後篇: 零れたひとり
シャッター音が鳴ったとき、教室には四人残っていた。
けれど写真に写ったのは、無人の黒板だった。
スマートフォンが少し上を向いていて、私たちの姿はフレームの下に切れていたからだ。
あとで写真を確認したとき、黒板の隅には、律が書いた小さな文字だけが残っていた。
――『明日は晴れ!』
文化祭当日の天気予報だった。
その文字を見た瞬間、私は泣きそうになった。
律はいつもそうだった。
大事ではないような顔をして、大事なことだけをしていた。
私が彼を好きだったかと訊かれたら、たぶん違う。
私は颯太が好きだった。
一年生のときからずっと。
体育祭で転んだ私に、颯太だけが笑わず絆創膏を渡してくれた。
試験前、私が数学を諦めようとすると、分かるまで何度でも説明してくれた。
颯太は玲奈のことが好きだった。
気付いていた。私はそれを気付かされていた。
玲奈も気づいていなかったことを、私は知っていた。
知っていたのに、やめられなかった。
それは、もしかすると甘えた感情。
いつか変わるかもしれないと思っていた。
玲奈が湊を好きなら。
湊が私を好きなら。
――颯太の気持ちは行き場をなくして、いつか私のところへ落ちてくるかもしれない。
最低だと思う。
誰かが報われないことを、自分が報われる可能性として数えていた。
それでも私たちは友達だった。
湊に手を握られるまでは。
夏祭りの帰り道。
玲奈と颯太と律がコンビニへ寄り、私と湊だけが先に駅へ向かった。
人通りの少ない橋の上で、湊は何の前触れもなく私の手を取った。
「美月」
名前を呼ばれた瞬間に、全部分かってしまった。
私はすぐに手を振りほどいた。
驚いたからではない。
湊が嫌いだったからでもない。
これを受け入れたら、五人に戻れなくなると思ったからだ。
「ごめん」
私が言うと、湊も「悪い」と答えた。
それで終わるはずだった。
終わったことにできると思っていた。
翌日、玲奈がいつもより遅く集合場所へ来た。
湊は目を合わせなかった。
玲奈は笑っていたけれど、シャツのいちばん上のボタンを留めていた。
真夏なのに。
私は二人の間に何かがあったと気づいた。
でも訊かなかった。
訊けば、私が原因だと分かってしまう気がした。
数日後、颯太と二人きりになった。
放課後の音楽室だった。
文化祭で使う音源を確認するため、ほかの三人より先に教室を出た。
颯太はいつもと同じだった。
だから、苦しくなった。
「ねえ、好きな人いる?」
突然訊いた私に、颯太は黙った。
その沈黙だけで答えは分かった。
「玲奈が好きなの?」
颯太は否定しなかった。
そして、彼はそのまま二の句が継げなかった。
私は泣いた。
ただ、何の前触れもなく、涙が勝手に落ちただけだった。
だけど、そんな言い訳など出来なかった。
湊に手を握られたことも話した。
玲奈と湊に何かあったかもしれないことも。
誰も悪くないふりをしながら、全員が少しずつ傷つけ合っているのが怖いと話した。
「五人でいたいのに」
私はそう言った。
颯太は私の頭に手を置いた。
たぶん、ただ慰めようとしただけだった。
その優しさを、私は利用した。
「私じゃ、……ダメ?」
答えを待たずに、キスをした。
唇が触れたのは一瞬だった。
颯太は私の肩をつかんだけれど、突き放しはしなかった。
その一瞬を、玲奈に見られていた。
誰かに見つかってほしかったのかもしれない。
私ひとりでは壊せなかったから。
五人のうち、誰かが最初に声を上げてくれるのを待っていた。
その役を玲奈に押しつけたのだ。
○
すべてが崩壊したような教室。
律が出ていった扉を、私は見つめていた。
「追いかけなくていいの?」
湊が言った。
「美月」
「分かってる」
「何が」
「私が行く」
廊下へ出る。
律の姿は階段の手前にあった。
「待って」
律は立ち止まった。
だけど、彼はこちらを振り向かなかった。
「ねえ。さっきの『だった』って、どういう意味?」
「さっき説明しただろ」
「説明になってない」
「今それを聞いて、どうするんだ?」
「……分からないよ」
「美月は颯太が好きなんだろ」
「好きだよ」
口にすると、胸が痛んだ。
けれど、もう嘘をつくのはやめたかった。
「今も好き。たぶん、すぐには変わらない」
「じゃあ、それで良いじゃないか。僕の気持ちは関係ない」
「関係あるよ」
「どういう関係?」
「律に嫌われたくない」
律がようやく振り返った。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。
ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「それはズルいよ」
「分かってる」
「僕のことは選ばないけど、僕にはそばにいてほしいってことだろ」
「……そう、かもしれない」
「そうだよ。どう考えてもね」
軽く笑みを零しつつも、鋭く溜め息を吐く律。
こんな彼は、もしかすると初めて見たかもしれない。
「……僕は美月が思ってるほど、いいやつじゃないからね」
「知ってる」
「知らないよ」
「知ってるよ」
「知ってたらわざわざ僕を追いかけたりしないだろ」
「知ってるって」
私は律の袖をつかんだ。
教室で写真を撮ろうとしたときと同じ場所だった。
「……律は何もしなかったんじゃない」
「何もしてないよ」
「私たちが壊れないように、ずっと何も言わなかったの」
「同じだろ」
「違う」
「何がだよ」
「律は、自分だけ傷ついてないふりをしてた」
律の表情が初めて動いた。
私は言葉を止められなかった。
「湊が私を好きなのも、私が颯太を好きなのも、颯太が玲奈を好きなのも、たぶん知ってたんでしょ」
「……全部じゃない」
「でも、気づいてた」
「じゃあ、気づいたからって、どうしろって言うんだよ」
「自分も美月が好きだって言えばよかったじゃん」
「言ったらどうなった?」
「……分からない」
「美月が僕を選んだか? それは『ない』だろう。無責任にも程がある」
答えられなかった。
律はまた小さく笑った。
「……まぁ、無責任なのは僕もそうか。むしろこっちの方が大罪かもしれない」
「でも」
「僕が告白しても、矢印が一本増えるだけだった」
「それでも、なかったことにはならなかった」
私は律の袖を強く握った。
「律が何も言わなかったから、私は律だけは何も失わない人だと思ってた」
「勝手だな」
「うん」
「だから、僕も勝手だった」
階段の下から、実行委員が下校を促す声が聞こえた。
文化祭前日の校舎が、少しずつ明日へ向けて閉じられていく。
「五人には戻れないかな……」
私が訊くと、律はすぐには答えなかった。
「……戻るって、どこに?」
ようやく口を開いた律の声は、冷たくなっていた。
「昨日まで」
「昨日の時点で、玲奈と湊は寝てた。美月は颯太にキスしてた。湊は美月が好きで、颯太は玲奈が好きだった。僕も美月が好きだった」
「……じゃあ、もっと前」
「もっと前から、同じだったよ」
そこまで言うのか――とも思ったけれど、律の言うとおりだった。
どこまで戻ろうとしても、正しい答えは絶対に出て来ない。
私たちは恋をしたから壊れたのではない。
壊れるまで、恋を隠していただけだ。
「明日はどうするんだ?」
「文化祭?」
「五人で回る約束」
律はスマートフォンを取り出した。
グループチャット『5/5』には、誰からもメッセージが来ていなかった。
「行かないって言ったら、誰かが傷つくでしょ」
「行くって言っても傷つくだろうさ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「それを五人で決めるしかないんじゃないか?」
律はスマホのモニタを指で叩く。
――お前が送れよ、という意味なのだろう。
私はメッセージを打った。
『明日、朝八時。教室に集合しよう』
消した。
『五人で話したい』
それも、消した。
迷った末に、最初に送るはずだった言葉を入力した。
『明日、五人で文化祭回ろう』
送信する。
数秒後、既読が一つついた。
律だった。
続いて、二つ。
颯太。
三つ。
玲奈。
最後に、湊が読んだ。
既読が五つ並んだ。
誰もグループから退室しなかった。
だけど、誰も返事をしなかった。
五分の五のまま、私たちはもう、昨日までの五人ではなかった。
そして画面から顔を上げたとき、律の姿は、もう見えなかった。




