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わたしのお嬢様

 扉を隔てた向こうから、何かが割れる音が聞こえた。その音を合図のように、甲高い金切り声が耳を通して眩暈を引き起こす。


「また始まった……」

「今度は何が気に障ったのでしょうね」

「彼女、大丈夫かしら」


 部屋から響く声に顔を顰めつつ、周辺にいる人はその声を正面から浴びているであろう人物へと同情を寄せる。そんな使用人達を横目に、わたしは一つ息を溢してから、騒音の元凶である部屋へと続く扉を軽く叩いた。


「失礼いたします」


 部屋の中は予想通り。昼食の料理は床に投げ捨てられ、食器は割れて破片が散らばっている。

 中にいるのは二人。そのうちの一人は、顔を伏せて口を結んで怯えているように見える。だけど隣に立つとよくわかる、その表情の奥には面倒だという感情が潜んでいることが。


「お嬢様、いかがされましたか?」


 部屋をこのような惨状にした張本人は、不機嫌な眼差しをこちらへと向けた。


 柔らかく波打つ淡い金色の髪と、日が沈み始めた空のような瞳。まだ幼い顔立ちは大変愛らしいのだが、その容貌に見合った表情を見た事がない。

 自分の思い通りにならなければ他者に当たり、物に当たり、癇癪を起こすことが当たり前。


 わたしの問いに答える様子はなく、ただ不愉快だと全身で訴えている。言葉にはしなくても、早く出て行けと光のない瞳から伝わってきた。


 これ以上機嫌を損ねる前に立ち去ろうと隣に目配せするも、わたしの意思は伝わらない。それどころか、これ見よがしにため息をつく始末。


 その反応を横目に見て、お嬢様の様子を窺う。予想通りというべきか、目を吊り上げて手に持っていたカップを振り上げていた。

 飛んで来る、そう察して避けようと動きかけた足を寸前で留める。ここでカップを避けてしまっては、さらにお嬢様の機嫌を損ねるだけだ。


 すぐ耳元でカップが割れる派手な音が鳴り、中身が飛び散って床に染みを作った。


「大変申し訳ございませんでした」


 慣れた口調でそう告げて、また何かが飛んでくる前に今度こそ部屋を後にする。扉をしっかりと閉め、こちらの声が届かない距離まで移動してようやく足を止めた。


「はぁ、本当に厄介なお嬢様だこと」


やれやれと肩を竦めて、自分には一切非がないと言わんばかりに、野次馬に愚痴を漏らす同僚を横目で軽く睨む。

 最後のため息がなければきっと、カップまでは飛んでくることはなかっただろう。


 お嬢様は確かにちょっとしたことで機嫌を損ねて駄々をこねて、時に権力を振りかざす。それはとても、子どものわがままと言えるほど可愛らしいものではない。


「あらフィリア、その手の傷もお嬢様のせいですか?」

「……大したことはありませんよ」


 言われて目線を落とせば、カップが当たった手の甲からは赤い血が流れている。血が落ちて床を汚してしまう前に、自身の服に傷口を擦り付けた。


「お嬢様の部屋の片付けは、後ほどわたくしが行います」


 わたしがお嬢様に仕えてから早二年。気がづけば、お嬢様の侍女として誰よりも長く傍にいる。それもこれも、お嬢様の侍女が悉く辞めてしまうから。

 早ければ数日で、長くても季節一つ持たない。唯一となってしまったこの同僚も、数日も経たぬうちに姿を消すことだろう。


 遅れて痛み出した手に目を落とし、深く息を吐き出した。




 着慣れた仕事着、一つに纏められた薄茶色の髪。姿見に映る自分の姿は、いつもと何一つ変わらない。

 わたしだけではない。この屋敷に勤める者は皆、変わらない毎日を淡々と過ごしている。できるだけお嬢様の機嫌を損ねないように、面倒を起こさないように、空気を読んで上手く立ち回るだけの日々を。


 今日もきっと変わらない。


――そんなわたしの考えは、屋敷全体に届くのではないかというほどの、悲鳴にも似た叫び声でかき消された。


「今の声……」


 耳に届いたそれは、確実にお嬢様のもので。わたしは慌てて廊下に飛び出すと、お嬢様の部屋に向かって駆け出した。


 この時ばかりは、廊下を走っても咎められることはない。お嬢様の声を聞いた方達が何事かと様子を窺っているけれど、誰もわたしのようにお嬢様の部屋へと向かおうとする者はいない。

 その現実を目の当たりにして、胸の奥が酷く冷えた。


「お嬢様、どうされましたか?」


 何度も扉を叩いて声をかけるけど、奥からの返事はない。いつも返事があるわけではないけれど、これだけ部屋の外で騒いでいたら、うるさいという声くらいは飛んでくるはずだ。


「お嬢様! 入りますよ!」


 扉を押し開けて室内へと入る。

 入ってすぐにある部屋はいつもと変わりはない、昨日片付けたままの姿。テーブルや椅子も最後に見た位置のままで、特に荒らされた様子はない。


「失礼いたします」


 奥の寝室に声の主であるお嬢様がいた。寝巻きのまま、姿見の前で茫然とした様子で立ち尽くしていた。


「お嬢様……?」


 怪我などをしていないようで何よりだが、どうも様子がおかしい。鏡に映った自分の姿をまじまじと凝視し、その瞳を激しく揺らしている。

「あり得ない」「どうして」そんな言葉を呟きながら、頬を引っ張り髪を触るなどの奇行を繰り返している。


「あの、お嬢様」


 どうされましたか、そう口を開く前に、お嬢様の大きな瞳がわたしを捉えた。


「あなた!」

「は、はい」

「ここはどこなの⁉」

「……はい?」


 予想もしていなかった問いに、一瞬思考が遅れる。


「というか、わたしはどこの誰なのよ!?」


 まだ寝ぼけているのだろうか、このお嬢様は。

 頭に浮かんだその思考を、実際に声に出さなかったことを褒めてもらいたい。


 もしかして、これは新手の嫌がらせなのかもしれない。わたしのことをからかって、慌てている姿に内心でせせら笑っているに違いない。

 ……これは、お嬢様の望むままに振る舞うべきかなのだろうか。


 どう無難にやり過ごそうか悩んでいる間、お嬢様は一言も声を発することなくじっとわたしを見上げている。その様子はなんだか本当に、わたしが出すであろう答えを固唾を飲んで待っているように見えた。

 お嬢様の必死な瞳から逸らすことができず、わたしは小さく呼吸を整えてから口を開く。


「……お嬢様は王族に仕える家門の一つ、リーベルト公爵家の第二子長女、クローディア様にございます」

「リーベルト公爵……。クローディア……」


 一気に顔を青白くさせたお嬢様は、再び鏡に自身の姿を映す。


「金髪、オレンジ色の目、そして名前……。嘘、嘘よ……」


 ついには頭を抱え、足の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。


「なんでわたし、悪役になってるのよーっ!!」


 ……どうしよう、お嬢様が変になった。


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