032⚫️崖の上の平和主義者
エチャオピアの標高三、〇〇〇メートルを超える高地、吹き抜ける寒風の中に、’彼ら彼女ら’は生きている。
ゲラダヒヒ。名前に「ヒヒ」を冠しながらも、一般的なヒヒ属とは一線を画す独自の進化を遂げた、世界で唯一「草」を主食とするサルである。その特異な生態と社会構造を眺めていると、人間社会が抱える「暴力と権力」のあり方について、深く考えさせられずにはいられない。
オスの第一印象は、およそ平和主義とは程遠い。 彼らはライオンのような堂々たる立髪をまとい、胸元にはまるで戦傷を誇示するかのように、皮膚が剥き出しになった赤三角形の紋章を刻んでいる。ひとたび口を開けば、肉食獣をも震え上がらせるほどの鋭く長い犬歯が覗く。
しかし、この恐るべき武器は、他者を傷つけるために使われることはほとんどない。彼らは、圧倒的な武力を持ちながらも、それを「暴力」へと翻訳しない知恵を持ったサルたちなのだ。
ゲラダヒヒの社会は、1頭のオスと複数のメス、そして子どもたちからなる「家族」が基本単位となる。この家族が集まり、時には数百頭規模の大集団を形成して草原を埋め尽くす。これほどの超過密社会でありながら、オスたちの間で血が流れるような大闘争へと発展することは極めて稀である。
その秘密は、彼らの洗練された「非暴力のルール」にある。
例えば、群れのボスを決める権力闘争がそうだ。若いオスが既存のボスに挑戦状を叩きつけるとき、繰り広げられるのは命を奪い合う殺し合いではない。広大な高原と切り立った崖を舞台にして若手がボスを追いかける、文字通りの「大追跡劇」である。
人間の目にはまるで激しい鬼ごっこのように映るこのチェイスは、純粋なスタミナと地形を利用する知性の勝負だ。追いつ追われつの最中、時に彼らは上唇をがばっと裏返し、自慢の犬歯を剥き出しにして睨み合う。この「フリップ・リップ」と呼ばれるディスプレイこそが、彼らの対話だ。
「俺はこれほどの武器を持ち、これほど動ける」という事実を誇示し合うだけで、勝敗の行方は決する。実際に互いの肉体を切り裂く前に、力の差を悟った側が綺麗に身を引くのだ。
さらに興味深いのは、この権力闘争の最終決定権が、戦っているオスではなく、周囲で見守るメスたちにあるという点だ。ゲラダヒヒの社会は徹底したメス上位である。オス同士がどれほど激しく走り回ろうとも、メスたちが「今のボスの方が誠実で信頼できる」と判断すれば、結束して新参者を追い払う。逆に「あの若いオスの方が未来がある」と認めれば、その時点で政権交代が成立する。オスの暴力的な腕力は、社会の序列を決める絶対的な決定因子にはなり得ない構造になっている。
さらに敗れた元ボスの行く末にこそ、この種の寛容さが凝縮されている。 多くの野生動物の世界では、敗者は群れを追われ、孤独な死を迎えることが多い。しかし、ゲラダヒヒの元ボスは、そのまま同じ家族の中に残ることを許される。
交尾の権利こそ失うが、「おじいちゃん保育士」のようなポジションへ異動し、かつての我が子や新ボスの子どもたちの面倒を見て余生を過ごすのだ。新ボスにとっても、経験豊富な先代が群れに残留することは、天敵への警戒や群れの統率において大きなメリットとなる。ここには、敗者を社会的に抹殺しない、見事な共生システムが存在する。
なぜこれほどまでに暴力を回避するのか。その理由は主食である「草」にあるという説がある。 栄養価の低い草を一日中座ってむしり、消化し続けなければならない彼らにとって、闘争による負傷やエネルギーの無駄遣いは、そのまま死に直結するリスクとなる。生存のために選んだ「草食」という生き方が、結果としてゲラダヒヒの社会に高い調停能力と、争いを避けるための豊かなコミュニケーション技術をもたらしたのだ。
牙を持ちながら、噛まない。 脚力を持ちながら、踏みにじらない。
ゲラダヒヒの生き方は、力を誇示することと、それを行使して他者を破壊することの間に明確な境界線を引き、強固なルールを設けることができるのだと、私たちに教えてくれている。崖の上の平和主義者たちは、今日も鋭い牙を隠すことなく、ただ静かに足元の草を食んでいる。
彼らに比べ、ヒトはなぜ血まみれになりながら争うのか。 それは、肉食系と草食系という、本質的な生態の違いから起きることなのだろうか。
「アキラさん、お野菜も食べないとだめなんじゃないの?」
「そういうなよ、イヨ。オレは肉食系男子なんだ。」
「でも、体に悪いんじゃないの? ジンさんの野菜サラダや付け合せは、すごくおいしいのに。」
「まあ、少しは食べるけどな。オレはビーガンやベジタリアンの真似は、逆立ちしたって無理だからな。」
「ふ〜ん。じゃあ、草食系男子はムリでも、せめて’雑食系’になればいいんじゃない?」
エイミーは、アキラの旺盛な食欲を少しだけ羨ましそうに眺めていた。
実際のところ彼女の義体部分に、過剰な栄養素は不要なのだ。
大食すれば、すぐに体型に影響が出てしまう。
イヨとアキラの他愛のない会話を聴きながら、エイミーはジンが調理した夕食をそっと口に運ぶ。
美味しい。
この足元にある温かい場所で、みんなとごはんを食べている──。
ただそれだけで、文字通り、十分に幸せなのである。




