7話
剣を振るのは、自室でだけと決めていた。
筋肉のほうは見られても構わない。腕のない王子が汗をかいている、それだけの話だ。だが剣は違う。この身体がまともに剣を握れるとわかった瞬間、あいつらの態度は変わる。警戒されるだろうし、見張りが増える。最悪暗殺されるかもしれず都合が悪い。
だから夜、扉を閉めてからやる。
俺の部屋はろくに手入れもされていない離宮の、それも隅の一室だ。それでも王家の建物ではあるから、広さだけならそれなりにある。まともに振り抜けば天井を削るし、家具を傷つける。まぁ、剣を振り回すの鍛錬ではないからそれでよかった。
最初にやったのは、握ることだった。
右手一本しかない。前世で剣を教わったとき、あの人は両手で剣を持つことについて何も言わなかった。俺の手はゴブリンの手で、そもそも人間の型どおりには握れなかったからだ。あの人は俺に合わせて教えた。この手で、どう持てば力が乗るか、どこに指をかければ滑らないかという本質を教えてくれた。
あれと同じことを、この手でやり直す。
手のひらの中で柄を転がす。指の腹に当たる角度を探す。小指と薬指で締めて、人差し指は添えるだけ。何度も何度も、握って、緩めて、握り直す。傍から見れば、ただ棒切れを持って突っ立っているだけだろう。
次が、立ち方だった。
片腕がない身体は、そもそもバランスが悪い。左に何もないぶん、右へ傾く。歩くだけならごまかせるが、剣を振れば途端にバランスを崩す。だから、腰から下を作り直した。膝の角度。爪先の向き。重心をどこに置けば、右腕一本の重さに引かれないか。あの人は、多分こう言っていたのだろう。
——足で斬るのだ、と。
型や動きで、そう見せてくれていた。腕の振りではなく、足で地面を押した力を、腰と背中を通して刃先へ運ぶ。今なら、それがわかる。
型をなぞりながら、姿見に映る自分を見ていて、ときどき手が止まった。
その角度に見覚えがあるからだ。あの人が同じ形に立っていたのを、俺は穴の中で見ていた。川べりで見ていた。焚火の向こうで見ていた。まだ言葉を持たない緑の生き物として、ただ、あの背中を見上げていた。
型を繰り返すというのは、それを伝えてくれた人のすべてを受け継ぐということらしい。
身体が思い出すたびに、目のほうも余計なものを思い出す。俺は何度か手を止めて、それから、また続けた。
午後は図書室にいた。
この城で唯一、俺が自由に出入りできる場所だ。王族の子として最低限の教養は必要という建前があり、しかも誰も俺を見張りたがらない。文官どもは俺を見ると目を逸らす。都合がいい。
最初に片づけたのは、地理だった。
この国はグランフェルド。王都エルデンハルは南西寄りにあって、東へ行くほど土地が荒れる。北東の辺境の先に、ヴェルデ大樹海。地図の上では緑の染みのように描かれていて、境界の線が二重になっているものもあった。古い線と、新しい線。樹海は広がっている。
樹海に接しているのは、うちだけではない。北西にノルドグレン王国、南東にザラーン公国。どちらも同じように辺境を削られている。西のメリディア聖王国だけが樹海に面しておらず、そこに教会の総本山がある。
安全な場所に本部がある、というわけだ。
次に、歴史をさかのぼった。探していたのは、あの人のいた土地だった。
名前はわかっている。ヴォルヒルド。だが、それだけでは何の役にも立たない。俺は彼女の家名を知らない。あの人が名乗ったことがあったとしても、当時の俺には音の連なりでしかなかった。年代も知らない。自分がいつの時代にいたのか、見当もつかない。そもそも、俺が今いるこの国が、あの人のいた国と同じなのかどうかすら、わからないのだ。
ただ、俺は今、神気を扱える。ゴブリンだったころと同じものだ。だから、あのとき俺がいた場所と、今いるこの場所は、どこかで繋がっている——そんな気は、していた。
だから、土地から辿ることにした。
手がかりは二つある。
ひとつ。あの町は、森のすぐそばにあった。今の地図に同じ町が載っているなら、森に隣接した領地か——あるいは、とうに樹海に飲まれて消えた土地かのどちらかになる。
もうひとつ。あの日、森からゴブリンが溢れ出した。数百では利かない群れだった。上位種が混じっていて、その頂点には俺の背丈の倍はある将がいた。あれだけの規模で人の町が襲われて、記録に残らないはずがない。
魔物の氾濫と、辺境の領地。この二つで探せばいい。
見つけたのは、三日目だった。
辺境防衛史という、埃をかぶった本の中にあった。ゴブリンの大規模な氾濫。上位種の出現。東部辺境の一領が壊滅的な被害を受け、領主一族も多くを失った、と。
その領地の名は、ヴァルトハイム。
胸の奥が、静かに鳴った。
ヴァルトハイムなら知っている。今も残っている家だ。樹海に接する北東の辺境を代々預かり、魔物の対処に長け、当主も子も剣を取る。今では領地そのものが城塞のようになっていて、王国の北東の壁と呼ばれている。
氾濫を耐えて、生き延びて、そのまま壁になった家だ。
俺は、その頁の隅に書かれた年号を見た。指で数えた。今の年から引く。二度、数え直した。
――百六十年
俺が死んでから、この世界では百六十年が過ぎていた。




