第29話 南極の血の滝――氷河から「血」が流れ出す理由
南極大陸東部、マクマードドライバレー。白い氷河の末端から、赤黒い液体がにじみ出ています。その名は血の滝(Blood Falls)。
1911年、オーストラリアの地質学者グリフィス・テイラーがこの光景を初めて記録しました。当時の説明は「赤い藻類」でした。しかし実際に流れているのは、血でも藻でもありません。氷の下に数百万年閉じ込められた、古代の海水です。
場所と姿
血の滝は、テイラー氷河の先端にあります。氷河の白い壁から、鉄さび色の液体がファン状に広がり、下のボニー湖西湾へ向かって流れ落ちます。常に大量に噴き出しているわけではなく、時おり圧力が高まったときに、にじみ出し、染み、時にははっきりとした「滝」になります。
気温はマイナス十数度。普通なら水は凍るはずです。それでも液体で出てくるのは、この水が海水の2〜3倍も塩分の濃いブライン(高塩分水)だからです。塩分が高いほど凝固点が下がり、氷点下でも流れ続けます。
なぜ赤いのか
色の正体は鉄です。
氷河の下には、酸素のない古代の海水が残っています。そこには溶けた二価鉄(Fe²⁺)が大量に含まれています。液体そのものは、地下ではほぼ無色です。
それが氷の割れ目を通って地表に出た瞬間、空気中の酸素に触れる。二価鉄は三価鉄へと酸化し、水酸化鉄の微粒子になります。古い釘がさびて赤くなるのと同じ化学反応です。このさびが氷と土を染め、血のような赤をつくります。
近年の分析では、結晶質のさびというより、鉄を含むごく小さなアモルファス粒子が色を決めていることも分かってきました。
氷の下に閉じ込められた海
このブラインの起源は、およそ数百万年前までさかのぼります。
当時、海水面は今より高く、マクマードドライバレーには海が入り込んでいました。その後、気候が冷え、氷河が進み、海水の一部が氷の下に閉じ込められました。閉じ込められた水は、凍る過程で塩分だけが濃縮され、さらに鉄を含む岩盤と反応して、今の超塩水になりました。
テイラー氷河は、南極の多くの氷河と違い、岩盤に完全には凍りついていません。下に塩水があるため、氷と岩の間に液体の層が残るのです。レーダー調査では、氷河の下にブラインのネットワークと貯留層があることも確認されています。
光も酸素もない世界の生き物
さらに驚くのは、この水が「死んだ水」ではないことです。
調査では、少なくとも十数種類の微生物が見つかっています。光は届かず、酸素はほとんどありません。それでも微生物は、硫酸塩と鉄を使ってエネルギーを得ています。光合成ではなく、化学合成です。
氷の下で数百万年、酸素なしで生き続ける生態系。これが、血の滝を「火星や氷衛星の生命を考える実験場」にしています。エンケラドゥスやエウロパの氷の下にも、似た環境があるかもしれないからです。
2026年の研究では、流出水の中に海起源の微生物の痕跡も見つかり、「この水は、かつての海の名残である」という見方がさらに強まりました。
なぜ噴き出すのか
長いあいだ、液体がどうやって氷の中を通るのかも謎でした。
答えは圧力です。氷河が動くと、下のブラインに圧力がかかります。耐えきれなくなった塩水が、氷の割れ目を押し広げ、先端から押し出されます。噴き出したあとは圧力が下がり、氷河の動きが一時的に遅くなることまで観測されています。
つまり血の滝は、氷河の下で起きている水圧の「息継ぎ」でもあるのです。
血の滝が語るもの
見た目はおどろおどろしい。しかし中身は、古代の海と、鉄と、暗闇の微生物と、氷の力学です。
南極の血の滝は、こう示しています。
地球のいちばん寒い場所でも、水は完全には止まらず、生命も完全には消えず、数百万年前の海は、今も氷の内側から地表へ顔を出している、と。
※画像はinstagramに載せました。
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