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過去を語る日(3)

 母さんが亡くなったのは、僕が小学生のときだった。

 それから僕と父さん、二人きりの生活がはじまった。


 僕たちは早々に、人間らしい生活を放棄した。

 母さんの死を受け止めきれず、二人とも深く落ちこんでいた。何もする気が起きなかった。かろうじて学校や仕事には出るものの、帰宅後は互いに無言で、母さんの遺影の前に座り込むだけの日々。あっという間に家中が埃だらけになり、床には総菜や弁当のパックが散乱した。

 そんな生活がしばらく続き、先に正気を取り戻したのは、僕だった。溜めこんだごみが強烈な悪臭を放つようになった頃のこと。一方、父さんはまだ悲しみの渦から抜け出せずにいた。

 僕が食い止めなければ。

 やつれきった父さんの姿を見て、決心した。

 いつまでも荒んだ生活を送っていてはいけない。ここは僕が踏ん張らなければ。僕が頑張って、父さんを支えるんだ。


 家中を掃除し、料理の勉強をはじめた。失敗を重ねながら、少しずつ家事を覚えていった。毎日栄養バランスを考えながら食事を作り、父さんの仕事用のシャツにアイロンをかけた。

 次第に、家の中は母さんが生きていた頃と変わらぬ状態を保つようになった。

 生活が正常に回るようになれば、きっと以前の元気な父さんに戻ってくれる。

 子どもだった僕は、そう信じて疑わなかった。


 しかし、どれだけ家をきれいにしようと、おいしい料理を並べようと、父さんは依然として落ちこんだままだった。仕事から帰るとすぐに自室へ引きこもってしまう。親子の会話は皆無に等しかった。


「だけどあるとき、父さんがふいに笑顔を見せたんだ」

 僕は言った。小松原さんは相槌も打たず、ただじっと僕の声に耳を傾けてくれていた。


「それから僕と父さんは、ぽつぽつと言葉を交わすようになった。元々父さんは無口な人だったから、いきなり会話が弾むなんてことはなかったけど、充分うれしかったんだ」


 ついに努力が実を結んだのだと思った。僕が、父さんを絶望から救いだしたのだと。


「それであるとき父さんが、紹介したい人がいると言ってきたんだ」


 父さんから打ち明けられて間もなく、僕は祥子さんと蒼介に会った。父さんと祥子さんは結婚し、祥子さんは僕の母に、蒼介は弟になった。

 祥子さんと話す父さんは、以前とは別人に見えた。

 はにかみながら、祥子さんの肩に触れ、彼女の言葉にうなずく。その姿を目にしたとき、僕はわかってしまった。

 父さんを支え、ここまで元気づけたのは、僕じゃない。

 祥子さんと出会ったから、父さんは救われたのだ。

 母さんとの思い出を語り合える唯一の存在よりも、悲しみを忘れさせてくれる新しい妻という存在のほうが、父さんには重要らしかった。


「せっかく父さんが明るくなったのに、全然喜べなかった。踏みにじられた気分だった。間もなく、僕たちは一緒に住みはじめた。僕は祥子さんに対して攻撃的な態度をとった。祥子さんが作った料理にケチをつけたり、彼女が畳んだ洗濯ものを、わざわざ目の前で畳み直した。彼女よりも念入りに家の掃除をした。僕のほうが祥子さんより優れている。たぶんあの頃の僕は、父さんにそう認めさせたかったんだと思う」


 僕の陰湿な仕打ちにもめげず、祥子さんは毅然としていた。対抗心を燃やしているのはこちらだけ、祥子さんのほうは僕のことなど気にもとめない様子だった。

 僕はイライラを募らせていった。


「学校が半日で終わった日があったんだ。家に帰ると、祥子さんが泣いていた。まさか僕がこんなに早く帰宅するなんて、思ってなかったんだろうな。祥子さんは僕が何も訊かないうちから、なんでもない、今のは気にしないでと言い訳した。すぐにピンときた。祥子さんはきっと、僕の態度が原因で泣いていたんだろう。もしかしたら今までも、家族が出払った家の中で、こっそり泣いていたのかもしれない」


 これまでの行いを振り返り、僕は激しく後悔した。


「その日から、祥子さんに当たるのをやめた。僕がわざわざやり直さなくたって、元々祥子さんの家事は完璧だったんだ」


 僕は幼稚だった。願い通りにならないからと癇癪を起こし、心の優しい人を傷つけた。


「今さら反省したところで、祥子さんの受けた傷はなくならない。僕は、どうしたら祥子さんに許してもらえるだろう。祥子さんは絶対に僕を恨んでいる。あの家から僕がいなくなることが、祥子さんの一番の望みなんじゃないか。僕は彼女の望みを叶えなきゃいけないんだ。罪滅ぼしをしなきゃいけない」


 いつの間に、小松原さんの手が僕の背中をさすっていた。


「そういうわけで、僕はこの春からひとりで暮らしてる。ほんと、馬鹿だよね。馬鹿すぎて、笑い話にもならないよ」


 僕が唇を結んだ後も、小松原さんは背中をさすり続けてくれた。

「全然、馬鹿じゃないよ」

 ぽつりと言った。

「それだけ的場くんは一生懸命だったんでしょう? お父さんの力になりたくて頑張ったんでしょう? それが自分の思うように叶わなかったら、誰だって気持ちが荒んで、意地悪になっちゃうよ」


「小松原さん……」

「わたしたち、もっと早くに出会えてたら良かったのにね」


 僕も今、同じことを考えていた。

 こんなふうに心の弱い部分を見せ合える相手を、僕たちはずっと求めていたのかもしれない。


「それでも今こうして出会えているから、充分だよ」


 家のことで荒れていた時期、傍にいてくれたのは裕司だった。余計な詮索をしてこない裕司に、僕はずいぶん救われた。

 そして今、小松原さんのおかげで、再びあの頃と同じあたたかさを噛みしめている。

 話を聞いてもらえて良かった。

 人に話すことでこんなにも心が軽くなるなんて、今まで知らなかった。


「お茶はないけど、スープならあるんだ」

 今度は小松原さんがキッチンに立って、お湯を沸かした。粉末のスープを溶いたものを、手渡してくる。

「はい、どうぞ。かぼちゃのスープだよ」


「ありがとう」


 スープはとろりとしていて熱く、甘かった。

 窓の外を見る。雨の勢いは強まっていた。


「雨が弱まるまで、ここにいなよ」

 小松原さんが言った。それから何か思い出したのか、あっと声を上げる。


「どうしたの?」

「うん、さっきの話の続き」

「続き?」

「わたしと的場くん、もっと早くに出会えてたら良かったのにって、言ったでしょう?」

「うん」

「実はわたし、もっと前に的場くんに出会ってるんだ」


 小松原さんはそこで言葉を切り、からかうように僕を見上げた。

 僕は首をかしげ、続きを促した。


「正確には、的場くんによく似ている人なんだけどね」

「似ている人? 誰?」

「わたしの初恋の人。思い出したの。的場くんに似た顔してたなって」


 僕は複雑な気分で尋ねる。

「その人って、どういう人なの?」

 自分と顔が似てるというのは、いいことと捉えるべきか。


 小松原さんはうーんと唸り、

「どういう人って訊かれると、よくわからないんだ。たぶん高校生くらいの齢だったんじゃないかなってことくらい」


「あんまり交流はなかったってこと?」

「わたしが小学生のときに出会って、その後しばらくしてから、道でもう一回会ったきりだから、顔を合わせたのは二回だけだね」


 僕は続けて尋ねる。

「てことは、もしかして一目惚れ? そんなに魅力的な相手だったの?」

 顔は僕に似ているのに?


「うん、そうなるのかなあ」

「へ、へえ……」


 その後も、僕は小松原さんの初恋相手について質問した。けれど彼女は「あんまり覚えてないなあ」と繰り返すばかりで、たいした情報は得られなかった。

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