暗闇に落ちる日
「的場くんは隠れてて」と小松原さんは言った。
僕たちは今、ビル建設現場にいる。
工事がとりやめになって長いが、辺りにはいまだシートや資材などが置かれたままになっていた。これらは桐丘の攻撃を避けるための盾として、小松原さんの役に立ってきた。
この場所で桐丘を待ち受けるのは、今回が三度目だ。
二十分ほど前から、雨が降り出していた。
小松原さんに指示されたとおり、僕はコンテナの陰に身を隠す。
「桐丘の姿が見えたら、すぐ教えるから」
盾になるものが多いということは、それだけ見通しも悪くなる。小松原さんより先に、僕が桐丘の出現に気づくかもしれなかった。
小松原さんは空きスペースの真ん中に立って、周囲を警戒し続けていた。
雨が強く地面を打つ。
小松原さんは雨に叩きつけられるまま、全身を濡らしていた。水を含んだ髪がまとわりついた頬は、ぞっとするほど白く、唇は青ざめている。
僕が、彼女と代われたらいいのに。
傘を手に、安全な場所に隠れているだけの自分を、情けなく思った。
突如、頭上でけたたましい音が響いた。次の瞬間、建築資材が降ってきた。見上げると、鉄パイプで組まれた足場に、桐丘が立っていた。
「なんであんなところに……」
資材は、桐丘が蹴り落とすかしたのだろう。小松原さんのいる位置から外れていたのは、幸運だった。だが地面に転がった資材のせいで、自由に逃げ回れる範囲はかなり狭まった。
桐丘のすぐ傍で、雨風を受けたブルーシートがはためいていた。桐丘はそれをもぎ取ると、マントのように広げ、足場から飛び降りた。高さにすると、おそらく三階に相当するだろうか。そんな場所から飛び降りても、桐丘は平然としている。着地と同時に、ブルーシートを小松原さんめがけて投げつけた。
ふいを突かれ、小松原さんは、シートに覆われる恰好となった。跳ねのけようともがくが、濡れたシートは彼女の体にまとわりついて、その動きを封じる。
ガチャンと聞きなれない音がして、僕は桐丘へと目をやった。桐丘の手にあるものを見て、背筋が寒くなった。
そうだ、海外ドラマなんかでよく見かけるあれは――、
「ショットガン?」
まさかあれで攻撃する気なのか。
小松原さんが危ない。
いくら桐丘の攻撃に慣れていても、火器の威力には敵わないだろう。
桐丘が銃口を定める。
僕は小松原さんに向かって叫んだ。
「狙われてる! ショットガンだ!」
銃声とほぼ同時に、小松原さんはシートごと横っ飛びに避けた。そのまま地面に転がる。
シートを跳ね上げ、全身を現したとき、その左足には裂けた木片のようなものが刺さっていた。
傷口から滲み出た血が、彼女の靴下を赤く染め上げていく。
反射的に駆け寄ろうとする僕を、小松原さんが「出て来ないで」と目だけで制する。足を引きずりながら、桐丘との距離を取ると、ドラム缶の陰に身を隠した。
その直後、二度目の銃声が響いた。僕は頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。
「どうしよう……どうしよう……」
桐丘の攻撃は続く。
銃声が聞こえるたび、僕は震え上がった。膝にうまく力が入らない。息が苦しい。
「そ、そうだ、時間! 今何分経ったんだろう」
スマホで時刻を確認しようとして、指が滑る。僕の手の中から落ちたスマホは、足元の一斗缶に当たり、カンッと鋭い音を立てた。跳ね返り、泥水の中に沈む。
慌てて拾い上げた。画面が粉々に割れている。これでは時間がわからない。
「ああ、もう」
思わず、舌打ちが出た。
今さっき、小松原さんが傷つけられた辺りを見る。激しい雨に流されても尚、地面には彼女から流れ出た血が残っていた。
僕が情けなく震えている間も、小松原さんは桐丘の脅威にさらされ続けている。
「小松原さん!」
彼女の様子を見るため、コンテナの陰から飛び出した。
桐丘はまだ、彼女が身を隠しているらしいところへ向け、ショットガンを撃ち続けている。衝撃音が響くたび、ドラム缶に穴が空き、仮設トイレが吹っ飛び、鉄骨が倒れていく。
小さく悲鳴が聞こえた気がした。
鉄骨同士がぶつかり合う音で、空気が揺れる。
「小松原さん! どこにいる! 無事か!」
僕は叫んだ。
彼女からの返事はない。
「小松原さん!」
再び叫んだとき――、
「ま、的場……くん?」
かすかに声が返ってきた。積み重なった鉄骨の下から、小松原さんが這い出てくる。だがすぐに呻き声をもらし、地面に伏せった。
足を挟まれているらしい。
動こうとする僕の気配を感じ取ったのか、小松原さんは鋭い声を上げた。
「お願い、こっちに来ないで!」
視界の隅で、ショットガンを構える桐丘をとらえた。桐丘からすれば、彼女が身動きのとれない状態にある今が、絶好のチャンスだ。
「くそっ!」
今撃たれたら、確実に当たる。
小松原さんが死んでしまうかもしれない。
そう思ったとき、絶えず続いていた体の震えが、嘘のようにとまった。
勢いよく地面を蹴る。砂利と泥水を蹴散らして、真っすぐ小松原さんの元へ駆けた。僕に向かって、彼女は何か叫んでいたけれど、聞いている余裕はない。
両手を広げ、桐丘の前に立ちはだかる。
「的場くんやめて! 逃げて!」
撃たれる直前、小松原さんの絶叫を聞いた。そのすぐ後から、僕の世界は無音となった。
上体が、強く後方へと引っ張られる。両膝の力が抜け、僕は仰向けに倒れた。
わずかな力を振り絞って首を傾けると、何かを叫んでいるらしい小松原さんの顔があった。
彼女はなんと言っているのだろう。
わからない。
雨の音も、遠く街の音も聞こえない。
一つ息を吸いこむのが、とてつもなくしんどかった。体の芯から冷えていくのを感じた。それなのに腹部だけが焼けつくように熱い。そろそろと手で触れてみる。ぬらりとした感触が伝わった。
頭が重い。瞼が痙攣する。
徐々に狭まっていく視界の中で、小松原さんが何かを訴えている。目に涙をためて、必死に声を発している。
僕は、死ぬのだろうか。
泣かないで。
最後に、彼女にそう伝えたかった。だけどもう喋れそうにない。体に力が入らない。
瞼を閉じる。僕は暗闇へと落ちていった。




