやすいらしいから。なのに必修を一限に入れるなんて、許せないよね!」

「忙しかっただけだよ。早起きは得意なほうだけど、寝たのが夜中の二時とかだと、さすがに体に堪えるね」

「やば、丑三つ時じゃんー。あれ、学祭の実行委員なんだっけ」

「その集まりの後にバイトだったから、とんでもなく帰りが遅くなってしまった」

「たーいへんだねぇー」


 そう相槌を打ちながら、友人は水たまりを軽く飛び跳ねながら迂回した。寝不足で認知能力も体も訛ってる私は、そのまま水たまりに突っ込んでいた。足先がぐじゅぐじゅとした感触に包まれる。まあ、雪に比べたら冷たくも何ともないので、どうでもいい。


「ところでミクロ経済学のレポート問題、解けたー?」

「あぁ、明日までのやつね。もう出した、今日も学祭の準備があるから、多分やってる時間がない」

「偉いー。え、ちょっと見せてくれない?」

「いいけど、あんまり合ってる自信ないよ?」

「いいっていいって、落単する時は一緒だよ」

「来年も一限出るの嫌だな……。やっぱり、もう一回見直そうかな……」


 私も、誰かを利用して楽にレポートを済ませられたら、もう少し余裕が生まれるのかも、なんて考えがふと頭をよぎった。自縄自縛にあえぐ私を嘲笑いながら、よぎってどっかいった。


 なんてことのない授業を2コマ受けて、それから学食で共にかき揚げうどんを食べて、この友人とは別れる。それで私は、学祭実行委員の集まりが行われる教室へ向かった。


 大学生になって、早くも半年が経過したけど、それでもキャンパス内には、まだまだ知らない建物が林立している。滑るかもしれないのに、あえて濡れた落ち葉を踏みしめながら、未知の領域へと歩を進めた。こんな風に、私の足取りがこんなに重いのは、まあ、昨日ひと悶着あったのである。


 日本有数の名門大学ともなると、日本中から脂ののった人が集まってくる。だから当然、この中で自分の力で頭角を現せるのはほんの一握りで、残りの大多数の凡人たちは、少ない知恵を絞って狡い手を使い古して、上手く他人を利用して、そうやって辛うじて大学生活を切り抜けていく。


そもそも大学に限らず社会とはそういう場所で、そして私が、後者の域をどうやっても抜け出せないことは、完璧に冷静に客観的に理解していた。けれど、私は前者を目指すしかなかった。集団の中で輝くことでしか、自分の価値を認められないんだから。


 そんなわけで、私は学祭実行委員会で、高校生の頃のように過剰に取り仕切ろうとしてしまった。そうしたら顰蹙が溜まっていって、それが昨日爆発したのである。会議そっちのけで、学部も違う見知らぬ人気者と言い争った。まあ、高校という生ぬるい閉じた空間で、埳井之鼃を謳歌していた私に勝ち目などなく、趨勢は向こうに同情し、自分でも言い負かされたという感覚を持ち帰ることになってしまった。


 傷付いた外殻を修理するのに一晩じゃ足りるはずもなく、そして静かに蓄積されていた、今までのように思い通りに事が運ばない、悶々として行き詰まりに王手をかけている大学生活に対する不満が噴出して、私はすっかり悄然としていた。どうせ報われないのなら、誰も私を評価しないのなら、全てを投げ出してしまってもいいのではないか。その考えは、無責任な救いだった。最後まで面倒を見てくれるわけ無いのに、私はそれを脳内に、大切そうに滞留させていた。


私のことを擁護した人間もいるけど、そういうのは大抵、人気者に嫉妬する者たちで、直接対抗する勇気もないから、私を祀り上げて代わりに戦ってもらおうとしているのである。利用する側じゃなくて、利用される側に回るなんて、そんな奴らとなんて手を組めるものか。震える体に無理を言って、今日の集まりが行われる教室の前まで来たけど、思考が進めば進むほど参加する理由を見失って、ついに私はそのまま踵を返した。


知り合いとすれ違う度に、戻ろうと決心が揺曳する。でも、こんな所に居たって、自分の為にはならない。私は誰かの下に就きたくない。特別扱いしてくれない場所に用はない。そうだよ、学科が違うんだから、実行委員という繋がりがなければ、どうせこの知り合いと関わることもないじゃん。どれだけ脳が常識を参照しても、足は体は戻ることを拒否していて、立ち止まらずに建物の外に出ていた。傘を差して横殴りの雨に立ち向かった時、ようやく躊躇いが洗い流された。



 大学という組織は、誰かが物にするにはあまりにも大きすぎる。それは私にとって不都合極まりないのだが、代わりにただの特定個人がどうなろうと、誰も気にしないというメリットもあった。学科の友人は、目の前の人間が学祭の実行委員に、無断で参加しなくなるような無責任な人間だなんて知ることは無い。ここでは、友達だって一側面の四分の一ぐらいしか見ないのである。そもそも、表層的で均質的な紋切り型のコミュニケーションしかしないので、知ったところで見る目が変わったり、もう一つの選択肢を勧められたりということも起こらないわけで。何度でもやり直せるけど、壁は高い、それが大学というコミュニティなのだろうな。


 だけど、大学がどんな場所であれ、自ら志願した責務から逃げたという事実から、自分だけは逃れられない。しかもそれを縄にして、わざわざ自分を縛り付けるのに使ってしまう。何かしたいのに何もできない。いや、私はこの程度の人間なんだから、一介の馬車馬でしかないんだから。下手に出っ込んで、利用されるだけ利用されて捨てられるよりは、何もしないほうが自分を守れるってだけのことだった。


 つまり、すっかり打ちひしがれた私は、出席が必須な授業と三つのバイト先を順繰りするだけの、特に面白みのない苦学生となっていた。その分、バイトに精が出たので、手元にお金が残るようになったけど、結局使い道がない。自分の将来を先取りしているような気がした。自立したいって抗ってる時が、学費補助なんかを探してる時が、一番楽しかったのかもしれない。


 今日はバイトを早く上がれてしまった。コンビニで弁当と朝に食べるためのパンを買って、可及的速やかに自宅に帰る。まあ、誰かを待たせてるわけでも、よほどお腹が空いてるわけでもなく、ただの気まぐれで急いでいる。


 そして、玄関から自分の部屋を見渡して、毎度まるで人が住んでいないような寂寞に直面して、急いだことを後悔する。実家で暮らしてた時だって、帰ってきても誰かが出迎えてくれるわけでも無かったのに、大学生になってから、なぜか一層孤独が沁み渡る。外とのギャップなら、昔のほうが大きかったのに。


 荷物をその辺に転がして、立ってる内にエアコンの電源を入れてしまおうと、机の上のリモコンをさらって本体の方向に掲げたところで、このくらいの温度なら付けなくてもいっかと腕を下ろす。無駄なことをすると、時間を潰せた気がして、三文程度の善行のようにすら思えてくる。


 割り箸を付けてもらうのを忘れていたので、新生活を始める前に買っておいて以来、全く使ってなかった箸を、棚から取り出しに行く。自炊とか、入学前はしようと考えてたけど、今となっては、無気力に押し負けるようになってからは、時間がないという言い訳すら辞めて、ただただめんどくさいの一心でやってない。高校生の頃のように、弁当にして披露できるわけでもないし、趣味として楽しめるような人間性も持ち合わせてないし、当然の帰結だった。


 ふと、唯一の棚の頂上に居座り続ける、丁寧に装飾された箱が目に入る。まあ、この部屋にいると否応なしにいつでも目に入る。中には割れたマグカップが入っている。この手の贈り物をする人と言えば、鏡花しかいない。彼女が冬休み直前にくれたものだった。ジブリのキャラクターが印刷されてて、誰と買いに行ったか自明なのが微笑ましい。


 くれたと言っても、当時はすでに仲違いしてたので、直接渡されたわけじゃない。あの日、教室に誰も居なくなった時間を狙って、鏡花はこれを私の机の上に置いといた。通り掛かった時にすぐ気が付き、用事の途中だったけど一旦はそれを手に取った。でも、鏡花の字で私宛の手紙が添えられてて、それがどうしてもおぞましくて、封を開くことができなかった。これは鏡花の好意の塊で、それを受け取るということは、彼女を受け入れるということに他ならない気がして、靴の裏を擦るようにしながらも、尻尾を巻いて一度は逃げた。


 だけど、優柔不断な私は、用事を終えるや否や教室に戻ってきてしまった。鏡花が諦めて回収してくれるとは考えにくいし、かと言ってこのまま放置しても、休み明けに登校した時にまた向き合わないといけなくなるし、手紙の中身はともかく、回収はしないといけない事情もあった。


 持ち上げると、さっきは感じられなかった、カラカラという物が動く感触がした。それで、あくまでも事実確認と自分に言い聞かせて箱の中身を探ると、そこには砕け散ったマグカップがあったのである。私がいない間に、掃除のためか机が移動されていたのだけど、その過程で誰かが落としたのだろう。


 どうせまともに受け取るつもりなんて無かったのに、私は動転していた。冷たい血が全身を隈なく巡り、意識がはっきりしたまま歪んでいく。時間を巻き戻せない代わりに、せめて時間が止まったかのように、つま先を揃えて直立不動で、自分の机の前に棒立ちしていた。人からのプレゼントを粗雑に扱うべきではないという価値観で、その焦燥を説明しようと、脳内では様々な理論が飛び交っていた。


 思い出も思い入れもないけど、私の部屋は物が少なくて寂しいから、寂寥感を多少なりとも払拭するために、新潟から持ってきたのであった。多分、後ろめたさもあったんだと思う。普通に使って、普通に落としちゃったなら、きっとこうはならなかった、そのはずなんだ。


 机に戻って箸を弁当に差し込んだ途端、机の上に置いたスマホが、普段とは違う震え方をする。電話を掛けるほどの用件とは、バイト中にとんでも無いやらかしでもしたのかなぁ。


「あ、がすよー、久しぶりーっ」

「あぁ、久しぶりー」

「あれ、元気ないねー」

「突然すぎてびっくりしてるだけ。一体何を考えてるの?」

「逆に、何を考えていてほしいの?ちなみに私は、二日目のカレーを何とかアレンジできないかを考えておりますー」

「男女の友情は成立するかとか、そういう大学生の気持ち悪い部分を煮詰めたようなこと」

「成立するんじゃない?そんなこと真面目に考えたことないから、憶測だけど」

「いや、モロックマの持論はどうでもいいんだよ。なんでわざわざ電話してくるのさ」

「別に、私とがすよは絶交したわけじゃないんだし、たまには旧交を温めるのも良いではないかー」

「はぁ。ただ話してみたくなっただけ?それとも、今度食事に行こうとかそういうの?正直、バイトが詰まってて、あんまり暇じゃないとだけ言っとく」


 無意識のうちに舌が回って言葉を連ねて、誘われてもないのに断っていた。長らく関わってなくて、しかもその原因が、一方的で理不尽で私のみっともない性格によるものだったから、通話でさえとても気まずいのである。それに、今の自分には張れる見栄がないし、こうやって暗く乾ききった “広い” 部屋で、いつも感傷的になってるなんて、その一端をも悟らせない自信がないから、時間を作る努力すら放棄していた。


「もっと、派手で絢爛で、がすよでも思わず首を縦に振ってしまうことだよ」

「競馬とか?」

「えぇ?馬券購入は二十歳になってからですよ?」

「冗談冗談。そもそも、お金が増えたところで、何に使うんだって話よ」

「なんで当たる前提なんだ……。じゃなくてっ、いいですか、よく聞いてくださいね、一回しか言いませんからねっ」

「おやすみー」

「よし、寝たな。えっと、春休み辺りに、仲良かった人を集めて同窓会をしようって話になってね、そのお誘いです」

「へぇー、そうなんだー」

「んーー、あんまり乗り気じゃなさそうねー。文面だけで誘ってたら、絶対断ってたよなぁ。電話して正解だったかも」


 明世はいつも見抜いてくる。私に配慮してるだけで、それとなく気付いてることを仄めかす。その度にどきっとさせられる。数年ぶりにこんな刺激を味わった。


「でもさー、やっぱりがすよが居ないと始まらないじゃん?」

「始まらないって何?」

「勘が鈍ってるなぁ。幹事任せたって意味だよぉー」

「は、なんで?」


 思わずしかめ面をしてしまった。大学ではいつでもにこやかにしてるので、久しぶりに本心を顔に出せたような気がする。誰が見てるわけでも無いから、まっいっか。


「だって、散り散りになった皆の予定を合わせて、場所も確保して、同窓会をやりたいって誰もが口では言うけど、そんな面倒を率先してできるのって、がすよしか居ないでしょ?」

「いや、あのねぇ……」

「我ながら英断だったと思うんだけど」

「だからっ、別にもう仲良くないんだから、辞めてよ、巻き込まないでよっ」

「意固地ながすよなんて、しまちゃんしか喜ばないから勘弁してよー。それとも、しまちゃんを喜ばせたいの?」

「はー、なんで鏡花の話をするの、嫌がらせなの?」

「まあ確かに、利用しようとしたみたいに見えるかもしれないけど。もう一度仲良くしたいって気持ちは本当だから。がすよのことを気にしてるのは、一人だけじゃないんだよ」


 そんな甘くて巧みなことを言われたら、いくら私だって返す言葉に詰まってしまう。だけど、ここで下手に沈黙を挟んだら、明世にしてやられたみたいで、この机ごとひっくり返してしまうかもしれない。そうなったら後片付けが面倒なので、文字通り二つ返事をお見舞いして切り抜けることにした。


「はいはい、分かったよっ。でも、誰か変なこと言ったら、あんたら諸共ブロックするからね」

「Yesということで、よろしいですか?それじゃ、頼んだよ。楽しみにしてるからー」


 そう言えば箸を麺に突き刺したままだった。さっさと食べてしまおう。どうするのかは、食べ終わってから考えよう。


 人間は無音というものがあまり得意ではないようで、頭の中では常に何かが再生されている。今は明世の声が繰り返し流れていた。彼女の声も言葉選びも、電話越しには高校時代から変わってないように思えて、それに対して不覚にも安心感を得てしまった。


 まあ、変わらないことを評価してるだけならまだ健全だけど、私はかつての栄光の日々も想起していた。皆の中心にいて、頼られて慕ってくれて、それを取り戻せるなら、大学生活に心を折られた今の自分は、仲直りだって謝罪だって何だってする。だからこれは僥倖だった、本当は、嬉々として承ったのであった。


 大学という置かれた場所が悪かったと開き直り、自分の肥大化したプライドのことを、決して疑わず反省しない。それが悪いことだとは分かってる。だけど、これを失ってしまったら私には何も残らない。自己を正当化し他責思考に陥らせるような、悪循環のポンプとなったとしても、私はこの性格を守り続けなければならない。生きるためには、常にこの事に悩み続けなければならない。



 結局、明世から連絡を貰ったその日の内に、呼ぼうと思った人全員に連絡を飛ばした。でもまあ、予定を決めるのは早いに越したことはないし。それにほら、寝る前の暇潰しにちょうど良かったのである。しかも、私が動いたらとんとん拍子に事が進んだ。まるで高校生の頃に戻ったようだった。楽しみだなぁと思う感情自体が、そもそも稀だけど、それに加えて今回はとにかく懐かしかった。


 同窓会は故郷である新潟市で行うことにした。春休みということもあって、実家に帰ってる人が多かったから都合が良かった。まあ、私にとってはただの旅行である。親とは家を出てから一度も連絡を取ってないし、今回も実家に足を踏み入れるつもりはない。


 そんな私の家庭事情はさておき、新幹線から降り立ち、約一年ぶりに新潟の地に足を着ける。駅の中を歩きながら、前の時との相違点を探していた。でもよく考えたら、あまり新潟駅を利用したことがなかったので、そういう事をする資格がなかった。全部新鮮な光景として処理された。


 先に来てる面々は、わざわざ新幹線の改札前までやって来ていた。それはありがたいのだけど、心の準備が間に合ってない。人前で緊張する経験がないから、どうやって緊張を緩和すればいいのか分からない。一旦その場で立ち止まって一考しようにも、同じ新幹線から降りたであろうサラリーマンなどが、一目散に改札の外へ向かっていくので、それに押し流される形で一行の前に姿をさらけ出した。


「あ、よっすーっ、……なんて言えばいいんだ?」

「おかえりじゃない?」

「今もここに住んでる者のみ、それを言う権利があるんじゃない……?」

「あれ、しの先輩も?」

「ばりばり東京だねぇ」

「皆は鑓水を何もわかってない。鑓水はね、わたしたちの元に戻ってきてくれたよっすーを、歓迎しようって言ってくれてるんだよ」

「はぁっ、お前野暮なこと言うなよ、この木偶の坊がぁーっ。これ以上口を滑らせたら回し蹴るからな、覚悟しろ」

「回し蹴れるほど体、柔らかくないでしょ……いっつぁっ!?」


 鑓水は安栗の腹を普通に拳で突いた。変わらない友情ほど、乾いた私の心を満たすものはない。


「えーっと、本日はお集まりいただきありがとうございました。そして、あの、ごめんなさいっ」


 自然と頭が下がった。私はこの人たちに許されたい。それは自分のためでしかない。新天地で上手くいかなかったからって、旧友で代替しようとしてるだけだ。でも、明世はそれくらい見抜いてると思う。その上で私を幹事にしたのだと思う。


「全くぅ、水臭いなぁー」

「いや、常葉先輩は関係ないですよね」


 露崎が率先してつっこんで、それを呼び水にして、乾杯するかのようにお互いの顔を見交わして、それで何となく解決したような空気が共有された。


「それじゃ、行きますかー」

「うん。……えー、皆さん?」


 まだ言い残したことがあるのか、私ではなく明世に反旗を翻したいのか、誰も動こうとしなくて思わず首を捻ってしまった。


「わたし、道知らないっす、よっすーが頼りなんす」

「え、地図送ったよね?」

「あんなの見るわけないのー」

「えぇ、全員?」


 こんな箇所で私に主導権を与えなくていいから……。少々やきもきしながらも、私は集団の先頭に収まっていた。


 それで、歩き始めると、示し合わせたように空席だった私の隣に、鏡花が寄ってきていた。待ち合わせていた時は常葉にぴったりくっ付いていたので、怒って拗ねてるかもしれないって思ったが、案外さっぱりとした態度をしている。


「よすがぁー?」

「ん、あぁー、えとー、私が悪かったというか、何というか……」

「ようやくブロックを解除してくれたねー」

「え?あぁ、だって連絡がいかないと困るし」

「てことは、この会が終わったら、またブロックするの?」

「はっ、しないしない。卒業したんだし、もう恨みっこ無しってことにしようかなぁって思ったり……」

「やったー。これからもよろしくねっ、縁佳っ」

「う、うん……」


 鏡花は二年に渡る絶縁期間を物ともせず、飾り気も偽りもなく、彼女らしい透明感が残る表情で笑った。暖かな風が吹き荒れたようで、とにかくひたすらに心地よかった。あるいは、鏡花が知らない間に風を操る能力を会得していて、本当に風が吹いたのかもしれない。


吸い込まれそうになって、なるようになれと希望を芽吹かせる反面、その笑顔にどんな意図が含まれているのか、勘繰らずにはいられなかった。私のことがもうどうでも良くなったのか、仲直りできたことが嬉しくて、正直な感情が顔に現れているだけなのか。私は、あの時の自分が愚かで幼かったと、共感も残るけど、反省だってしてる。だからこそ、鏡花にだけは批判されても仕方ないと思っていて、そんな風に明るく振る舞われると困惑してしまう。


 鏡花にとってこの空白の期間は何なのだろう。過熱しすぎた感情を冷まして距離感をリセットするための期間……として、私は利用した気がする。鏡花はどうしていたのだろう。鏡花について知らないことがあると、相変わらずそわそわしてしまう。聞きたいことで脳内が溢れている。


「鏡花、だいぶ雰囲気変わったね」

「そう?虫唾が走る?」

「何でよ。大人っぽくて似合ってるよ」

「まー、服に関しては、常葉お姉ちゃんの着せ替え人形にされただけなんだけど……」

「せっかくよっすーさんに会うんだからぁ、ちゃんとおめかししないとねぇー」


 背後から常葉が首を突っ込んできた。鏡花は私とは逆を向いて、もにょもにょ口を空振らせてから言い訳した。


「別に、縁佳のためじゃないし」

「でもぉ、出発する前日に、わざわざ髪を染め直してたじゃないぃー」

「そうなんだ」

「あっ、えっと、……どうですか?」


 鏡花は私と後ろの常葉に交互に視線を送りながら、か細い声で尋ねてきた。せっかく蒸栗色で明るい印象を持たせてるのに、当の本人の自信の足りなさで打ち消されている。


「だから、似合ってるって。髪を結んでるのも新鮮でいいね」

「これは……その、私って事あるごとに、髪を引っ張る癖があるから、それを辞めようと思って、物理的に対策しただけで……」


 そう説明してる今も目線を下に落とすと、何かを握りたそうに指がうごめいていた。鏡花が不安を覚えてるサインとして有用だったのだけど、少し物寂しい気がする。まあ、鏡花が着実に成長してるってことで、本心とは裏腹に歓迎しておいた。


 鏡花の表面的な代わり映えを褒めちぎっていたら、焼肉屋に着いた。もっとお洒落な店でもいいかと思ったけど、鏡花は食べ放題のほうが喜ぶだろうし、そう、鏡花が喜ぶという点が、どこか優先されていた。まあ、永田以外は全員異議なしだったので大丈夫だろう。永田は……もっとまともな物を食べて生きてくれー。


 で、特に相談が巻き起こることもなく、永田・常葉・露崎・私・鏡花の卓と、篠瀬・黎夢・明世・安栗・鑓水の卓に分かれていた。


「はい、焼けたよ、鏡花ちゃん」

「ども」


 露崎が腕を伸ばして、鏡花の取り皿に肉を乗せる。その肉は瞬く間に吸い込まれていく。さすがの食欲に、もはや安らぎを覚える。数年前の、私と鏡花の関係が一番良好だった時を思い起こして、今も上手くいってるような錯覚に陥る。ある意味で、同窓会を最も楽しめているのかもしれない。


「はい、ねこー、食べてー」

「アイスを全味コンプリートしたから、もう満目満腹満足」

「はぁー、こっちも変わってないのか……」

「変わらないことは、良いことだよ」

「ねこに関しては改めなさい」


 ぶれない偏食ぶりを静かに笑っていると、露崎はその肉を掴んだトングをこっち側に向けてきた。露崎と目が合う。反応に困る。目を細めてみたり、堂々と鼻を高くしてみたり、口角を上げてみたり、色々模索してみた。


「ご、ごめんね……。生徒会長の一件、まだ気にしてるかな……?」

「いや、もうどうでもいい。気にしたくないから、この会に参加したわけだし」

「そっか。はい、どうぞ」

「どうも頂きます。こちらこそ、悪かった」


 露崎はふてくされたように謝る私を、何まじめになってんの、と言わんばかりに微笑み返してきた。高校生から引きずった負債を、一部だけど返済できた気になって、食欲が微増したので更に一枚、鉄板から持ってくると、鏡花がくすんだ流し目で、こちらをせせら笑っていた。……そんなに悪い顔でもなかったかもしれない。


「まあ、私が仕組んだんだけどっ」

「露崎と結託して、鏡花は何がしたかったの?」

「分からない?ただ、縁佳に好きになってもらいたかっただけだよ。縁佳を支える完璧な自分が崩れたら、私への見方も変わるだろうって、そういう希望的観測」

「私が、それを裏切ったってこと」

「私は縁佳のことを悪く言いたくないんだよ。だから、ここに居る以上、期待を裏切ったとは言わない。遅かったなーとは思うけど。一緒に卒業して、一緒に入学したかったなっ」


 鏡花は私からの反応を待たず、贅沢に肉を二枚同時に頬張って、恍惚とした表情で飲み込んだ。


「鏡花ったら、照れちゃってぇー」

「て、照れてないしっ、揶揄ってこないで、大事な話だからっ」

「それは二人だけでやってもらってぇー。もっと楽しい話しよぉー」


 鏡花が常葉を睨み付ける。本物の姉妹のように見えてきた。いつかは姉の元を巣立っていくのだろうな。今はその過渡期……まあ、一人っ子だから適当な感想を喋ってるだけなんだけど。


「まあまあ、隣の机は惚気合戦だから、そんな目くじら立てなくてもいいんじゃないですか?」

「おい、かずぅーっ、何やれやれって顔してるのさっ!誰か止めて、この酔っ払い!」

「いいじゃないかー、○○も××も、全部済ませたのに、今さら何を恥ずかしがってるのー?」

「そんな言葉、公衆の面前で叫ぶなよーっ!」

「何でもぶっちゃけるアイドルのほうが、生き残れるんじゃないー。知らんけど」


 明世の盾先は、余計なことを口走った鑓水のほうに向いていった。


「ところで、鏡花はなんで常葉お姉ちゃんって呼んでるの?」

「よくぞ聞いてくれたぁーっ」


 鏡花は、体を乗り出してきた常葉の肩を押し退けて、割り込んで説明してきた。


「大した理由じゃないでしょ。自分が妹だから、お姉ちゃんって呼ばせたいだけだよ」

「嫌じゃないの?」

「癪だけど、他の呼び方だと、口に馴染まなくて……」

「そうだそうだ、全然関係ないけど、よっすーってインスタやってるー?」


 露崎がびっくりするぐらい突然聞いてきた。まあ、雑談に脈絡なんていらないよな。


「アカウントだけ作って放置してる」

「じゃあ教えてー、フォローするからー」

「あっ、それなら私もー」

「鏡花まで?どうしたの、ブームなの?」

「いや、ねこが律儀に毎日更新してて、なんか闘争心に火が付いた」

「ねこが?」

「猫の目線で撮るっていう一発芸を、延々と擦ってるだけなんだけどねー」


 本人は一発芸と言い張ってるものの、下から見上げる迫力、もしくは立ってると見つけられない低い視線によって気付ける魅力を、最大限に生かした写真を上げ続けている。人がほとんど寄り付かないベストな撮影場所選びから適度な加工まで、この人のセンスには敵わないと思う。努力したところで、身内しか見てなさそうだから、私が褒めてあげた。嬉しそうにしてくれた。


「鏡花は……やっぱりご飯の写真か。向こうで色々食べに行ってるの?」

「うん。学生街はいいねー、大盛りがいっぱいで」

「なるほど。まあ、それはいいけど、どれも食べかけなのはなんで?」

「食べ物を前にすると、我を忘れる」

「この海鮮丼とか、もうマグロ一枚しか残ってないよ」

「これは、常葉お姉ちゃんが意地悪だったんだよ。最後の最後まで、言ってくれなかった。……うわっ、また常葉お姉ちゃんって言っちゃったっ」


 爆笑する常葉を、鏡花が再び睨み付ける。私もどちらかと言えば常葉寄りの面持ちで、小動物が猛獣を威嚇する様子を眺めた。鏡花は本当に、観察のし甲斐がある。多分、話したり照れられたり、そういうのが楽しくて、鏡花のことは大目に見てしまってたのだと思う。ともかく、鏡花がインスタを始めるとこうなるんだって、また一つ学びを得たのであった。



 そんなこんなで、私が主催した同窓会は幕を閉じた。この時は、爪楊枝かなんかで無事にリセットボタンを押せて、私の名誉を回復できて、皆と募る話もできて、また来年だなんて気を大きくしていた。


 まあ、一つだけ心残りがあって、結局、鏡花が私のことをまだ好きなのかどうか、そこをはっきりさせるのを忘れていた。鏡花がまだ怒ってるかもしれないから、事前の頭の中のメモに書き入れておかなかったのである。いやそもそも、なんではっきりさせる必要があるんだろう。聞かないほうが得だ。うぅーむ、鏡花にとって私に対する想いというのは重大で、そんな大切な心境の変化を見逃したくない……のかなぁ。


 新幹線の窓の外の景色が、果てしない街の明かりに変わって、青春のような時間は終わり、暗く深けるだけの自宅に帰ってきたことを実感する。それと同時にふと気が付く。鏡花に怒りをぶつけたのは、紛れもなく私だったことを。鏡花が私のことを好きになるからいけないんだって、責任転嫁をし過ぎて、その辺が反転していた。


 同窓会が終わってから、鏡花との交流も再開された。ほぼ毎日、寝る前ぐらいに鏡花から電話が掛かってきて、ベッドに寝っ転って仰向けにでもなりながら、向こうの話に相槌を打つ。それは高校生の頃と全く変わらない。時計の針が、あの場所から動き出したのだ。今があの時の続きなのだとしたら、鏡花の気持ちも変わらない、と言えるのかも。


 私は鏡花に信用を寄せていた。鏡花のすることは、鏡花の中では私のためになっていて、その信念は揺らがないのだと。いつだって、陶酔して耽溺して熱狂してるって、その対象にされることが私の存在の根拠だった。


「サークルの人と温泉旅館に行ってねー、美味しかったなー、旅館のご飯。ふらっと入ったパン屋さんも良かったなぁ。……縁佳?」

「あぁっ、うんうん、インスタで見たよ。珍しく、食べる前に撮れてたね」

「みんな撮るから思い出せた」

「そっかー。って、サークルなんて入ってたの?」

「常葉お姉ちゃんが協力してくれてね。上海茶会サークルなんて、たいそうな名前の食べ歩きサークルを作ったの」

「な、何、それは、そんなことを、いつの間に」


 鏡花がサークルを創始する……?常葉お姉ちゃんという枕詞を付ければ、何でもアリになるわけじゃないだろ。曲げていた膝を中途半端に伸ばして、足の指に力を入れて丸めて、そこからは姿勢を変化させずに、鏡花との通話に集中していた。


「縁佳も入る?」

「いや、私はいいかな……。食を娯楽として認識してないから」

「もったいないなぁ、人生損してるよ」

「大体、何人ぐらいいるの?」

「12、3人ぐらい?寧々子もいるよ。あの人、何にも食べないけど」

「えっ、男の人もいたり……?」

「のんのん、男子禁制でやらせてもらってます」


 鏡花はこちらの質問に滔々と答える。鏡花は妙なところで勘が鋭いから、私が興味津々だと何かを察知されないだろうか?その心配を一旦はしてみるものの、だからって探らずにいられるわけがない。この話を同窓会でしなくて良かった。呼吸が浅くなってるのとか、表情が角張ってるのとか、悟られたらやばかった。


「逆に、縁佳は何もサークルやってないの?」

「えあっ、そーね、バイトが忙しいから、ね……」

「うっ、バイトの話は辞めて、うがーっ」

「何があったんだ。確か、塾講なんだよね。鏡花、ちゃんと生徒と話せるの?」

「話せはするよっ。でも舐められて、全然宿題やってこないんだよー。教室長にはもっと厳しくって言われるんだけど、最大限厳しくしてるんだけど、効果がなくて……」

「鏡花が怒っても、あんまり怖くなさそうだもんねー」

「笑いながら言わないでっ」


 鏡花の声は、電子の海を越えてきたのにも関わらず。とても艶やかだった。鏡花が語る鏡花は、大学生活を典型的に満喫していて、それが嬉しそうで現状に満足していそうで。私には勝ち目がない。話に聞く鏡花のような事がしたいわけじゃないけど、今の自分の状況が、彼女に一籌を輸するということが、どうしても耐えられなかった。


 だけど見栄を張ろうと、何か話せることはないか思索してみても、バイトでの愚痴が関の山だった。それを自慢げに話しても、彼女は根は優しいから、転職を勧めてくるだけだろう。後は自分の仕事のできなさとか、要領の悪さとか……、自分がいかに無能かなんて、鏡花に語れるかよ。


私には何もない、その割に、学園祭実行委員とか輝かしい実績を残して、着飾らないと生きていけないくせに、愚かにもそれら全部を脱ぎ捨ててしまった。新しい欺瞞は中々見つからない。というか、見つけること自体を諦めて、この停滞から自分をどう誤魔化すかということにばかり、知恵を絞っているような気がする。その間に鏡花は前に進んでいた。この差は生まれるべくして生まれた。でも、そんなの容認できない、私がいつまでも上じゃなきゃ嫌なんだ。


 布団が鉄板のように熱くなったような気がしてきて、背中には汗がびっしりと滲み出て、視野が思考がアイリスアウトしていく。体が暗い世界で息をする準備をするかのように、光への感受性が失われていく。


「縁佳っ」

「な、何?切羽詰まったように名前を呼んで」

「……元気ないの?」

「んー?眠いだけだよ。今日は色々あったから……」


 口を開けて息を吸ってあくびの真似をしながら、それを手で軽く扇ぐ。そんな、マイクが拾ってくれるかも分からないような小芝居は、一人前に打っていた。


 鏡花のアップした写真に、次々と文脈が見え透いていく。写真の裏側で、笑顔を剥き出しにしている鏡花がいる。肥大化して首を垂れるプライドが揺さぶられるから見たくないけど、見たところで鏡花の行動になんら影響を及ぼせるわけではないけど、見ないとますます取り残されるような気がして、不愉快な気持ちになって歯ぎしりをするのが辞められない。


負の感情に薪をくべて、それで闘争心が付けばいいけど、自己保身を見つけようと奔走するばかりで、心身は着実に削れていた。


「平島さん、12番テーブルお願いねー」

「あ、はいー」


 バイトのシフトに入る前に、鏡花が何か投稿してないか確認してしまって、勤務中にも関わらずその煌めく投稿が脳内を駆け巡る。そして自分と比較して、嘆き怨嗟を募らせる。あの同窓会以降、毎日こんな感じで嫌になる。


 いつもは死に物狂いで演技してるだけで、気を抜けば精神状態がそのまま態度として表れてしまう。無駄に喉を大切にするように小声で、明後日の方向を見つめながら、端末を取り出して注文を承った。


 ……さすがに雑にやり過ぎただろうか。戦々恐々としながら視線を下に向けると、ただの同じ学科の友人と目が合った。そこから更に目線をスライドさせると、見慣れた同じ学科の人たちが、雁首を揃えていた。


「あっ」

「おー、平島さーん、ここでバイトしてたんだー」

「う、うん、ご注文は……?」

「あぁ、私はレモンサワーで、ジンジャーハイも1つ、そっちは梅酒炭酸割りだっけー?あとはウーロン茶4つかな」


 注文ぐらい頭を使わずに取れるからいいけど、この状況を不必要に分析して、ワーキングメモリーを浪費していた。私は爪弾きにされたのだろうか。爪弾きにするほど面が厚いから、平気な顔で気さくに話しかけてくるのだろうか。懸命に入念に疑った、私が間違ってないって納得するために、それでも私は、あなた達より幸せであるって確信するためにっ。


…………そう言えば、バイトがあるって断ったんだっけ。自分の肉体を離れて、同輩の飲み会を俯瞰していた意識が戻ってくる。実家が太くて、学費も家賃も全額支払ってもらって、その上で仕送りまで貰ってる彼女たちより、飲み会を我慢してバイトに勤しむ私のほうが、何倍も秀でているのではないか。それに、私がこの飲み会に参加したところで、何か自慢できることが増えるわけじゃない。


 注文を取り終わってたので端末をしまって、私は彼女たちに自己満足の蔑視を送った。自分でもさすがに、痛々しいなと思った。ぬるま湯のような三年間を送ってきたからか、痛みに弱くなっていた。


 こうやって色んなことを、くどいほど自分に言い聞かせてみたものの、料理を運ぶ度にその飲み会が目に入って、心が揺らいで意思が書き換わる。そんなスリリングなバイトも、退勤時間を過ぎてしばらくすればちゃんと終わった。更衣室に入ると、無意味に懊悩した分だけ遅効性の疲労が襲ってくる。ちゃちゃっと帰ってしまってもいいのだけど、誰もいないし休憩室のパイプ椅子に、ふあーと情けない声を漏らしながら座って、スマホを開いた。


 それは一種の自傷行為で、だけど、自分と画面の向こうの人たちの歴然とした幸福の差に、手が震えて瞬きの回数が減ってスクロールする手が止まらなくなって、イライラして脳が縮むような感覚があって、それが僅かな快楽となっているのも事実だった。


とっくに全身が病魔に侵されて、制御不能で回復不能で、高校生の頃の旧友と和解したのは、疑いようもなく間違いであった。精神的な後ろ盾どころか、嫉妬と現実が浮き彫りにされただけだった。


「仕事終わったのー?」

「お疲れさまー」


 まるで私の退勤記録を監視してるかのように、鏡花からメッセージが飛んできた。だけど、その横槍でほんの少しだけ頭が冷やされる。昨日の通話で、明日は何時から何時までバイトだーみたいなことを、向こうの思うがままに話してたんだった。それでも、しっかり覚えていて、あまつさえ労いの言葉を送ってくるなんて、よほど悠々と左団扇で暮らしてるのだろう。


送られてきた短い言葉を何度も目でなぞる。でも、何度見つめ直そうと、鏡花になんて返せばいいのか、どうやって関わればいいのか、全く浮かんでこない。


「縁佳が帰るまで、寝ないで我慢するね!」

「明日1限だけど」

「早く寝なさい」

「おやすみ」

「私は縁佳と同じ苦労を味わいたい」

「味わわせて」

「(食い気味)」


 よくもぬけぬけとそんな事が言えるなと、余裕がなくなった私は、高校生の頃に鏡花が散々わめいてきたような文言なのに、苛立ってしまった、笑えなくなってしまった、歯の間に空気を通して思いっきり息を吸って、必死に自分をなだめた。帰ろう、帰って早く床に就こう。休憩室に入ってきた人に、こんな般若のような形相を見られる前に、荷物を手に取ってさっさと職場を後にした。


 私にはもう分からない。この、恐ろしい獣のような嫉妬と、嫉妬とは無縁であり続けたがる自分、どうやって折り合いを付ければいいのか。きっと私は、強がってしまう自分をかき分けてでも、誰かに助けてほしかったのだろう。



 授業もバイトもない時間は、大学の周りの繁華街をうろうろして時間を潰した。私が通う大学はそれなりのブランドを持っていて、世間の人からそこそこ凄い目で見られている。だから大学の近くを歩くことで、この大学に通っていることを、不特定多数の人間にアピールできるのである。凡庸な私が編み出した、安くてお手軽で、特別な努力なしに何度でも使える虚栄心の満たし方だった。


 あまりにも虚しい。そんなことは百も承知している。でもこれで、砂金ほどの幸せを集められるのだから、やらないという選択肢もないのである。


「おい、平島……平島だよな?」


 耳障りで乱暴で小癪な呼び掛けに、封印された記憶に血が通う。応じるか以前に顔を上げるかどうかも迷った。旭中女子バスケ部主将だった磐田、彼女の姿形を、闇雲に偉そうに厳しく当たり散らかすような立ち振る舞いを、久しぶりに脳内に投影していた。……これだけ古ぼけた記憶でも、効果は抜群だ。気分が悪くなってくる。


このまま早歩きで振り切ってしまおうか。悩んでる間にも少しずつ進んでいて、その案をなし崩し的に採択する。私はつくづく運がない。いくら日本有数の有名な街だからって、長らく無関係だった中学校の先輩に邂逅して認知されて、そんなことに偶然を消費してしまうなんて。


「平島っ、待てよ、覚えてないのか?」


 それに加えて、同じ学科の人が近くを通行していくなんて、私は本当に運が良い。せめて男性だったら、痴情のもつれと言い訳しやすかったけど、これでは旧友を無下に扱う裏のある人間に見られてしまう。過去のことはさっぱり封印して、頬の筋肉に力を籠めて、和やかな形相に切り替えて、客が来なさそうな朽ち果てた不動産屋の前に立ち止まった。


「こんな偶然があるとは。磐田部長、お久しぶりです」

「あぁ、おぉ、久しぶり、だね」

「なぜこんな所に?もしかして、大学がこの近くとか?」

「大学なんて、私が通えるわけないだろ。バイトの面接帰りだ。まー、遅刻して門前払いされたけど」


 進学校に通ってたから、世の大学進学率は半分強であることが、すっかり頭から抜け落ちてた。


「それは災難でしたね……」

「平島こそ何してるの?」

「え、あぁ、用事を終えて家に帰るところだったんですよ。大学も家もこの辺で」

「一人暮らし……だよね?」

「まあ、そうなりますねぇ。部長も実家を出てこちらに?」

「あぁ。でも平島と違って、家族からは半ば勘当されてしまったようなものだし、地元にも居づらい事情があって、仕方なく都会に出てきただけなんだけど」


 磐田は目を頻りに屡叩かせながらそう言った。苦境に立たされてるっていうのは、仔細に説明してもらうまでもなく、話しぶりとかから察せる。私の中にある記憶は、本当に古ぼけて時代遅れの代物になっていた。


「立ち話もあれだし、どこかでお茶しながら話します?」

「えっ、あぁはい、そうするか……」

「用事でもありました?」

「いや何でも……」


 磐田はどこか不安そうな顔をした。今さら人違いの可能性に怯えてるのだろうか。


 それで私たちは適当に、さっきの不動産屋から徒歩30秒ほどの場所にあったカフェに入った。都会なんて石を投げればカフェに当たるので、こんな量産型の小綺麗な店などとっくに飽和して、店内にはうちの大学の学生らしき若人すら見当たらない。空いてるので、思考停止で一番奥のテーブル席を選んで、向かい合って座った。


 で、自分から誘ったのだけど、話し始められない。お互い、アイスコーヒーだけを頼んで、それをちまちま吸い上げるだけの時間が続く。どうやって切り崩していけばいいのか見当が付かないのである。最後に関わってから約5年、この期間は人生の中でも狂瀾怒濤であって、話すことが全くないわけ無いのだが、逆に多すぎて迷っている。


しかもその中には、触れてはならないタブーな話題も紛れている。実家からは勘当されて、地元では何か揉め事があって、何より容姿と纏っている雰囲気がトーンがテンションが、当時とは似ても似つかなくて。そこまでばっさり髪を切ってるとなると、傷心してるかスポーツに魂を売ってるかの二択だし。


「飲み物以外、何も頼まないんですか……?」

「そっちこそ、好きに食べればいいのに」

「いやきょっ……、昼ご飯が遅かったもので、まだ満腹なんですよ」


 鏡花じゃないんだから、みたいな事を言いそうになった。口癖でもないのに……。ここまで憔悴した磐田になら、もう殴られなくて済みそうだから、少し気を抜きすぎてるのかもしれない。座る位置を調節して、姿勢を正した。


「正直、平島がお茶しようなんて言い出すとは予想してなかった。だから少し狼狽えてしまったんだよね」

「そうですねぇ、磐田部長とはいつも、衝突してばかりでしたもんね」

「その磐田部長って呼び方も、らしくなくて違和感しかない。……皮肉なら、一周回って平島らしいのかもしれないけど」

「磐田……さん、でいいですか」

「まあ、今の平島なら、それでいいんじゃない」


 そう言えば元を辿れば、あんな小生意気な私を覚えていて、散歩している私に多少しつこく話し掛けてきたのは磐田のほうで、私のこれまでと現況に興味があるようだった。会話的な観点からは非常に助かる。


「平島ってどこの高校行ったの?」

「白高ですねー」

「あそこかー。そりゃあ、いい大学にも行けるよな」

「まあ、結構大変でしたけどね。頑張らないと、あっという間に落ちこぼれですから。入れても安泰とは言い難い」

「こんなことを私なんかが言うのも偉そうだけど、平島ってやればできる奴だよね」

「それはぁー……どうなんでしょう」

「一応、平島が部長になったのも知ってるし。春の大会、結構いい順位だったじゃん」

「インターハイも県内準優勝でしたしー」

「おぉ、それは知らなかった。おめでとう。卒業してから、全く気に掛けてなかったもので」

「私が三年生の居場所を奪っちゃいましたからね」

「それはどうかな……。ただ単に、私には愛がなかっただけだと思う」

「愛……?」

「後輩の面倒を見ようって気持ちだよ。私は威張りたくて、それで手荒なことをしてただけなんだ。相手のためじゃない。自分が偉ぶるために、平島にも強く当たってた」


 磐田は両手を机に突いて、頭を下げて堂々と謝罪してきた。


「その、悪かったと思ってる。今となっては反省してるから。すいませんでした」

「別に、気にしてないですよ。多少荒っぽい先輩がいたことなんて、私だけじゃなくて、誰一人として」

「それでも、一度遭遇してしまった以上、謝らないわけにはいかないんだ。本当に悪かったと思ってる。何か償えるわけじゃないけど、ずっと謝罪の言葉を言いたかった」


あの頃とここまで何もかも違うと、見知らぬ人から見知らぬ件で謝られてるような気分になる。磐田の風貌も、私の人格も、その時とはまるで別物で、この謝罪には何の意味もないようにさえ思える。磐田が本気で謝罪したいとして、本当に謝罪したい相手には届かないし、私はそれを本音で受け止められない。


 それはそうと、私は余計な論理を胸の奥深くにしまって、微笑みかけて擬態した。


「それなら、本当に偶然だったけど、何というか良かったですね」

「あぁ、ありがとう……。それと、少し偉そうな言い方にはなってしまうけど、平島も変わったんだなぁって……」

「それは自覚してますよ。というか、変わってなかったら、部長になったりしません」

「それもそうか」

「ただ……、そっちはそっちで、どういう心境の変化があったんですか?」

「色々あってね……。私は馬鹿だったんだ。気付いた時には全部手遅れだった」


 “色々” とか聞いてしまうと、人の不幸を感じ取る器官が活性化されて、自然と聞き耳をそばだててしまう。その憔悴して血色が悪くて、生きた心地もなく絶望しかけてる顔に、私は吸い寄せられていった。不幸な存在を見ると安心するのである。そして人間の摂理として、自然と安心する方向に引き寄せられてしまって、抜け出せなくなる。最近は特に、その魔力に魅了されている。


「高校で何かやらかしたとか」

「えぇーとね……、私って中学に上がるまで、自己主張しない目立たなくて臆病な人だったんだよ。だけど……、あっ、他人に責任転嫁してるようなことは言うべきではないか」

「いいんじゃないですか。自分なんて、他者によって規定されるものなんですから」

「なるほどな。まさに、そういう事だよね。……言ってしまうと、覚えてる?神子島って奴のこと。私と同じ学年で、平島にもよく迷惑をかけてたと思う。あいつと出会ってから、自分は変わってしまったと、こればかりは真面目に思ってる」

「仲は良さそうでしたけどねぇ」


 知らんけど。


「そりゃそうだろうね。実際、中学で一番多く言葉を交わした相手だろうし。何でもあいつに相談したし、その度にいつも背中を押してもらってたんだ。でもそれが良くなかった。神子島はどこまでも背中を押してくるの。それで気付いたら、部長にまでなってて。だけどさ、根暗なのが治ったわけじゃないから、どうしたら部をまとめられるか、また神子島に相談したんだ。そしたら、磐田は生ぬるすぎるって言われた。だから厳しくした。先輩の畏怖で折伏して支配すると、それでいいって神子島が肯定してくれて。でもそれって、間違ってるよね。なんで私は、あいつの言うことなんて真に受けちゃったんだろう……」

「自分がもっと、芯のしっかりとした人間だったら、と後悔してるってわけですか……」

「そうそう。でも、本当に後悔し始めたのは、警察のお世話になってからだけどね。高校に入って、すっかりオラオラするのが板に付いてた私は、不良の仲間入りを果たしたんだけど、そこでも取り仕切ってしまった。自分は取り仕切る側の人間だと、本気で思い込んでたからね。で、やりすぎた。ある人をしごき過ぎて、警察に駆け込まれたんだよ。その時に復讐として、危ないクスリをやってた事をバラされてね。連帯感を作るために、みんなに強要してたんだけど、売人から買って配ってた私は少年院送りだよ」

「ということは、高校も退学になったり……?」

「もちろん。この先どう生きればいいんだろうね」


 磐田はまっすぐ私を見つめ返して、年の差一個分の余裕を捻り出すように微笑した。かつてとは立場が逆転して、私が困らせられる状況になっていた。


「都会に来たのも、何かいい巡り合わせを求めてってことなんですかね……」

「おぉ、そうだよ、都会に来れば、何か変わるだろうって。まあ、甘いというか古いよね、そんな考え方。一応、同じ悩みを持つ者を見つけられはしたけど、そいつらと屯ってても全く意味がない。同じものが足りないんだから、分け与えられないでしょ?」


 足りない物を補い合う、か……。私はどうしたら一人で生きられるのか、例えば親に頼らずどうやって学費を工面しようかとか、そういう自立心に心と思考力を奪われていた。それに、自分が空っぽであることを、外殻を固めることで、何とか解決しようとしていた。でも中身は空洞のままで、強く突けば簡単に割れてしまう。根本的には何も変わってない。だけど、誰かから貰った何かで埋めてしまえば……、そんな簡単なことだったのだろうか。磐田と違って、埋めてくれる誰かは、すぐ傍にたくさん居たというのに。


「まーだから、誰かから貰った人格で生きるのは辞めたほうがいいね。身を滅ぼすだけだからさ……」

「そうですか」

「平島がどうかは、分からないけどね。ただ、自分の力で一念発起しただけかもしれないし。でも、無理はするなよ。背伸びしないほうがいい。自分に正直になったほうがいい。私のことだって許さなくたっていいんだよ。八方不器用なのが本性なら、それを貫き通すべきなんだ。本性が一番、身の丈に合ってて自分に似合ってるんだから」


 最後に先輩らしくあれたことに満足したのか、磐田の表情から少しだけ煙が取り除かれたように思えた。私の中の、歪曲されて記録されていた古い記憶に、わずかに近付いた気がした。まあ、磐田がそれを望んでいるのかは知らないけど。


「あとは、平島が言うように巡り合わせだね。責任を取るのが自分自身なだけで、極論、全部他人のせいなんだから。私が行った高校には、悪い奴らしかいなかった。だから間違ってるおかしな自分が、意外と受け入れられてしまった。逆もあると思う。いい人に巡り合えたら、窮地を抜け出すきっかけになる。月並みな感想だけど、色んな支援を受け取る過程で、それが身に染みたんだよね」


 合いの手をサボって、頬杖は突かないでおいてるけど、水面下では脚を組むなど、聞いているような上の空なような、慇懃無礼な態度を心掛けているのに、磐田は口が気持ちよくなってきたのか、それはもう、リスニングの問題のように、聞き手の都合など全く念頭に置かずに捲し立ててきた。


 だけど不思議なことに、磐田による頼んでもない望んでもない目ぼしくもないアドバイスは、意識しなくても頭の中に残留する。自分と他人を比べて落ち込んで、常にどこか疎外感を覚えて、私が丁度これらに悩殺されてるこのタイミングで、そんなクリティカルに核心に迫ったことを言われたら、そこに運命的なサムシングを見出しそうになってしまうもので、自然と磐田が放った長文が頭の中で回遊し続ける。


「ごめん、つい、ここぞとばかりにいっぱい話してしまった。中学校の時の知り合いに会ったのなんて、5年ぶりとかなもので」

「いえいえ、いい暇潰しになりましたよ」


 そんなところで、最後に連絡先を交換して、カフェを退店し磐田とは別れた。何かをした気に、まあ強いて言うなら、磐田の屈託を一つ晴らせて満足したので、買い物に寄ってから帰宅することにした。


 家に帰って、汗が不愉快なのでシャワーで流して、身軽な服装になって、無味乾燥した天井を星空のように見上げながら、お腹が空くのをぼーっとして待つ。まるで日常の一環のようにそうしたけど、今回ばかりはあえて胡坐をかくことを選んだような気もする。


 磐田が陥った事態は、他人事じゃないのだろう。その実感を持ち帰っていたから、自分の現状と照らし合わせたり、自分とは無関係だという根拠を探したりする時間が欲しかった。


 私は刑部から、大仰に言えば生きる術を貰った。磐田の言う誰かから貰った人格とは、これも入るのだろう。けど、磐田とは違う。私の施しで誰かが救われ、そして相手が自ずから尊敬の念を向ける。これで誰かを傷付けることはない。むしろ正反対だ。


 程よく自分を擁護したところで、それが破綻しつつあることを思い出す。私がどんなに藻掻いたところで、自分の理想とする大学生活は送れない。でもだからって、ありのままで居たくない。こんなに苦痛で退屈で、こんな日々で満足したくない。高校生の頃みたいに輝きたい。せめて、輝けると信じていたい。磐田の言うことを踏まえて反省するということは、つまり、生き甲斐を、希望を捨てるということなのだから。


 その憂いを吹き飛ばせて、素の自分が許されて、私に足りないもの……楽しいとか美しいとか、美味しいとか香ばしいとか甘いとか、そういうのを補ってくれる存在、磐田と話してた時は色々思い浮かんだような気もするけど、自分一人で思索に耽ってる今は、鏡花しかないって、まるで脳内をジャックされてるかのような感じがした。


鏡花は、私がどれだけ捻くれてるのか、全部見抜ぬいてて、私が自分を見つめ直して、素直になろうと努力することを誰よりも望んでて、何より、私がどんな状態であろうと好いてくれる。だけど、そんな鏡花を、私は邪険にしてしまった、罪を作ってしまった、絶望を植え付けてしまった。これ以上、私の都合に巻き込むのか……。


ダメだ、磐田と話してから、いや、ずっとずーっと前から、どうしても鏡花のことばかり意識してしまう。必ずしもいい方向じゃなくて、遠く離れた場所で、私の知らない所で、何もかも上手くいかない私を差し置いて幸せそうにする鏡花に、どす黒い感情を渦巻かせる。常に鏡花と比較して、鏡花ならどうするか予想してしまう。


とりあえず、一回頭を冷やそうっ。今までできてなかったのに、急にできるようになるわけが無いけど、私には秘策がある。誰からも祝ってもらわないことにしてるから忘れかけてたけど、今日は私の誕生日なのである。アルコールの力でいい感じに思考をぼかそう。初めてのはずなのに、極めて切実に缶を開けた。



 今までは、ダムのようなもので堰き止められていたのだと思う。弱っていた部分を的確に突かれて、一度決壊すると、止まらないし抑えきれない。素面でも講義中でもバイト中でも構わず波が押し寄せてきて、鏡花のことで頭がいっぱいになる。鏡花もこんな気持ちだったのだろうか。って、また鏡花と照らし合わせてる。


 このままでは濁流に揉まれて二度と浮き上がれなくなるので、水を差すようなことを必死に考える。私は鏡花に何を求めているのだろう。慰めか同情か、人に尊敬しか求めたことがないから、対等かそれ以下の関係において、普通はどういうものを求めるのか分からない。分からないからこそ一考の余地がある、気も紛れる。


 大学生になってから二度目の夏休み、去年はサークルなり学園祭の実行委員なり、充実を目論んでいたけど、今年はもう、毎日バイト漬けだ。誰も咎めないから、力の限り無理をしてしまう。私にはまだ、貰い物の人格を捨てきる覚悟がないのだろう。現に、鏡花のことを意識し始めてから、特に何か行動を起こしたわけじゃない。頭の中を空っぽにする時間を、想いを募らせていると表現して、勝手に階段を上った気になってるだけだ。


 そんなこんなで、今日も頭を空っぽにしながらシフト外の業務までこなしてから、休憩室に凱旋する。早寝早起きが身に染みてるせいで、非常に眠たい。結局、今は何時なんだ?と思い、スマホを開く。夜の11時か……。というか、鏡花からなんかいっぱい写真が送られてきてた。どうせ食べ物の写真だって分かりきってるけど、深夜にそれを見せられたところで、胃袋が活性化したりしないけど、わざわざパイプ椅子に腰掛けて、きちんと一枚一枚拡大した。


 別に、じっくり見られたかは鏡花には分からないし、そもそも彼女は私が美味しいご飯に興味がないことも知っていて、丁寧に眺められるとは想定してないと思う。だからこれは、私が鏡花に少しでも擦り寄りたいことの現れで、自己満足なのだろう。いや、満足感なんて無いか。私は楽しそうにしている鏡花に、どうしようもない怒りと憎しみを覚えるんだから。


 ……のはずだったんだけど、ふと我に返って、今の私が大して負の感情をはためかせてない事に気が付く。むしろ、鏡花は無際限に幸せになって、そのおこぼれにあずかりたいと望んでさえいる。私の傍で、貪欲に楽しもうとする鏡花はいつだって原動力で、今の自分を覆う寂しさのような静けさは、鏡花がどこかへ羽ばたいてしまったからで……。


「よー、平島」

「うおあっ、磐田さんっじゃあ、ありませんか!」


 スマホを床に落とした。割れてないか心配になるような、がっしゃりとした音が響いた。すかさず拾って、急いで鏡花との個チャから画面を遷移させる。平然と人のスマホの画面を覗き込まないでほしい。別に隠さなきゃいけないやり取りは無いけど、何となく、秘密にしておきたいという、気分の問題。


「驚きすぎだろ……。ここでバイトすることにしたって、連絡したじゃん」

「止めもしましたよ……。ここは辞めとけと」

「仕方ないじゃん。バイトの面接、もう10個も落ちてるんだから」


 いくら社会復帰を急ぎたいからって、賃金は30分単位、残業は当たり前で、残業代は当たり前に未払いなバイト先を選ばなくても……。


 直後、店長がやってきて、この時間から新人指導を任せてきた。夜も遅いし、断る気はあった。というか、心を入れ替えて、自分だけで輝こうとするのを辞めるためには、頑なに断るべきだった。なのだけど……負けた、誘惑に負けたのだ。


「丁寧に教えてくれてありがとう。正直、心細かったから。平島がいてくれれば安心だな。これからも、シフトが被った時はよろしく」


 磐田は、誰かに言わされてるかのように、大げさに頭を下げた。でもそれは、私に例外を作らせるのに十分だった。


 実のところ、このバイトは辞めようと思っていた。だって他のバイトのほうが割がいいし。それでも続けていたのは、今の私が唯一頼られる場所がここだったから。つまり、このバイトは負の象徴にして愚の骨頂、ここを辞めることは決別みたいなものだった。


 だけど、磐田がそんな風に頼ってきたら、私なんて簡単に揺らいでしまう。そもそも、このバイトを辞めて、何かを起こす起爆剤になるのか。ただ無聊を託つようになるだけではないのか。鏡花が隣の部屋に引っ越してくるみたいな奇跡が起こるなら、諸手を挙げて辞めたかもしれないけど、そういう現世利益がないと、このいびつな心地よさから抜けられない。


 磐田と店長に作り物の笑顔を向けて、ようやく本日の業務が終了した。さっき確認した時より、時計の針が一周余計に多く回っていた。


 店の裏口から、夜の飲み屋街の裏路地に出る。換気口とか室外機とかから、猛烈な油っぽい熱風が吹き荒れ、店の表からは、気を大きくした若者の悪ふざけが散発的に聞こえてくる。退廃的で無秩序で色あせたこの感じ、意外と悪くない。外の空気に当たって、ついほっと一息吐きたくて、真っ黒な深淵を仰ぎ見てしまう。


 立ち止まって、18世紀のロンドンの労働者の気分を味わっていたら、鏡花から電話が掛かってきた。長くなる予感がしたからか、扉と電力メーターの間の壁にすっぽり収まってから、それに応答した。


「鏡花?こんな時間にどうしたの?」

「こんな時間に返信が来るってことは、さっきまでバイトだったって事だよなーと思って」

「まあ、合ってるけど。そんな予想を立てながら生きなくていいのに」


 皮肉めいたことを言ったところで、鏡花は気にも留めないんだった。


「縁佳っ」

「何?」

「お仕事お疲れさまー」


 私は、鏡花が口ずさむこういう言葉を、世迷言のように邪険に扱ってきた。新品の傘が雨を弾くように、私を形作る強がりは鏡花の甘い囁きを、気持ちいいほど全て跳ね除けていた。


だけど、変革を願う心の隙に、鏡花のその声は潜り込んだ。それで、鏡花の世迷言に初めて向き合うことになった。疚しさも邪気もなくて、逆に透明感があって、それでいて何重にも裏をかいて労ってるようで、あまりにも滑らかに取り込まれたのに、いつになっても溶けて無くなりそうにない。それどころか、もう頑張るのはおしまいだって気持ちに強制的にさせられて、体から力が抜けていく。壁への依存が強まっていく。


「おーい、おーーい、生きてる?」

「あっ、ごめん。忘れ物ないか確認してた」

「それならいいけど……」

「何だと思った?ナンパでもされてると思った?」

「もしそう思ったら、殴り込みに行ってるよっ。じゃなくて、なんか最近、突然反応がなくなることがあるから」

「そ、そうかなぁ……」


 通話中に音が途切れてしまうことなんて、別に珍しいことじゃないのに、鏡花にはそれ以上の異変を感じ取って確信したのだろう。その勘の鋭さは憎むべきものじゃないって、私だってそろそろ気付いていた。注射みたいなものだ。確かにそれは鋭利で、多少なりとも私を傷付けるけど、私が健康であるために不可欠なのだから。


「気にしすぎなのかもしれないけど、私はちゃんと気に掛けてるよっ」

「それは伝わってる。わざわざ、こんな時間にかけてくるんだから」

「そっか。良かったー」

「うん……」

「うーん、あっそうそう、最近さ、YouTubeで人が食べてるのを見て空腹を紛らわせるって人に会ったんだよね。ありえないよね、うちのサークルではその手のチャンネルの視聴を禁止しようかしら」


 鏡花は普通に話題を紡いだ。これで通話が終わると思ったんだけど、向こうにまだ続ける気概があるのなら、このことを鏡花に相談してみてもいいのかなぁーと、私は迷い始めた。相談か……、複数ある解決策の中からどれが最良か選んでほしいのではなく、選ぶこと自体を肯定してほしいだけなんだから、ただ胸中を吐露したいというのが正確ではある。


自分は変わりたくて、そのためにこのバイトを辞めたいけど、磐田が入ってきちゃったから、その意志が揺らぎつつある。そんな軟弱な背中を押してほしい。そして何より、一人で抱え込まずに鏡花に話すこと自体が、自分を変える妙手だ。脳内ではその崇高な願望が、はっきりと縁取られた文字として浮かんでいる。


だけど、喉をその通りに鳴らすことだけができない。息が詰まるかのような苦しささえ感じる。鏡花の声が留守番電話のように、一方通行に流れていく。私はそれを、ただ聞いていることしかできなかった。そうこうしている内に、長電話の様相を共有するようになった。少し汗ばんできて、硬い壁に押し付けられていた背中が痛んできた。これまたそれを察したかのように、鏡花のお喋りが急停止した。


「んあっ、喋りすぎたかな」

「いや、大丈夫、鏡花がご機嫌だと、こっちも安心するからっ」

「んんー?私が機嫌を悪かったことなんて、そんなに無いと自負してるんだけど……。まっいいや、縁佳、これから家に帰るんでしょ?そろそろ切るね」

「あぁ、うんっ、まあ近所だから、ね」

「じゃあまた明日っ、うわっ課題やらなきゃ、明日が締め切りだ……」

「あ、そうなんだ、がっ頑張ってっ」

「縁佳に応援されたら、頑張れちゃうな」


 そう言って鏡花は通話を終了した。多分、顔をにまにまさせてる。確かに、ずっとご機嫌な奴だなぁと、その自負には一定の説得力があった。その裏には私がいるから……だったら、私は嬉しいのかな。


室外機の生暖かい風が腕をくすぐって、鏡花の明るく朗らかで生き生きとした声が聞こえなくなって、まだバイト先にいることを思い出す。私は光の届かない裏路地を、家の方向に這いつくばるように歩き始めた。


 あんなに長い電話をしておいて、完璧なタイミングで掛かってきて、それでも私は何も言えなかった。何も、打ち明けられなかった。バイト先で困ってるのなんて、氷山の一角に過ぎなくて、味気ない大学生活とか、高校の旧友たちにいだくこの劣等感とか、後ろには別の悩みが控えていて、だからこんな事で立ち止まってられない。そう思って自分を鞭打ったところで、自分の首が締まるような感じがするだけで、とても鏡花に告白できない。鏡花なら絶対に、この懊悩を理解してくれるって確信ならあるのに、それでも言い出せなかった。


 こうやって、くよくよと逡巡することで、しないに越したことは無いけど、いい事もあった。私は鏡花に味方であってほしくて、安心の裏付けに、後ろ盾としての役割を期待してるんだと分かった。それは色々求め過ぎてるようで、実は何も求めてない。ただ傍にいてほしい……みたいな、奇しくも鏡花らしい結論に着地していた。


 せめて同じ街の大学だったらとか、そういう自分の努力を減らす妄想もした。まあ、鏡花から遠ざかろうとするのは、いつだって私だ。鏡花が私と同じ大学を目指さないわけがない。そう思ったから、友達にも親にも適当なことを言って、最後まで隠し通した。その時は、鏡花と距離を置くことが、何よりも大切だって思ってた。今だって、鏡花は私に関係なく、行きたい大学の学部に進むべきだって、そうも思ってる。今になって、強がらずに正しい判断を下すなら、本人にそう言えば良かっただけだった。鏡花を欺く必要なんてなかった。


鏡花への想いに、なぜ気付かなかったんだろう。あるいは、なぜ矮小化して、無視してしまったのだろう。鏡花は、影をも照らしてしまうほど、眩しかったのかもしれない。危なっかしくて振り切れてて、それがとても愛しくて私を支えてくれてた。電話越しでも溢れんばかりの魅力、でも、一度デジタルデータに砕かれてから、プログラムに再現された声と表情では足りなくて、鏡花はこんなものじゃなくて……!


まずい、夜は思索が捗りすぎる、危険だ。誰にも追われてないのに、家まで走って帰った。



「困った、どうしよう……」


 私が休憩室に入った途端、磐田は見計らったように呟いた。辞めようって散々思ってたのに、当然のように反応してしまう。私には思い切りが足りてない。無いから、鏡花に補完してほしかった。


「どうかしたんですか?磐田さん」

「いやーその、来週の水曜日、保護司の人と会う約束になっててな。でも、同じ時間にシフトが入ってて」

「あー、店長には言いました……?」

「代わりを見つけてこいと突き返された。シフト希望出す時に、ちゃんと予定を確認しなかった私も悪いよなぁ」


 磐田は背もたれに体重を乗せて、パイプ椅子をかたかたさせながら上を向いて、時々私のほうに視線を送って図々しくアピールしてくる。まあ、謙虚で礼儀正しすぎる磐田は、それはそれで気持ち悪かったけども。


「私に入れと」

「頼めないかな」

「いつだって?」

「来週の水曜日」


 ものの見事に他のバイトと被ってた。しかもその日には、何か月も前から告知されてる外せない仕事があって、んがー困った困った。


「その日じゃなければねぇ」

「他に頼れる人がいないから……」

「そう言われても……」

「結構、大事な用なんだよ。今の私にとって、唯一と言っていい頼れる大人だから。あぁ、もうとっくに成人したんだっけ。でもほら、ひとまずバイトが見つかったから、きちんと報告したくて」


 磐田は隠すような態度も辞めた。あと少し押せば、私が頼みを渋々引き受けてくれると、そう思われたのだろう。さらに店長が通り掛かって、私に水曜日に出勤するよう脅してきた。それで、毅然と反駁できるような社会性の無さは無いので、曖昧な返事をするしかなく、向こうは私が代打となることを、信じ切ってしまった。


 どうしてこんな苦難に直面しなければならないのだろう。私には当然、これを拒む権利がある。それに、こんなバイトも辞めてしまおうと、決意を固めた。なのに、それなのに、磐田が私の邪魔をする。どうしても無責任に全てを投げ出せなくさせる。理想を見失って、現実だけが私に寄り添ってくる。自分の身を犠牲にしてでも、この店に貢献しているという現実が、私の翼を縛り付ける。


 とにかく、このバッティングは根が深い問題だった。かと言って、向こうのバイト先を蔑ろにするわけにもいかない。日数が少ない代わりに、割がいいのである。だから、その、……結局、誰かからの信頼を失うことが怖いってだけだ。それを変えようと長々と問わず語りしてるわけだけど、いつまで経っても進む気配がない。誰か助けてよ……。


 大問題ごと家に持ち帰って、机に肘を突きながら頭を抱えていると、机がスマホのバイブレーションで震えて、そのスマホを手に取る。前からそうだけど、鏡花から掛かってくるとそれだけで、心の中の霧が少し晴れたような気分になる。それは癒しであり支えであり、何より鏡花と話してない日は口が寂しくて仕方ない。


「よすがぁー」

「はいー。今日はふにゃふにゃしてるね。寝起き?」

「そうだけどね、違うんだよ。これは昼寝だから。昼夜逆転生活になってるわけじゃない」


 ときめくような、息をする瞬間すら惜しいような、濃密で鮮烈で灼熱な感情、今までの人生で、私はいかに淡白な情緒の中で揺蕩っていたかを、その瞬間思い知った。あるいはとっくに、それを無限に求めてしまうフェーズに突入していたのかもしれない。


「何してたー?」

「バイトして、帰ってきたところ」


 本当は一時間ぐらい経ってるけど、ずっと頭を抱えてただけなのでノーカン。


「大変だねぇー。せっかくの夏休みなんだし、どこかに遊びに行かないの?あ!私と遊びに行く!?」


 鏡花はあの頃と同じように、昂然とそう言った。変わらぬ鏡花への安心感とか懐かしさとか、そういうものを飛び越して、これは救いなんだと気付くことができた。何だかまるで、フィードバックと改善を繰り返した産物のように言ったけど、その実ただ追い詰められてるだけだ。鏡花ともう一回直接顔を合わせれば、何かが勝手に変わるかもしれないって、無責任に期待している。


「それいいねっ。久しく会ってないからいい機会だし、私、結構貯金してるから、そっちまで行く交通費もあるし、い、行ってみた場所もあるし、鏡花はどうかなっ」


 人が捲し立てる時はたいてい、何か目を逸らさせたいことがある時だ。それを体現してしまった。まあ、鏡花は特に訝しげにすることなく、普通に賛同してくれた。


「んーでも、縁佳の家に行ってみたいなぁー」

「え?いやいや、私が行くからっ。わざわざ来なくていいからっ」

「自分の部屋に私を上げたくないってことー?何々、そんなに荒れてるの?それとも、見られたくない何かがあるのー?」


 鏡花も捲し立てるように追求し返してくる。私の部屋に鏡花が……自分の部屋を見渡してみる。一番目立つ場所に、鏡花が贈ってくれた、割れたマグカップの入った箱があった。それ以外にも、冷蔵庫の中とかコンロの綺麗さとか、私の暮らしぶりが推し量れる欠片がいっぱい落ちてて、鏡花の詰問には素直に頷かざるを得なかった。


「だったら、見せたがりな鏡花の部屋に、私が行ってあげるよっ」

「えぇー、縁佳と違って見せられない物はないけど、家の周りって何も無いんだよねー。せっかく来てくれたのに、私の部屋を見学するだけっていうのは、ちょっと……」

「あ、えー、じゃあ普通に遊ぼっか。行ってみたい場所、後で送るから」

「縁佳がそんなことを言い出すとは珍しい。行ってみたい場所なんてあるの?」

「がっ、頑張ってこれから探し出すのっ」

「んじゃー、こっちはこっちで美味しそうなお店を探しとくよー。ご飯は任せなさいー」

「それは頼もしい」

「んふふっ、なんかまるでデートみたいだね」

「べっ別にっ、そういうんじゃないよっ……」


 また勢いが良すぎると、今度こそ悟られそうで、舌を噛みそうになりながらも急減速させる。ただの鏡花の妄言に、これだけ気持ちを揺さぶられる日が来るとは。だけど、鏡花がそう言い出してくれて、まだそう思ってくれるんだって分かって、ほんの僅かに安心感をいだいたのも事実だった。


 そしてもう一つ、ふと思い付いてしまった。鏡花という理由が強力な引力があるなら、二つの重責も容易く振り切れるのではないかと。この時にはすでに、何年もの間、大切に磨いていた信念を、手放せていたのかもしれない。それを示すかのように、自分の本質を見抜かれそうになる度に発作のように起こる、全身の小刻みな震えと同時に、スマホに映る自分の顔が薄ら笑っているのが分かった。


「それじゃあ……」

「それじゃあ?」

「来週の水曜日とか、どう」

「おぉ、意外とすぐだね。まあいいけど、ほとぼりが冷める前のほうが、思い立った時に行動するのが一番いいよね。」

「そ、そういうこと」


 言ってしまった。気が気でない。通話終了を押す指が震えてる。汗が氷のように固まって、死を覚悟するような寒気に襲われる。けど、やっと自棄になれたんだ。一段も二段も、鏡花に近付けた気がした。だからもう、みっともなく取り消したりしない。

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