表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/63

うつくしい日

 朝から実家でのんびり過ごし、夜を迎えた。

 夕食後、ソファに寝転んだ蒼介は、瞬く間に船を漕ぎはじめた。父さんは風呂に入りに行った。


 散らかったテーブルの上を片づけながら、

「こんな時間だし、綾人くん今晩は泊まっていけばいいのに」

 祥子さんが言った。

「あ、間違えた。もうこのままずっとうちにいればいいのに」


「ううん、今日はアパートのほうに戻るよ」

 そう断ると、祥子さんは咎めるような目を向けてから、肩をすくめた。

「強情だね」


「ごめん」

「でも、いつかはうちに戻って来るんでしょう?」

「そうだね」

「よろしい。じゃあ今日のところはアパートに戻るのを許そう」

「あ、許可制だったんだ?」

「そうだよ」

 祥子さんはふふふと笑い、僕の肩を軽く小突いた。


 熟睡する蒼介をベッドまで引きずっていってから、僕は玄関に向かった。少し長居をしすぎたかなと思う。家を出るのが名残惜しくて、ついつい帰り時刻を延ばしてしまった。


 屈んで靴を履いていると、背後に立った祥子さんが、「またね」と言った。僕は振り返り、コートのポケットから小さな包みを取り出した。

「はい、これ」


「何?」

 祥子さんは不思議そうな顔で受け取った。


「プレゼントだよ」

「ええ? どうしたの急に」

「ちょっと早いけど、生まれてくる兄弟に」


 包みを開けた祥子さんは、目を細めた。

「靴下だ。可愛い」


「いいでしょう、それ」

「うん。でも、どうしたの急に」

「別に。たまたま店で目に入ったから、買ってみただけだよ」


「そんな素っ気なく言っても、バレバレだよ。綾人くん、本当はこの子の誕生がすごーく待ち遠しいんでしょう?」

 祥子さんは悪戯っぽく言い、お腹に手をやった。


「うん。すごく待ち遠しいよ。その子は絶対可愛いよ」

「まだ顔も見てないのに、わかるの?」

「わかる。僕、その子のことが大好きなんだ」


 僕の言葉に、祥子さんはちょっと面食らったみたいだった。

「なんか今夜の綾人くん、変だよ」


「そう?」

 玄関扉に手をかける。体を冷やすといけないからと言って、祥子さんが表までついてくるのを断った。


「じゃあ気をつけてね。おやすみなさい、綾人くん」


「うん」

 僕は言った。

「おやすみ、お母さん」




 夜の道を、ゆっくりと、噛みしめるように歩いた。空気は冷えて、よく澄んでいた。曇り空で星は出ていなかったけれど、月のシルエットはおぼろげにわかった。

 ポケットに突っこんでいた両手を出して、深く息を吸った。靴の裏が、コツンと路上を叩く。この感触を、絶対忘れない。僕は全身で夜の気配を感じようとした。


 いつだったか、安在さんが言っていたのを思い出した。「わたしの勘は当たるんだよ」

 僕は、うまくやれるだろうか。

 安在さんに尋ねてみたかった。僕がこれからやろうとしていることについて。果たして成功する確率はどのくらいだろう。

 例えばほとんどゼロに近い確率だったとしても、僕にはもうこの方法以外思いつかない。


 無性に、誰かと話がしたかった。だけどそれが誰なのか、具体的な顔が浮かんでこない。裕司も安在さんもいなくて、桐丘も僕の前には現れない。

 本当に話がしたい相手なんて、いつだってたったひとりだ。


 交差点に差しかかった。アパートへ帰るのとは逆の道を選ぶ。シャッターを下ろした商店街を通り、中華料理店の角を曲がって、裏通りを行く。

 クリーニング店とコインパーキングの間に、バラの花が咲いていた。この道は今までに何度か通ったことがあるはずなのに、僕は初めてその花の存在に気づいた。暗がりの中で、薄桃色の花弁が揺れている。濡れた路面に外灯が当たり、発光しているように見えた。


 裏通りを抜け、土手を上り、川に沿ってしばらく歩いた。視界に現れた橋を、真ん中あたりまで渡ったところで、足を止めた。

 欄干にもたれ、スマホを操作する。小松原さんにメッセージを送った。


『明日、僕の部屋に来てもらえるかな。小松原さんに渡したいものがあるんだ。うちに来たとき、もし僕が留守にしていたら、勝手に部屋に上がってくれていいから』


 返信は待たなかった。

 大きく腕を振り上げると、川に向かってスマホを放った。

 振り向くと、反対側の歩道を歩いて来た男性が、今の僕の行いを何か言いたげな様子で見ていた。

 これからご迷惑をおかけします、と男性に向かって心の中で詫びた。あなたを目撃者にしてしまうこと、どうかお許しください。


 両手をついて身を乗り出すと、勢いをつけ、左足を橋の欄干に引っ掛ける。続いて右足もかけ、体重を乗せて伸び上がった。多少ふらつきつつも、なんとか欄干の上に立つことができた。


「おい、あんた、何してるんだ! 危ないだろ!」

 背後から聞こえてきた男性の声を無視して、両腕を水平に広げる。頭は動かさずに、視線だけを川面に向けた。暗く淀んだ水が、ぬらぬらと波立っている。


 目を閉じ、息を整えた。

「想乃」

 祈りをこめてつぶやく。体全体を前に傾けた。両足が欄干から離れる。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ