第90話 短い脚にも、居場所はある
翌朝、ユウはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄明るく、村の家々の屋根には夜露が残っている。遠くから鶏の鳴き声が聞こえ、東の森を越えてきた風が、開けていた窓の隙間から部屋へ入り込んでいた。
寝台の上で身体を起こしたユウは、しばらく窓際の床を眺めていた。
そこには、まだ何も置かれていない。
昨日、ベルの作業場で作り始めた小さな台は、脚を三本切ったところで作業を止めている。二本は予定した長さにできたものの、三本目は鋸を当てる位置を間違え、少し短くしてしまった。
失敗した瞬間の感覚は、今も覚えていた。
切った木材を並べ、端が揃っていないことに気づいたとき、胸の奥が冷たくなった。
ほんの少しの長さの違いだった。
それでも、せっかく教わったことを守れなかったという悔しさは、思っていた以上に大きかった。
(今日は、どうするか決めよう)
ユウは寝台を離れ、顔を洗った。
昨日の夜に書き直した図は、卓の端へ置いてある。予定していた高さと、短くなった脚に合わせた場合の高さが、それぞれ書き込まれていた。
どちらにするかは、まだ決めていない。
ベルに相談してから考えるつもりだった。
ユウは朝食を用意しながら、ふと以前の仕事を思い出した。
施設では、何かを間違えたとき、すぐに対応しなければならないことが多かった。
もちろん、利用者の安全に関わることなら、それは当然だった。
けれど、急いで修正しようとするあまり、自分が何を間違えたのかを落ち着いて考える余裕がなくなることもあった。
今回の木工は違う。
昨日の失敗を、今日まで持ち越しても誰かが困るわけではない。
時間をかけて考えられる。
そのことが、ユウには少し不思議だった。
◇
マーサの家では、エレナが朝食の支度を手伝っていた。
鍋の中では豆と野菜が静かに煮えており、台所には温かな匂いが広がっている。エレナは木の匙で鍋をかき混ぜながら、昨日ユウが見せてくれた短い脚のことを思い出していた。
ユウは、失敗したことを悔しいと言っていた。
けれど、台を作るのをやめるとは言わなかった。
今日はベルと相談し、どう直すかを考えるはずだ。
「エレナ、火を少し弱くしておくれ」
「あ、はい」
マーサに声をかけられ、エレナは慌てて鍋の下の火を調整した。
マーサはその様子を見て、小さく笑った。
「何か考え事かい?」
「……少しだけ」
「ユウの台のこと?」
エレナは頬を赤らめた。
「はい。今日は、どうするか決めるとおっしゃっていたので」
「そうかい」
マーサは器を並べながら頷いた。
「気になるなら、あとで見に行けばいいさ。ただし、ユウが作業に集中してるときは邪魔しないようにね」
「はい。ベルさんにも、先にご挨拶します」
エレナは頷き、鍋をもう一度かき混ぜた。
ユウが何を選ぶのか。
短い脚に合わせるのか、新しい木を使うのか。
どちらになっても、エレナはその理由を聞いてみたいと思っていた。
◇
午前中、ユウはベルの作業場へ向かった。
作業場の前では、ニコが小さな木片を手にして立っていた。
「ユウ兄ちゃん、おはよう!」
「おはよう、ニコ。今日は何してるの?」
「じいちゃんに、これ見せるんだ!」
ニコは手の中の木片を差し出した。
表面には小さな穴がいくつも開いている。
「虫が食べた跡かな?」
「たぶん! でも、どんな虫か分かんないんだ」
ニコは少し残念そうに言った。
ユウは木片を眺めた。
穴の大きさは揃っておらず、いくつかは表面から奥へ続いているように見える。
ただ、どんな虫が作ったものなのか、ユウには判断できなかった。
「ベルさんなら分かるかもしれないね」
「うん!」
ニコは嬉しそうに頷き、作業場の中へ駆け込んだ。
ユウもそのあとに続いた。
ベルは作業台の前に立ち、昨日切った三本の脚を並べていた。
「おう、来たな」
「おはよう、ベルさん」
「昨日の続きだな。まず、どうするか考えてきたか?」
「うん。短い脚に合わせて、ほかも切り直す方法を考えてみた。でも、台が低くなりすぎないか心配で」
ベルは頷いた。
「なら、まず実際の高さを確かめてみろ」
ユウは紙を広げ、昨日書き込んだ数字を見せた。
ベルはその数字を確認し、作業台の上に短い脚を立てた。
「これくらいの高さになるな。お前の窓際なら、使えなくはないだろう」
「うん。でも、脚の長さを揃えるために、まだ使える二本を切るのは少しもったいない気もして」
「そう思うなら、別の方法を考えればいい」
ベルは作業場の隅から短い木材を一本取り出した。
「新しい脚を作るなら、これが使える。昨日の木と同じくらいの太さだ」
ユウはその木材を受け取り、長さを確かめた。
十分な長さがある。
これなら、予定していた高さの脚を作れそうだった。
「じゃあ、短く切った一本は?」
「別のものに使えばいい。木は一度切ったら終わりってわけじゃない」
ベルは短い脚を手に取り、作業台の端へ置いた。
「小さな補強材にすることもできるし、別の練習に使ってもいい。ただし、無理に今回の台へ使おうとする必要はないぞ」
ユウはその言葉を聞き、少し考えた。
短く切った木を、何とかして台に使わなければならないと思っていた。
失敗した材料を無駄にしないために。
けれど、無理に使おうとして台そのものが不安定になってしまえば、本末転倒だ。
(使い道を考えるのと、無理に使うのは違うんだな)
ユウは短い脚を見つめた。
「……新しい木で、三本目を作り直したい」
ベルは頷いた。
「それでいい。なら、昨日の失敗を忘れずに切れよ」
「うん」
ユウは新しい木材を作業台へ置いた。
◇
作業を始める前に、ベルはニコが持ってきた木片を確認していた。
「これは古い木だな。どこで拾った?」
「家の裏! 積んであった木の下に落ちてた!」
「そうか。穴は虫の跡だろうが、今も中にいるかは分からんな」
ニコは少し残念そうな顔をした。
「黒い虫じゃないかな?」
「穴だけじゃ分からん。虫を見つけたら、また教えてくれ」
「分かった!」
ニコは木片を抱え、作業場の端へ移動した。
ユウはその様子を見ながら、ベルへ尋ねた。
「木の中に虫がいると、家具にも影響するの?」
「種類によるな。だから、使う木は状態を確かめる。穴が開いてる木を何も考えずに使うわけにはいかん」
「なるほど」
ユウは自分が使う木材へ目を向けた。
表面に目立つ穴はない。
ベルが選んでくれた木だから問題ないだろうが、自分でも確かめる習慣をつけた方がよさそうだった。
ベルはニコへ、刃物を使う場所から離れるよう伝えた。
ニコは素直に頷き、作業場の入口近くへ移動した。
ユウは木材を固定し、鋸を手に取った。
昨日と同じように、最初の一本を基準にして長さを測る。
ただし、今日は印の位置だけでなく、残す側と切り落とす側をはっきり確かめた。
「ベルさん、ここでいい?」
ユウが尋ねると、ベルは近づいて確認した。
「そうだ。印を残す側に刃を通すなよ」
「うん」
ユウは頷き、鋸を動かし始めた。
昨日より慎重に。
けれど、必要以上に怖がらずに。
木材を切る音が、作業場に響いた。
◇
エレナが作業場へ到着したのは、ユウが新しい三本目の脚を切り終えたころだった。
入口から中を覗くと、ベルが木材の長さを確かめているところだった。
「こんにちは」
「おう、エレナか。入っていいぞ」
ベルが声をかける。
エレナは礼を言い、作業場へ入った。
ユウは鋸を置き、顔を上げた。
「エレナさん、こんにちは」
「こんにちは。今日は、作業が進んでいるのですね」
「うん。昨日短くした脚は別の用途に回して、新しい木で作り直すことにしたんだ」
ユウは切り終えた三本を並べた。
今度は、端が揃っている。
ベルも確認し、頷いた。
「大きな違いはないな。あとは四本目だ」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったですね」
「うん。昨日の失敗を思い出して、今日は切る位置を何度も確認したよ」
ユウは少し照れたように笑った。
「時間はかかったけど、ちゃんと切れた」
「それなら、時間をかけた甲斐がありましたね」
エレナは頷いた。
ユウが昨日の失敗を隠さず、今日の作業へつなげていることが嬉しかった。
ただし、まだ四本目が残っている。
エレナは作業の邪魔にならない場所へ移動し、静かに見守ることにした。
◇
四本目の脚を切る前に、ユウはもう一度寸法を測った。
最初の一本を基準にして印をつけ、残す側と切り落とす側を確かめる。
ベルは少し離れたところから、その様子を見ていた。
「今度は、自分で確認してみろ」
「うん」
ユウは木材を固定し、鋸を当てた。
刃の位置を確かめ、ゆっくり動かし始める。
木屑が落ち、乾いた音が続いた。
途中で一度手を止め、木材がずれていないか確認する。
それから再び鋸を動かし、最後まで切り終えた。
ユウは鋸を置き、四本の脚を並べた。
端を揃える。
一本ずつ確かめる。
今度は、大きな違いがなかった。
「……できた」
ユウは小さく息を吐いた。
ベルは四本を手に取り、順番に並べ直した。
「うん。これなら次へ進める」
ユウは嬉しくなった。
昨日は三本目で失敗した。
今日はその失敗を確かめ、新しい木で作り直し、四本目まで切り終えた。
まだ台は完成していない。
それでも、確かに前へ進んだ。
「ベルさん、ありがとう」
「礼を言うのはまだ早いぞ。次は天板と脚をどう組むかだ」
「分かってる。でも、今日はちょっと嬉しい」
ベルは笑った。
「なら、その気持ちは覚えておけ。木工は失敗もするが、できるようになることもあるからな」
エレナは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。
◇
昼前、ユウは作業を終えることにした。
脚は四本揃ったが、天板との組み立てにはまだ時間がかかる。ベルも午後には別の仕事があるため、今日はここまでにすることになった。
ユウは木材を作業台の端へまとめ、短く切った一本を手に取った。
昨日の失敗の跡が残る木だった。
「ベルさん、これ、持って帰ってもいい?」
「短い脚か?」
「うん。何かに使えるかもしれないし、練習用にしてもいいかなって」
ベルは頷いた。
「いいぞ。ただし、家で刃物を使うなら気をつけろよ」
「分かってる。今日は削ったりしないよ」
ユウは木材を布で包み、荷物へ入れた。
エレナはその様子を見ていた。
「その木も、ユウさんの家へ行くのですね」
「うん。失敗したまま置いておくより、何かに使えるか考えてみたいんだ」
「どんなものになるのでしょう」
「まだ分からない。でも、無理に使おうとは思ってないよ」
ユウは笑った。
「使い道が思いつかなかったら、しばらく置いておく。それでもいいかなって」
エレナは頷いた。
「私は、それでよいと思います」
ユウは短い木材を見つめた。
昨日は、見るだけで少し嫌な気持ちになった。
けれど今は、失敗したことを思い出しても、そこまで苦しくはない。
その木材があったから、今日は切る位置を確かめられた。
そう考えると、短くなった一本にも意味があるように思えた。
◇
午後、ローデンは村の記録を確認していた。
三軒目の家について、西へ問い合わせを出してから時間が経っている。バルトを通じてゼムへ伝わり、レグルが北の町へ向かったことまでは分かっていたが、その後の知らせはまだ届いていなかった。
ローデンは古い記録帳を開き、ハルトの家に関する項目を見直した。
家が建てられた時期。
ハルトとミナが暮らしていたこと。
息子のエルドが西へ移ったこと。
けれど、家の権利が現在どうなっているのかを示す記録は、村の帳面には残っていない。
ローデンはため息をついた。
エレナが住むことを望んでいるのは知っている。
ユウも、彼女があの家へ入れる日を待っている。
村としても、空き家が使われるようになればありがたい。
それでも、持ち主の確認を飛ばすわけにはいかなかった。
「急いでも、答えは増えんか」
ローデンは記録帳を閉じた。
西から知らせが届くまでは、今ある情報を整理して待つしかない。
ただ、知らせが来たときに何を確認すべきかは、考えておく必要がある。
北梟工房が見つかったとしても、それだけでエルドの所在が分かるとは限らない。
エルドが見つかったとしても、家の権利をどう考えているかは本人に確かめなければならない。
そして、もしエルドが見つからなかった場合、次にどこへ問い合わせるべきかも考える必要がある。
ローデンは新しい紙を取り出し、確認したい項目を書き始めた。
◇
遠い北道では、レグルが荷車を進めていた。
ラウゼンを出てから、道の状態は少しずつよくなっている。雨の影響が残る場所もあるが、馬の歩調を調整すれば通れないほどではなかった。
レグルは次の宿場へ向かいながら、懐にしまった紙のことを考えていた。
北梟工房は、確かに存在していた。
今は閉まっている。
建物を管理している人物がいるらしいが、その人物が誰なのかは分からない。
それが、今のレグルに分かっているすべてだった。
ゼムへ伝えるときには、確かなことと曖昧なことを分けて話すつもりだった。
名前が見つかったからといって、そこから先のことまで分かったわけではない。
その違いを、知らせを待つ人間にも理解してもらう必要がある。
レグルは手綱を握り直し、道の先を見つめた。
西の荷場までは、まだ時間がかかる。
ルーデへ知らせが届くのは、そのさらにあとだ。
◇
夕方、ユウは自宅の窓際に立っていた。
まだ何も置かれていない床へ目を向け、完成した台の姿を想像する。
天板は二枚の板を組み合わせる予定で、脚は今日ようやく四本揃った。
組み立て方を考え、必要な補強を入れ、表面を整える。
完成までには、まだいくつもの作業が残っている。
ユウは卓の上に置いた短い木材を手に取った。
昨日、切る位置を間違えて短くしてしまった一本だ。
表面には鋸の跡が残り、切り口も少し荒れている。
けれど、手に持ってみると、思っていたよりしっかりした木だった。
(これも、何かに使えるかもしれないな)
ユウは木材を卓へ戻した。
今すぐ使い道を決める必要はない。
失敗したものを、無理に成功へ変えなくてもよい。
ただ、捨てずに置いておくことはできる。
それだけで十分だった。
ユウは窓を開け、夕方の風を部屋へ入れた。
遠くでは、村の人々が仕事を終えて家へ戻り始めている。
今日も、大きな事件は起きなかった。
それでも、ユウにとっては少し特別な一日だった。
昨日の失敗を引きずったまま終わらず、もう一度木を切ることができた。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
夜、エレナは今日の出来事を記録していた。
ユウが新しい木で脚を作り直したこと。
四本の脚が揃ったこと。
短く切った一本を、練習用として持ち帰ったこと。
そして、ユウが嬉しそうに笑っていたこと。
エレナは筆を止め、少し考えた。
昨日、ユウは失敗したことを悔しいと言っていた。
今日は、できたことを嬉しいと言っていた。
どちらも、ユウ自身の気持ちだった。
エレナは、その両方を見られたことが嬉しかった。
(ユウさんは、少しずつ変わっていらっしゃるのですね)
もちろん、すべてが簡単に変わるわけではない。
失敗すれば悔しいし、思うようにいかないこともある。
それでも、ユウは自分のために何かを作り、失敗してもやめずに続けている。
その姿を、エレナはこれからも見ていたいと思った。
エレナは記録へ最後の一行を書き足した。
『ユウさんの小さな台は、まだ完成していない。でも、今日は四本の脚が揃った。』
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
遠い町からの知らせは、まだ届いていない。
三軒目の家のことも、エルドの行方も、分からないままだ。
それでも、ルーデでは今日も人々が暮らし、仕事をし、少しずつ日々を重ねていた。
ユウの小さな台も、その暮らしの中で形になり始めている。
短く切ってしまった一本の脚は、今もユウの家にある。
それが何になるのかは、まだ決まっていない。
けれど、失敗したからといって、すぐに捨てる必要はなかった。
エレナは灯りを落とし、寝台へ横になった。
明日も、ユウが楽しそうに木を削る姿を見られたらいい。
そう思いながら、静かに目を閉じた。




