くろ色の日(3)
つまり、わかるでしょう? 小松原さんが暗い目をして言う。
「わたしから出た悪意が、絵里奈ちゃんを襲った。わたしのせいで絵里奈ちゃんは死んだ。わたしが絵里奈ちゃんを殺したの」
教室で意識を失い崩れ落ちる寸前、小松原さんの中にはあったのは罪の意識だった。
「だけど」
僕は慎重に言葉を紡いだ。
「その糸は元々、小松原さんの思いやりが生んだものなんじゃないの? みんなを苦しみから助けてあげたい。そうして悪い感情を巻き取ってあげた結果、生まれた糸なんだろう? だったらこれは、この糸たちは、小松原さんが優しい人だという証拠だよ。だから――」
「わたしは悪くない? 絵里奈ちゃんが死んだのは、わたしのせいじゃないって? 本当にそう言い切れるの?」
先回りして、小松原さんが言う。
僕は即答できなかった。
「小松原さんが狙ってやったことじゃないのなら……」
「そうだとしても、やっぱりこの糸を生み出してしまったのはわたしだから。ねえ的場くん、わたしどうすれば正解だったのかな。この悪意を、ずっと体の中にとどめておければ良かったのに。それが無理なら、最初から誰かの苦しみを引き受けるなんてこと、しちゃいけなかったんだよ」
「そっちのほうが無理だよ。目の前に弱っている人いたら、助けてあげたいと思うのが普通だろう」
僕は必死だった。このままでは小松原さんの心が壊れてしまうと思った。
「小松原さんは人として当たり前のことをしただけ。善意の結果なんて、みんなそこまで気にしないものだよ。だから今回のことで無闇に自分を責めたりなんかしないで」
「善意、ね……」
小松原さんは、今まで聞いたことのない低い声を響かせた。
「だけど例えば、わたしの中に善意なんてものが存在しなかったとしたら?」
「え……」
ぞくりとした。
その瞬間、僕は自分の犯した罪に気づいた。
僕はずっと前、それこそ初めて小松原さんと言葉をかわした日から、何度も何度も間違いを重ねていたのだ。
「美南ちゃんと昔みたいに話せるようになって嬉しい。あの頃のような関係に戻れて良かった。そう思う自分とは別に、もうひとりのわたしがいるの。美南ちゃんに激しく責め立てられたこと、たくさん暴言吐かれたこと、今でも根に持っている自分がいるの。全部水に流して、また美南ちゃんと仲良くしたい。それなのに、美南ちゃんから屈託のない笑顔を向けられるたび、胸が騒ぐの。あんなにわたしを傷つけたくせに、何もかも忘れて笑いかけてくる美南ちゃんが、憎くて憎くてたまらないの」
小松原さんは苦しそうに喘いだ。
「おかしいよね。自分でやったことなのに。わたしなんかのことで、もう美南ちゃんが思い悩んだりしないで済むようにって、自らすすんで美南ちゃんの中の後悔や罪悪感を取り除いたくせに。今の美南ちゃんの態度はだから、わたしが望んだことなのに。それなのに、じゃあ、これまで美南ちゃんに散々傷つけられてきたわたし自身は? わたしが負った傷は、一体誰がなかったことにしてくれるの? わたしだけがこれからもずっと、ひとりで抱え続けなきゃいけないの?」
「ごめんなさい」
僕は堪えきれずに言った。
「ねえ、どうして謝るの? 的場くんが謝ることなんて何もないよ?」
堰を切ったように、小松原さんは語りだした。
「絵里奈ちゃんと友達になれた。放課後に買い食いして帰ったり、休みの日に一緒に出かけたり、すごく楽しかった。絵里奈ちゃんの家にお呼ばれして、夕食をごちそうになったりした。そういうのすごい憧れていたから、嬉しかったんだ。絵里奈ちゃんちのリビングにはね、絵里奈ちゃんの小さい頃からの写真が飾ってあるの。絵里奈ちゃんのお母さんは娘の大好物だからって、チーズケーキを焼いてくれるの。絵里奈ちゃんの部屋の本棚はね、ちょうどいいサイズのものがお店で見つからなかったからって、お父さんが手作りしたんだって。わたし、絵里奈ちゃんのことが羨ましくなっちゃった。ううん、正直言うとね、絵里奈ちゃんが妬ましかった。わたしの欲しいもの、今までわたしが夢見てきたもの、だけど決して手にできないものを、絵里奈ちゃんは当たり前に持っていた。絵里奈ちゃんの心があんなに真っすぐで清らかだったのは、幸せな家庭で大事に育てられたから。わたしも絵里奈ちゃんみたいな毎日を送ってこられたなら、きっとこんなふうに友達を妬んだりなんかしなかった」
小松原さんは忙しなく視線を彷徨わせ、ぎゅっと胸を押さえた。自分の言葉が信じられない。こんなこと言うつもりなかったのに、どうして……。そんな心の叫びが聞こえた気がした。
僕は今まで自分が見たい姿でしか、小松原想乃という人を捉えてこなかった。
いい人だかとか優しいだとか、彼女に対し頭から決めつけていた。
ちゃんと見て考えれば、わかることだった。
虐げられ、孤立して、何もかも諦めて。そうやって生きてきた人間が、まったく歪まないでいられるはずない。小松原さんは聖人でも天使でもない。困ったときには人に頼りたいし甘えたい、ときには誰かの悪口を言ったり、妬んだりもする、普通の人間なのだ。
小松原さんは早くから、僕の妄信ぶりに気づいていたのだろう。僕をがっかりさせないために、清廉潔白な人であろうとした。そのために、負の感情はすべて内に隠してきた。
彼女の中に溜めこまれ、熟成された悪意。
それが今、暴走をはじめた。
原因を作ったのは僕。
きれいな部分しか見ようとしなかった僕が、ここまで小松原さんを追い詰めた、苦しめた。
「ごめんなさい」
僕の言葉に、小松原さんは何も反応を見せなかった。
「山根くんの葬儀の後、わたし、的場くんを迎えに行ったでしょう? 一緒に帰ろうって言ったんだよ。そうしたら的場くん、なんて答えたか覚えてる?」
僕は目を伏せた。その日のことはよく覚えている。僕はあのときも、小松原さんを拒んだのだ。
「ひとりにしてくれ。的場くん、そう言ったんだよ。わたし、すごくショックだった。寂しかった。ああいうときだから、的場くんにはわたしを一番に頼ってほしかった。ねえ、わたしじゃだめなの? わたしは的場くんの力になれない?」
耳を塞ぎたかった。だけど最後まで、彼女の言葉を聞かなきゃいけない。
「的場くんの頭の中は、山根くんのことでいっぱい。わたしの入る隙なんてない。山根くんが死んだりなんかしたから。だからわたしは、的場くんやクラスのみんなから奪った。山根くんの死を悼む気持ちを奪った。みんなの心を救いたいなんて体のいい理由つけて、本当はただ的場くんの心をわたしに向けさせたかっただけ。全部わたしがわがままでやったことなの。わたしには最初から善意なんてものないんだよ。そんなのは全部、的場くんの抱いた幻想なの」
小松原さんは顔を歪めると、苦しそうに身をよじった。地面に両膝をつき、肩を震わせ、嗚咽を洩らし、咳きこみ、そうして長い時間をかけて、黒い糸を吐き続けた。
地面に落ちた糸が、ゆらゆらと動き出す。糸が寄り集まって、黒いもやのような状態になる。それはある程度の大きさになると、すいと空へと舞い上がった。どこか遠くへと飛んでいく。誰かの元へ、悪意をぶつけにいくのだろう。
ゆっくりと、小松原さんは立ち上がった。
「こんなに醜いわたしを、的場くんにだけは知られたくなかったな」
俯いていた顔を上げる。頬に涙のつたった跡が残されていた。
「死にたい」と小松原さんは洩らした。
「醜い自分を、今すぐ殺してしまいたい。わたし、もう生きていたくないよ」




