9-5
「ねぇ、大丈夫?そんなに落ち込むことないよ」
その言葉はとても思いやりに溢れていた。
「本当は不安だったのに一人で抱え込んで、それが爆発して、そうなる前にどうして相談してくれなかったの?」
その言葉はとても残虐だった。
「気付いてたんじゃないの?私が全部仕組んだって。だとしたら尚のこと、頼れるのは私だけだよね」
その言葉には反論の余地がなかった。
「私に頼れなかった?頼ったら負けだと思った?私が、縁佳に縋り付くだけの、都合のいい存在のままでいればいいと思った?」
その言葉には耳を塞いだ。
「もっと痛みながら変わるのは辛いと思う。誰にも寄り添われずに、一人でひっそりと変わるなんて、……考えたくもないね」
その言葉で思考を止めた。
「変わるって何、何を変えるの?不正選挙でもすれば良かったって言うの!?」
「全部だよ。列挙してあげようか。理想像に拘泥しすぎ、友達のことを自分を評価してくれる装置だとしか思ってない、だから付き合う人を選べない、誰とでも友達であろうとする。そして、理想のために誰にも相談できない。それからそれから、誰も何も好きになれない、嫌いにもなれないこと。それらの欠点を隠すために、他人を一定の距離に留めようと、時に相手の感情を逆撫でして、全力で追い払うこと。自分が空っぽであることはコンプレックスで、でも誰にも知られたくなくて、それで薄くてよく伸びる化けの皮を被ることにしたこと」
「じゃあ、鏡花のことなんて嫌いになってやるよっ!嫌いなもの、それは鏡花みたいな傍若無人な奴だから!」
「縁佳は迷ってるんだよ。それでいい、何も決められなくて、どうしようもなくて。私は縁佳の全部を愛せるんだから。ねぇ、それでもダメなのかな、そう思ってもらえることって、貴重なことだよ」
「何度も言わなくていいよ、そういうの。そもそもこんな事したら、私が靡くとでも思ったの!?」
「靡いたらいいなって、そうは思った。靡いてくれたら、丸く収まったのに」
「もういいよ。友達ごっこはおしまい。そもそも、自分のことを応援してくれない人と、つるむ価値なんてないんだから」
私はそう言いのけて、鏡花の前から早歩きで立ち去った。自分の中で、誰かに踏ん切りを付けることが、こんなに容易く行えるなんて、正直今でも信じられない。刑部の時は周囲に迷惑まで掛けてたのにね。まあ、鏡花と居ることに対して心も体もアラートを発してるし、この人は私にとって毒でしかないし、考えれば考えるほど正しい直感だったと確信していく。
「きっと縁佳は私を忘れられない。こんなに簡単なことだったなんてね」
一つ引っ掛かる部分があるとすれば、鏡花は嬉しそうにも悲しそうにもしていなかったという所だろうか。元来、鏡花は朴訥な人間だから、戻っただけなのかもしれない。彼女もまた、私によって人格が植え付けられた、そういう悲劇のヒロインなのだろう。
露崎が生徒会長に就任してから、早いこと半年が経過した。悪い噂は聞かないし、明世がいれば大体の面倒ごとは収まるし、恐らく問題ないんだろう。まあ、全部憶測だ。なにせ、あの辺の人たちとも、鏡花と一緒に関わるのを辞めた。私にとって友達とは、支持者であり土台であり、自分を喜ばせるための存在でしかないから。そんな考え方、鏡花に指摘されるまでもなく、歪んでると自覚はしてるけど、それを悟られないように自分の身も粉にしてるので許してほしい。
春は何かと生徒会長の姿を見ることになる。始業式、新入生歓迎会、生徒総会……、まあ露崎のことはそんなに悪く思ってない。鏡花に唆されるままに、普通に針小棒大なことを言ったら、なんか当選しちゃった。それだけなのだろう。高校最後にいい思い出ができて良かったね。今の私が露崎と邂逅したら、乾いた笑いと共に、それをアイロニカルに言ってしまうと思う。
まあ、あいつら以外にも友達は数えたことない程いる。だから、一人ぼっちになることは無い。そもそも生徒会長云々に興味ある人ばかりじゃないのだから、それ以後以前で私への態度を変えない人も多い。その代わり、中学生の頃のように、無用に暴れたり自暴自棄になったりもできないけど。
教室で帰り支度をしていると、宮橋が話しかけてきた。今年も宮橋とは同じクラスだった。幸運なことに鏡花とか露崎とか、その辺とは被らなかったので、この一年は無事に乗り切れそうだった。
「よっすーよっすー!はいどうぞ、芳瞠がお土産だってー」
「えっあっ、甘い物は……」
「いいからいいから、美味しいよ?」
キャラメル・バニラ・チョコレート・ストロベリー、黒い箱の中には、くらくらする単語が並んでいる。そう言えば甘い物が苦手なこと、ごくごく一部の友達しか知らなかったって、今になって思い出す。そのおかげで、鏡花の好みそうな店の情報とか集められたわけだけど、こうなってしまっては足枷でしかない。
とりあえずチョコレート味を選んで、その場では食べずにカバンにしまった。もし取り出すのを忘れて、どろどろに溶けてしまったり粉々に砕けてしまったら、しょうがなく廃棄するつもりだ。
「ところで、芳瞠って言った?」
「うん。それがどうかした?」
「いつの間に仲良くなったの……?」
文化祭の時は常にいがみ合ってたじゃない。
「私、気付いてしまったんだよ。あの人たちと、意外と仲良くできるんじゃないかって」
宮橋は箱を片手に、もう片方の手の親指と人差し指で私を指しながら、とても自信ありげにご機嫌そうに言ってきた。それには私も含まれてるってことだろうか。それは大変ありがたい……待て待て、彼女たちの共通点は文化祭でライブをしたことなわけで、つまりもう一度バンドを組もうという話が持ち上がったり……!それは避けなくてはならない、これ以上、墜ちたくはない。
最近、人と話す時、冷や汗をかく頻度が増えた気がする。分かっていたことだけど、生徒会長という重荷は、私の心理的安全性の大半を担保していてくれた。それに加えて、友達という不可侵で不可思議な絆を投げ捨てるようなことをして、自分の本質を見抜いた人間がこの世に闊歩してて、これで安閑としてられる方がおかしいか。
「音楽の話題を出さなければね!」
宮橋は自信満々に高笑いした。こっちも笑ってあげたいのだけど、脱力感が勝って、引き攣ったような微妙な表情を返していた。アドレナリンが元の住処に帰っていく。心臓に悪いから勘弁してほしい。
「今日も帰りに遊んでこうと思うんだけど、どう?よっすーも来ない?」
「え、私はー……少し勉強しないとやばいかなぁーって、ね」
「まじかー。うっかり絶対音感は絶対必要とか、音楽の話題を出しちゃったらどうしよ。流血沙汰になっちゃうよ」
「私に仲裁させるつもりだったの」
「はいー、その通りですぅー」
「はぁー……、まあいいよ。まだ四月だしね」
「ありがとよっすー愛してるーっ」
適当にピースサインを振り撒きながら、宮橋は他の人を呼びに行った。それくらい軽々しく愛してくれればなぁと、鏡花は重過ぎるんだよ。ともかく、まだ私は人の為になれる。いや、為になると人から思われて頼られた。定期的に確かめて噛み締めて味わわないと、落ち着かなくなってくる、暗い部屋でせぐくまりながら、悩むということの上っ面だけをなぞるだけの、無駄な時間を作ってしまう。
することも無いので、宮橋の後を追い掛けようとして教室を出た矢先、見慣れた姿形の人影が通り掛かった。見慣れたなんて言葉を濁すまでもなく、それは鏡花だった。
同じ学校に通ってる以上、幾度となく遭遇はしてるけど、今回ばかりは足を止めざるを得ない。目がばっちり合って、しかも隣に永田がいて、私は世界で一番見られ方を気にする生き物なのに。
「あぁ、久しぶり……?」
普通にしてるのも変なので、ぎこちないぐらいが丁度いいって正当化していると、永田のほうが「よっすー」とだけ、空気を読んで応じてくれた。一方の鏡花は堅苦しく、瞬きしかしない顔でこちらを見つめ続けていた。昔々はよく御覧に入れた気がする。冷静に安全圏からその事実を振り返ってみると、すごく不気味に思えてくる。いくら自分の欲求を満たすためとは言え、よくもこんな人に接しようと考えたものだな。
ここで、せっかくだしさっき貰ったスティック状のお菓子を横流しすることを思い付く。さすがに鏡花なら、諸手を挙げて食べてくれることだろう。何となく、鏡花ってチョコレート味を選びそうな気がするし、丁度よかった。いやいや、鏡花なら選べなくて、相手方に気遣われて全部獲得するのかな。んーと、だからこそ、最初に手に取るのはチョコレート味で、お菓子売り場の子供のような眼差しで相手を牽制して、全部の味を獲得する……何を考えてるんだ、私は。鏡花の生態を分析する必要があったのは、鏡花と関わるからであって、そう、動物園の飼育員みたいなものなのである。もうこれ以上、知る必要なんて無いはずだ。
「要らないよ」
カバンからさっきのお菓子を取り出すと、まだ何も言ってないのに、向こうから拒絶反応を示された。
「え、あぁ、要らないの」
「行こ、寧々子」
「んぬー、かっこ付けてる?」
「付けてないっ!」
鏡花は永田も置いてく勢いで踏み出していった。
彼女にあったのは無関心ではなく、むしろ過剰に意識して、見せ付けるような態度だった。私には鏡花がわからない、これ以上わからなくならなくて済むと前向きになってたのに、なぜかますます分からなくさせられた。遡れば、私が友達ごっこなんて辞めるって言った時、なぜ拍子抜けなほどにあっさり手を引いたのか、そんな疑問に追い打ちを掛けるように、それを望んで履行してるようで、気味の悪さを覚えた。
って、だからっ!鏡花のことを考える意味はないんだよ、私!もう、永遠に更新されない友情なんだから、早く消えてほしいんだけど。まるで死人に翻弄されてるようで腹立たしい。私の中で鏡花という人間は死んだのである。そして向こうとその気を共有できてるのは好ましいことなんだっ。
残り一年の高校生活、私はそれを大切に慎重に歩んでいきたい。だから、そこに鏡花の居場所は存在しないのだ。確かに私にも意志薄弱な部分があったと反省しつつ、鏡花についての思考はこれまでにして、向こうから歩いてくる宮橋たちの方向へ、多少大げさに手を振った。
「鏡花ちゃんまでよっすーと仲悪くなっちゃったの、どうしたのー?」
永田が肩を揺すって、そう問い掛けてくる。けど、これは心に決めたことだから、絶対に覆さない。縁佳のように、刹那を重ねて生きるような真似はしない。
もうどうせ、何も元に戻せないし戻らないんだから、いくらでも高望みすればいいじゃんって発想に至ってしまったのである。まあ、縁佳から友達を辞めようって提案されるのには驚いたけど、それが無ければ私から切り出すつもりだった。無くなってから気付く大切さ、それに訴える。そういう作戦。
という話を永田にはしてなかったので、これを機にしておいた。我ながら狂ってるの一言で言い尽くせてしまうと思う。私だって、縁佳しかない空っぽな器なのだろうな。とてもじゃないけど、縁佳の歪んだ本質を笑ったりできない。
「辛くはないの……?」
永田は春の昼下がりの暖かな日差しに怯えて、手で目を覆いながらそう聞いてきた。
「縁佳は言うと思う。あんたたち以外にも友達はいるって。その通りだよ、寧々子とか諸熊さんとか、私は一人じゃない。だから安心して縁佳を追い求め続けられるのかな」
思ったほど永田は私の恋愛哲学に興味がないのか、芳しくない適当な返事しかしなかった。その代わり、校門を出ると右に曲がろうと提案してきた。どうやらまた散歩しようってことらしい。家に帰ってから縁佳とメッセージを交換する用事も今や無くなってしまったし、不自然な動きで永田の歩幅に合わせた。
世界は春の暢気に包まれて、鳩が平和を謳歌している。気候に負けず、私自身も安閑としていた。縁佳がいなくてもこんなに穏やかでいられるとは。去年の春とは正反対だなぁ。大人になって、無関心が加速したのかもしれない。いやいや、私は信仰してるだけだ。ありったけの好意と共に、自発的に戻ってきてくれるって。駆け引きで賭けができるようになったなんて、大人っぽくなったな。
「私にはできないんだろうなぁ」
「ん、何が?」
「好きな人を振り向かせるために、友達であることも辞めるっていう、思い切った手段?」
「それくらい切羽詰まった状況は、歓迎すべきじゃないと思うけど」
「まーまー、上手くいくといいね!」
永田は猫のように笑った。猫って笑うのか知らないけど。
「どうなんだろうね」
「あら、弱気?」
「私はいつまで自制できると思う?」
「んー?んー、来週?」
「私の決意がぁーっ」
「鏡花ちゃん、よっすーのこと大好きだし、どうせそのうち、遊びに行っちゃうだろうなー」
永田はそう言うけど、私に煩悶してほしくなくて言ってるんだろうけど、でも、刹那的な欲望に負けて、縁佳の望む通りの友達になってしまったら、次こそ一生そこから進展させられなくなる。しかもこっちは、生徒会長選挙のことで縁佳に対してずっと負い目を持ち続けることにもなる。私は縁佳を傷付けたかったわけじゃない。彼女の借り物のプライドを壊したかった。それを成し遂げるためには、これしか方法が思い付かない。
「え、あ、ごめん、悪かった。鏡花ちゃんに忍耐力がないって聞こえるよね。そんなこと無いのに」
「なのかなぁー」
「それだけ強い想いを、ずっと一途に持ち続けられるんだから。誇ってもいいと思うよ」
相手が相手なだけに、素行が素行なだけに、そんな風に褒められた覚えがなくて、永田の言葉だったとしても、疑ってかからずにはいられなかった。執念って拘泥って、そんなに良いイメージの単語じゃない。
「んーー」
「あっ、それより海だよ海、綺麗だねやっぱり眩しいね」
永田は私の肩を叩いてから水平線の向こうを指さした。永田謹製の散歩コースの一番の見所、海が見える曲がり角である。ここだけ切り抜くと、どこか田舎の漁村にでも来たようで、非日常に沈みそうになるような、普段は何とも思ってない喧騒を憎みたくなるような、そんな気分になる。
眩しい光に照り付けられて露わになる揺れる水面、それは引き返せない所までやってしまった私の動揺を示し、道端の日陰から流れる雪消の小川は、溶けかかった頑なな縁佳を、はたまた綻びが生じ始めた私の意固地さを示しているようで、同じ季節なはずなのに、前回とは全く違って見える。
肌寒い風が背後の林を揺さぶって、辺りは清籟で包まれる。背中を押されてるのか、それとも立ち止まって雑念を洗い流してくよう勧められてるのか、目を背けたいから目を閉じた。
「鏡花ちゃん」
「んはっ、はい?」
「行こうか」
「うん……」
「あれ、やっぱ吠えたい?」
「まさかね、今の私に吠える必要なんてないんだから」
「そっかー」
私という存在は今や誰の目にも明らかで、だとしたら当てのない存在証明なんてする必要ないじゃないか。叫びたい気持ちを恥じらって、永田より早く回れ右をした。
「あ、あの、今日の放課後、暇かな。安栗が前みたいに勉強会しようって」
帰りのホームルームが始まるのを、黒板の上の時計に時間が早く進むよう念を送りながら待っていると、視界の端から鑓水がぬるりと低姿勢に滑り込んできた。
「もちろんもちろん、聞かれるまでもなく」
「あぁ、ありがとう。私一人であいつの相手をするのも、中々骨が折れるから助かるよ」
鑓水はぺこぺこ頭を軽く下げながら、自分の席へ戻っていった。気苦労は人それぞれだなぁーと思った。
それで、ホームルームが終わってから、安栗とも合流して三人で駅の方向に歩いた。アスファルトは既にいつもと違う色をしていて、空を見上げると灰色の雲が空を覆っていて。外を出たのが、ちょうど雨の切れ目で助かった。もう少し遅かったら、また雨が降ってきそうだ。
「モロックマが来れないってさー」
「あら、またか」
「忙しいんじゃないかな、受験生だし」
「一応、勉強会なんだけどっ」
「お前と勉強しても捗らないんだろ」
「そうなのかー?理由が分かんないとむずむずするし、なんでか聞いてみよう……」
「おい馬鹿、辞めなさい、デリカシー無いの?」
「いやだって、なんでか気になるじゃんー」
「一人で勉強したいんでしょ。それ以上詮索しないであげなよ」
「そうならそうって返してくれればいいのに」
「はぁ、これだから安栗は……」
鑓水がこめかみを擦りながら溜息を吐く。その姿には、どこか縁佳と重なる部分があるような気がした。相手を理解するということは、相手の欠点や醜態を直視することでしかない。人は悪い部分しか見ない、そういう生き物なのである。それでも、溜息で済ませられるのは、幸せな証なのだろう。まあ、この二人が私のように恋愛感情をいだいてるのかは、確かめる術もないわけですが。確率論的な見地では、無い……はず。
「でも二人とも、最近のモロックマさー、単純に元気ないと思わない?」
安栗はくるりと回って、後ろ歩きを始めた。
「うん、まー、確かに」
「私たちと違って、将来のことを真剣に悩んでるんでしょ。あぁ、鏡花さんは違うよ?」
「いやいや、私も志望校なんて決まってないし……」
「まあ?モロックマのことだから、しばらくしたら普通に戻りそうだけどさー」
「それは違うよ。今は健全でも、いつ立ち行かなくなるか分からない。誰々だから大丈夫って高を括るのは良くない」
言いたいことは言い終わったので、吐き出してしまった分の空気を口から細く吸い込む。……なんで急に黙るの!?
「ん……、変なこと言ったかな……、」
「いやいや、その通りだよ。だってさ、安栗」
鑓水の投げやりに、安栗は腕を組んで顎を触りながら考え込み、たまに電柱を器用に避けて、そして何かを閃いて強く頷いた。
「ふむ。よし決めた、鏡花ちゃん、君を諸熊明世救済委員会特命隊長に任命しよう!」
「何?荷が重いんだけど」
「君の仕事は、モロックマに別件を装い接触し、こやつの肩の荷をそれとなく探るのだ!」
「なぜ私が」
「んー、この三人の中だったら、モロックマに一番信頼されてそうだから?」
「そうかなぁ」
「また適当こいてる……」
自信に確信に満ちた安栗に対して、後ろの二人には冷ややかな風が共有される。しかしまあ、あんな高説をしてしまった手前、引き受けないわけにはいかないか……。私は人知れず頷いていた。
そういうわけで私は、翌日から明世の行動を注視してみた。と言っても、昨今は縁佳に魂を奪われていてあまり目立たなかったけど、なんてこと無いただの人を観察する習癖が、私という生き物には実は備わっていて、その一環で明世のことを元々よく観察していた。なので、異変は安栗に言われるまでもなく気付いている。
明世は授業間休みとか昼休みになると、よく私の元にも雑談しにやってきていた。だけど最近は来なくなって、明世と話すのはそれなりにわざわざエネルギーを使うので、それ自体は省エネになって良いんだけど、通り掛かった時に明世のクラスを覗くと、自分の席でたそがれてたりするのである。
追及する仲でもないと思ってたけど、誰かに背中を押されたら、免罪符を発行されてしまったら、どうにかしなきゃって居ても立っても居られなくなるのも私の性だ。
明世は時々、休み時間になると教室を離れて、人気のない校舎の端の階段で、ゲームに熱中してるかのように、はたまたSNSで闘論に勝とうと必死になるかのように、壁に頭頂部を付けながら、スマホにのめり込んでいるのだった。一度目は見逃してしまったけど、後からふつふつと見過ごせなさが沸いてくる。明世から見た私は、こんな感じだったんだろう。例えるなら、道端で人が倒れてるみたいな、見て見ぬふりをするのは道理に反してそうな感じ。
というわけで、また校舎の端で一人孤独に項垂れてる明世に、三割ぐらいの勇気で声を掛けた。
「も、諸熊さんっ!」
「うっうわっ!?はい、何でしょう。しまちゃんか、なんだ、びっくりしたー」
まあ、驚かすつもりだったから、びっくりされて当然である。
明世はわざわざ意味深にスマホを後ろ手に隠し、防火扉に背中を擦り付ける。腕が防火扉にぶつかった音が廊下に響いた。
「がすよのことで、何か相談かな?」
「こんな場所で何を見てたの?」
「え?いやぁ、ただ単純にLINEしてただけだよ。それだけそれだけ」
「誰と?そこが一番重要だけど」
「誰って……。察しが悪いなぁ、しまちゃんは。あの人に決まってるじゃない。とにかく、株で大損しそうとか、そういんじゃないから安心したまえー」
「それでも、わざわざこんな場所に来て、隠れるようにやましいようにする必要ある?」
「それはぁーほら、あんまり人に見せたくない内容というか、ね?」
「人に見せられないような内容を送ってるの?」
「違う違うっ!いや違くはないのか。あのー、どうしても相手によって文体って変わっちゃうじゃん?だからさ、友達に覗き見られたら恥ずかしくて……。しまちゃんだってそうじゃないの?」
「別に。全然見せつけてやるけど!」
よりにもよって私に聞いてしまったのが運の尽きだと思う。縁佳に送ってしまったことが最大の恥辱なので、明世に見られようとどうでもいい。とりあえずスマホを取り出して、縁佳との会話履歴を開いた。ただの私と縁佳のやり取りなのに、明世は怖さと怖いもの見たさが入り混じったような表情で、慎重に壁から離れて首を伸ばした。
「ちゃんとブロックされてる……」
「友達ごっこは終わりらしいからね」
「うぅーんと、しまちゃんが一方的に喋ってるのが多いな。文字数を比にしたら5:1とかじゃない?それに、必ず会話がしまちゃんで終わってるよね」
「そうなのかな」
「あぁ、もしかして、会話が終わりそうになったら、無意識のうちに延命しようと躍起になってる?」
「さあ」
「んー、だよな、無意識下の行動を自覚してるか尋ねても意味ないよな」
明世の人差し指は、自然な流れで私のスマホに伸びて、次々と過去にスクロールしていく。その瞳孔は間違いなくいやに輝いていた。そこでふと電撃が走る。黎夢との会話履歴には、明世の悩みとやらのヒントが隠されてるのではないだろうか。そうと決まれば反転攻勢だ。
「で、諸熊さんはどうなの、人の秘密を暴いておいて、見せてくれないなんてことは無いよねっ」
「はへ!?えぇー……」
「見せて、くれるんだよね」
「面白いものじゃないよー?」
「私と縁佳のは、面白いと思ったってこと?そういうこと?」
「あぁ、えや、二人のは面白いよっ。当事者じゃないというのを抜きにしても、しまちゃんが必死すぎてさぁ。これとか、まるで灯ってもない火が消える寸前みたいで、凄いかも」
「今日バイトも生徒会の仕事もないんだよね」「家に着いたら連絡するって約束は?」「私とは話したくないのかな」「私のことは嫌いですか」「はいかいいえだけでも」「お気遣いは自由なので何か答えて」「おーい」「事故ですか?」「救急車呼びますよ」「11まで打ちました」「辞めろ!」「中学校の知り合いに遭遇して話が弾んだの」「それ誰、教えて」「縁佳の友達なんでしょ」「縁佳の友達は把握したいから」「教えられるわけない」「身の程は弁えました」「襟は正しました」「どうぞ」「先回りするな」確かに、この文面からは私からの一方通行で病的な愛しか見えてこない。……悲しいかな、紛れもなく現実を反映してる。でも、それはそれで快感だったのかもしれない。他の悪いことから目を遠ざけられるから。
「わ、私のことはいいからっ。早く見せて!」
私がそう急かすと、明世はようやく重い腰を上げて、いつの間にか懐にしまっていたスマホを、口の端をわざとらしく歪ませながら取り出した。
「しまちゃんは、よくも臆面なく公開したねぇ……。恥ずかしいんだけど……」
「自分が間違ってるって、心のどこかでは疑ってるからじゃないの?私も昔はそうだった」
「それは……あるかも」
明世の明世らしからぬ部分が煮詰められたようだった。実直で親切でお節介な所、そして我を忘れて縋りつく所。黎夢のインスタの投稿を張り付けて、どんな間柄の奴と、いつどこに行って何をしたのか、大学の授業は?仕事は?と立て続けに矢継ぎ早に詰り続けている。似た者同士の親近感、それが明世に対していだいていた感情の正体だったのかもしれない。それは引力にも斥力にもなり得る。
「私と同じ事やってない!?」
「だってさ、しょうがないじゃん、不安なんだもん!何もかも、確かめずにはいられなくて……」
「もしかして、そのことでずっと悩んでたの……?」
「うぐっ、気付かれてたかっ。はぁ、情けないな私」
明世は額に手を当てて、歯を食いしばるようにして、己の不甲斐なさを嘆いた。安栗に探れって言われたから探ったけど、この後どうするのか全く考えてなかった。人の痛い所を突いて終わりって、茶化してるみたいで良くない。右足のつま先を床に立てて、足をくるくる回しながら、不慣れに励ます。
「だ、大丈夫だと思うよ。ほら、あの縁佳と違って、宇野木さんは全部の疑問に誠実に答えてくれてるし」
「うぅーん……、でもこれって、あの人には何の得もないよね。そもそもの話、私なんて必要ないんだ。私がいなくても、向こうで上手くやれてるんだから。しかも最近は、活躍してる姿を見てると、私抜きで成功してるのを見ると、複雑な気持ちになるばかりで。邪魔してる、縛り付けてるんだよ、離れたほうがいいのかもしれない……」
「早まらないで、落ち着いてっ。宇野木さんはそんなこと思ってない……と思う。根拠はないけど!」
「思われてなかったとしても、自覚は芽生えてしまうから。しまちゃんはどうなの、自分に自信がなくなって、この人の近くに居ていいのか、分からなくならない?」
「持論だけど、一度受け入れてくれた相手なら、あんまり考えずに身を委ねていいんじゃない?……と思ったり。私はそうしたよ。んー……?それで上手くいかなかったのでは……?」
明世は深刻そうに頷いてくれたけど、やっぱり持論なんて話すべきじゃないなと反省した。そもそも、迂闊に人の気鬱に横槍を刺すべきじゃない。すごい昔はすごい気を遣ってたけど、直近では縁佳とばかり関わってて、その臆病さを失いかけてた。
「えっと、ところで、卒業してから会ったの?」
「新幹線に乗るのを見送ったのが最後かなぁ。夏休みには帰ってくるかもしれないけど、だからって、ずっとこっちに居るわけにもいかないだろうし」
「もうすぐ三か月……」
そう呟きつつ、縁佳と絶交してから何か月か指で数えた。その二倍は越えてた。よく発作を起こさずに今日まで生きてられたな、自分。
「いつでも会えるって状況は、それだけでもはや救いなんだよ。しまちゃんだって、そうだよきっと」
「親密な関係なら、そうなんじゃない。今の私にとっては拷問でしかないよ」
「いやいや、廊下を歩いていたらたまに見掛けて、教室を覗いたら十中八九見つけられて、触れられなくても存在を確かめられるだけで、少しは心が軽くなってるはず。実物をその網膜に映せなくなったら、今の均衡は崩れちゃうんじゃないかな」
明世は話の流れを華麗に私への訓戒に転換しながら、これ以上正気を失わないためにスマホをしまった。
でも明世の言い分の通り、同じ学校で同じ時間を共有している、その事実は逃げ道だ。その前提があるから私は期待するし妥協できない。縁佳がそのつまらないプライドを自ら折って、孤独から解放されたいと切に願ってくれて、自分から歩み寄ってくれて、そうじゃなかったら私の恋は成就しないのだと。でも、タイムリミットというものは確かに存在していて、それに偏執して全てを失うぐらいなら、小指の先に乗るぐらいの友情でも残すべきなのだろう。
まあ、それは絶対に選べない。というか逆説的に、縁佳なんて人を好きになるような好事家は、それを選ばない。縁佳の全部を手中に収めないと気が済まないのだから。
そんな思い込みが顔から溢れ出てたのか、明世が心配してきた。
「私はしまちゃんが、いや二人ともが心配だ……。この喧嘩をきっかけに、そのまま疎遠になっちゃいそうだよー……」
「でも、縁佳から来てくれなきゃ、私が望む関係にはならないから。想いが消えないうちは待ち続けるよ」
「もしかして、同じ大学を目指してたりする?」
「うぐっ、……まだ目指してない」
「まだって何よ。かく言う私も、あの人と同じところを目指してるから。否定は断じてしないけども」
「だって、縁佳の志望校とか知らないし。知る術もないし。どうしようーっ」
「分かった。話を聞いてくれたお礼も兼ねて、同じクラスの私が探ってみるよ」
「でも、諸熊さんも巻き添えで仲悪くなっちゃったじゃん。答えてくれるかな」
「例えば模試の志望校欄を、後ろからこっそり覗くとか?」
「んんー……まあいいか。物理的な距離を置いて、本当に疎遠になってしまいたいのか。それを縁佳に決めさせられるんだから。私は縁佳に選択を迫り続けたい。そうして、私のことを片時も忘れさせない。そうすれば、自分の意志が間違えたと気付いた時、必ず私のところに戻ってくるから」
私が力説すると、明世は眉を寄せて、負けじと本心を嘆き掛けるように溢した。
「二人は本当に、そりは合ってるのにねぇ」
「ごめん……。私がこんなに強欲でわがままじゃなかったら、諸熊さんから友達を一人奪わなくて済んだのに」
「いいのいいの。いつかこういう事をやらかすって、理解した上でがすよと付き合ってたから。なので、しまちゃんは好きに追い求めたらいいよ。そのためのお手伝いは何でもするし、いつ戻ってきてもいいように、セーフティーネットを張っておくつもりなので」
「じゃあ、縁佳の志望校を探るの、お願いするね」
「頼まれましたー」
って、明世のあまりに頼り甲斐があるのでつい頷いてしまったけど、元を辿れば私が助けてほしいんじゃなくて、明世が悩んでるから何とかしようと思って話しかけたんだった。ちゃっかり話題をすり替えられている。違う違う、今の私は明世の為になることをしないとっ。
「あっあの、じゃあそのお礼のお礼に、私は常葉お姉ちゃん経由で宇野木さんに、諸熊さんが寂しがってるよーって伝えてあげるよっ」
「えっ、そそっそれはやらなくていいからぁっ、しまちゃんーっ!」




