10 ー世間ー (鬼乃平柊子)
警察が駆けつけた時、その少女は洗面所にいて、顔もパジャマも返り血で真っ赤にしたまま、まったくの無表情でひたすらに手だけを洗い続けていた。
下半身には何も着けていない。
駆けつけた巡査は、ほぼ一目で何が起こったのかを察したが、警察の仕事は推測ではない。きちんとした捜査に基づいて、事実を明らかにすることである。
とりあえずは、まず少女を入院させなければならないだろう。
少女は口をきかなかった。無表情のまま、一言も話さない。
事件のショックから、一時的に失語症になったのだろうと医師は話した。
だが、誰もいない部屋で、誰かと会話でもするように意味不明の何かを話しているのを聞いた——と証言する看護士もいた。
この事件はセンセーショナルに報道された。
殺された「父親」を鬼畜のように報道する一方で、さすがに8歳の柊子の名前は匿名にされたが、そんなものは1日保たなかった。
殺した少女は鬼乃平柊子であることが顔写真付きでNETにUPされ、瞬く間に手のつけようもないほどに拡散した。
#カワイイ顔して怖ぇ小学生!
#全国のクソ親は覚悟しろよ
#オレも殺されたい〜〜〜♡
さまざまな反応があったが、最も多かったのは、この8歳の少女を英雄視するものだった。普通、小学3年生はここまで反撃しない。
こうした動きに、「識者」とやらが憂い顔でもっともらしいことを喋ってもいたが、そんなことは当の柊子には何の関係もなかった。
そもそも柊子はNETにアクセスするための何物も持ってはいなかったし、NETで何を書き込まれていようと、傷つくような何かなど、もはやどこにも無かった。
事件から3ヶ月が過ぎても、柊子は一言も話さなかった。
自分にはまだ、心というものがあるのだろうか——と柊子は思う。
思う、ということは、それが「心」だろうか?
何を見ても何も感じず、ただ、昼間は明るく、夜は暗い。腹がへればその辺にある何かを食べ、尿意をもよおせばその場でする。
着ているものが濡れて気持ち悪かったが、あの気持ち悪さに比べればそんなものは何でもなかった。
そんな柊子を、オトナたちは決して叱らなかった。
躾けしなくていいの?
浴槽に頭浸けなくていいの?
オトナたちが何を考えているのか、柊子にはまったくわからなかった。
終日、猫なで声で何かを話しかけてくるのだが、柊子には内容がまったく理解できなかった。
ただ、そのオトナたちが柊子に何かを求めていることだけは分かった。
でも、あなたたちに与えるようなものを私は持ってない——。
柊子はよく眠った。
すぐに眠くなるのだ。
眠くなると、所かまわず眠った。——眠ることができた。少なくとも、ここには、眠っても襲ってくるようなものはいない。
時おり、柊子にも理解できるはっきりとした言葉が聞こえた。
いつまでこんな所にいるんだ?
一緒に行こうぜ。
ただ、柊子はこの声にだけは抵抗していた。
抵抗する理由は柊子自身にもよく分からなかったが、ただこの声が聞こえるといつも、瞼の裏に「かずまくん」の顔が浮かんだ。
その「かずまくん」が、「行くな」と言っているように思えたのだ。
そんな時、柊子はあの小さな包み——ドングリのペンダントが入っている包みを、両手の平で包むように持った。
そうしていると、そこにだけ、柊子の心のカケラが残っているような気がするのだった。
6ヶ月が過ぎ、オムツが取れるようになると、柊子は養護施設に移った。当然のことかもしれないが、柊子のようなケースに「里親」という選択肢はなかった。
柊子は相変わらず言葉を話さなかったが、オトナたちが言っている言葉の表面的意味だけはとりあえず理解はしていた。病院に入った最初の頃のように「遠くで聞こえるただの音」ではなくなっていた。
その頃になると柊子は、それにうなずくか、首を横に振るかして自分の意思を伝えるまでにはなっていた。
医師は「失語症」と言っていたが、柊子の側からすれば「話せない」わけではなかった。
ただ——、何か言葉を発した瞬間、そこから柊子の形をかろうじて保っているものが風船が割れるようにして壊れてしまい、くしゃくしゃの分けのわからない何かになってしまいそうだったのだ。
養護施設は、緑の多い場所にあるそれほど広くもない敷地に、3つの戸建て住宅のようなコテージと管理棟が庭を挟んで建っているもので、職員の人数は事務職も入れてわずか10人だった。
それぞれのコテージに4〜5人の児童が集団生活をしていて、柊子が入ったコテージは中学生のお姉さんが1人と小学生の女の子が3人いた。
いちばん年下の柊子が入って、これからは5人になる。
それぞれのコテージには、そこをメインに担当する保育士が1人ずついて、その他の保育士がメインの保育士の時間外を交代で担当してゆく24時間体制のシフトが組まれている。
ここに来る子どもたちは、それだけ難しい問題を抱えた子どもたちなのだ。
その中でも、柊子のケースは特殊中の特殊だった。
もちろん、柊子は知らないが、実際には柊子を受け入れるかどうかで、この施設の全体会議が何度も開かれたほどだった。
柊子のコテージをメインに見てくれる雪野原先生は、40前後の小太りのおばさん保育士で、ベテラン中のベテランだった。
全体会議は、最後の最後にこの雪野原先生が「私が担当しますから」と言ったことで決着したのだ。
柊子はここに来てからも、よくおねしょをしたし、時にトイレに行く前にお漏らししてしまうこともあった。
(わたしの体、いうこときかなくなってる・・・)
そんなときも、雪野原先生はまったく怒らず、にこにこして後始末をした。
「気にしなくていいのよ。ゆっくり慣れていきましょ。」
雪野原先生はよく、柊子を抱きかかえて子守唄を歌った。どうやら、雪野原先生は柊子を赤ちゃんからやり直させようとしているようだった。
(そんなことしなくても、私はちゃんと8歳の意識を持ってるよ——。)
柊子はそう思ったが、ただ、思った、というだけで、そこには何の感情もくっついてはいなかった。言葉にすることもできなかった。
それでも、雪野原先生が傍にいると、少し安心できるような気がした。
「どこにも行かないからね。先生はずっと柊子ちゃんの傍にいるからね。」
雪野原先生は、ことあるごとに柊子にそう声をかけた。
ときどき柊子は「本当のお母さんというものは、こういうものなんだろうか」などと思ったりした。
相変わらず、感情と呼べるほどのものはそれに付随してはいなかったが、ただ、自分にもまだ「心」が残っていて、それにわずかだが血が流れはじめたような気がした。
この人は、ひょっとしたら信じてもいいのかもしれない——。
施設に来て半年くらい経つと、柊子の顔にも表情らしきものが戻ってきた。
まだ言葉は話さなかったが、目がよく動くようになり、時にかすかに笑顔のようなものを見せるようにすらなっている。
年上の4人も、それぞれに自分の問題を抱えてはいたが、この格段に違う状況に置かれた新しい「末っ子」が言葉を取り戻せたらいい——という共通の思いを持つことで、むしろ良い相乗効果を持つことができたようだった。
柊子自身、あの声を聞くことはすっかりなくなっていた。
このまま、取り戻せるかもしれない。失ったと思っていたものを——。




