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やさしくありたい日(2)

「まあ実際、綾人の言う関係は、この絵と違うんだろうけど」

 裕司は今度、断崖により近いほうの人物を指差して言った。

「ここで追い詰められているのは、悪いことをした犯人。だけど実際に綾人が追い詰めてしまったという人物は、何も悪いことをしていないんだろう?」


「むしろ悪いのは僕のほうだ」

「それなのになぜか相手のほうが責任を感じて、自分を責めていると」

「そうだね」

「てことは、相手は自ら断崖に寄っていった感じかな。そうさせた原因は綾人のほうにあるんだとしても」

「うん、そうなんだ。ほんと、どうしたらいいんだろう」


 小松原さんは過去の経験から、自分と関わった人間は不幸になると思いこんでいる。そんな彼女の心の傷を、僕は抉った。薄れていたかもしれない痛みを、再び思い出させてしまった。

 僕が弱くて役立たずだったから、小松原さんは殻に閉じこもることを選んだ。


「まずはその人にちゃんと理由を話したのか? 責任を感じる必要はないって、説明した?」


 僕は頭を横に振った。

「話したつもりだけど、聞く耳持たない感じで」


「難しいんだな」

「うん、すごく難しい。どうにかして僕は大丈夫だってことをわかってもらいたいんだけど」


「その方法がわからないわけか」

 裕司はシャッとペンを走らせ、絵の上に大きく斜線を引いた。


「ええ?」

 僕は眉をひそめ、裕司を窺った。

「消しちゃうの?」

 絵のほうがイメージしやすいと言ったのに。


「いいんだよ、こんな絵」

 裕司はなぜか突き放すような言い方をした。


 追い詰める人と追い詰められる人、二人の距離感を示すために描いた絵。刑事だ犯人だというのはあくまで例えであり、僕と小松原さんの関係には当てはまらない。そう判断したから、裕司は絵を消したのだろう。


「まあ実際こんな状況で刑事が強引に犯人を引き戻そうと動けば、結末なんてわかりきってるよな」

 裕司はさらにぐりぐりとペンを動かして、斜線を引いた絵を黒く塗りつぶしていく。

「刑事の行動は、かえって犯人を刺激しかねない。興奮した犯人はそのままドボンだ。崖下に飛び降りちまうかもしれない。そうなれば刑事はもう二度と犯人を引き戻せない。永遠にはなればなれ。さようならだ」


 裕司の言葉が、僕の心をグサグサ刺していく。引き戻せない。はなればなれ。さようなら。

 裕司の描いた絵は、僕と小松原さんの関係を言い当ててはいない。だけどどうしてか、これから先の僕たちの未来を予見しているように感じられて、背筋が寒くなった。

 僕が小松原さんの気持ちを無視して動けば、彼女はますます手の届かないところへと遠ざかっていくだろう。


「だから現実においては、その気になればいつでも手が届くんだぞというこの距離の近さに望みをかけて、地道にやっていくしかないわけだ」

 裕司はあっけらかんと結論を述べた。


「地道に、か……」

「おい、がっかりするのは早いよ。地道っていうのは、確実にって意味だからな。そんで確実っていうのは、後で振り返ってみたとき、一番簡単なルートだったりするわけだ。な? てことは最終的に引き戻すなんて簡単だという結論に辿り着く」


「なんだかさっきから色々こじつけてない?」

 半ば投げやりになって訊いた。ちょっと頭が疲れてきた。


「まあ聞けよ。大事なのはだな、追い詰めてしまった相手に示していくことだ」

「示す?」

「地道に少しずつ、相手にこっちの思いを示していくんだよ。相手がこっちの手を取ってくれるまで続ける。なかなか手ごたえを感じられなくとも、焦っちゃいけない。相手のほうから歩み寄ってくれるまで根気強く待つんだ。それで相手が手を取ってくれたなら、いよいよ引き戻せる」

「できるかな、僕に」


 果たして示せるだろうか。

 何があっても、僕は小松原さんを憎まない。

 小松原さんと共に体験したことは、決して僕を傷つけない。

 小松原さんがいる限り、僕は不幸にならない。

 だからどうか、自分を責めないでほしい。

 この思いを、正しく彼女に伝えられるだろうか。


「方法とタイミングが鍵だな」

 裕司が真剣な顔を向けた。

「何が最善かをよく考えるんだ。焦って見誤ったりするなよ」


 裕司の言葉に、僕は居住まいをただした。

 僕が追い詰めたせいで、小松原さんは完全に心を閉ざしている。

 そんな彼女に訴えかけるには、僕自身がすべてをさらけ出さなければならないだろう。

 僕の中にある、本当の気持ち。

 それを伝えることが果たして最善かどうか、今はまだわからない。


 話が一段落したところで、裕司があくびをかみ殺す。


「そろそろ寝よっか。布団の用意するよ」


「サンキュー」と眠そうな声で答え、裕司は再び床に寝転がった。


 裕司のぶんの布団を敷きながら、帰り際の、安在さんとの会話を思い返した。「自分の手の届く限り、困ってたり悩んでいる人がいたら力になりたい」と安在さんは言っていた。

 僕は安在さんほど高潔でないし、思いやり深くもない。だけど、少なくとも自分の手の届く場所にいてくれる人に対しては、優しくありたいと思った。


「ゆっくり休みなよ。そんでバイト詰めこむのも、ほどほどにしとけよな」

 すでに瞼が閉じかけている友人に向かって、声をかけた。

「今日はありがとう」

 



 ■ ■ ■




 おそるおそる発した「おはよう」に、小松原さんは小さく反応してくれた。

 顔を合わせるのは、二日ぶりだった。


 裕司が僕の部屋に泊まった日の、深夜から降りはじめた雨は、思いのほか長引いた。小松原さんは今日まで学校を休んでいた。


 雨が降れば、桐丘が現れる。僕と小松原さん以外の人は、桐丘の姿を認識できない。事情を知らない人からしたら、桐丘と対する小松原さんの姿は、ただ錯乱し暴れているようにしか見えないだろう。そのため、雨の間は、桐丘がどのタイミングで現れても対処できるように、学校や人気のある場所を避ける必要があるのだった。


「お、おはよう」

 硬い声で、小松原さんは返した。

 少し痩せたように見える。この二日間、桐丘の出現に備えて、神経の休まるときがなかったのだろう。


「欠席している間のノート、安在さんがコピーしてくれてるみたいだよ」

「うん、ありがとう」

「後で安在さんに声かけてみるといいよ」

「うん、そうするね」


 そこで会話は終了した。小松原さんは僕の横をすり抜け、職員室のほうへ歩いていく。欠席中の連絡事項か何かで、担任から呼び出されているのだろう。


 小松原さんともっと話していたい。愚痴でも弱音でもなんでもいいから、僕にぶつけてほしい。それでほんの少しでも、彼女の苦労を取り除けたらいいのに。彼女に栄養のあるものを食べさせたい。彼女の力になりたい。

 わき上がる思いを、「地道に、少しずつ」と反芻することで、どうにか封じこめた。



 午後になって、急に空模様が怪しくなった。

 五限目の体育の途中で、小松原さんは早退した。雨が降りはじめたのだった。

 クラスの誰かが、「今年の梅雨は長引くらしい」と言った。

 雨なんか降らなければいいのにと、僕は思った。

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