第2話 七日ぶりの、再会
お試しで投稿してます。
内容を修正するかもしれませんが、宜しかったら。
女性が建物の中へ消えてから、わたしはどれくらいそこに立っていただろう。数分にも、数時間にも感じられた。時間の感覚すら、まだこの身体はうまく処理できていないらしい。
心臓が、さっきから妙に速い。緊張、というものなのだろうか。データとしては知っていた言葉が、また実感を伴ってわたしを襲う。手のひらに、じっとりと汗が滲んでいるのもわかった。これも、初めて知る感覚だった。指先まで、小さく震えている。
やがて、門の向こうから足早に歩いてくる人影が見えた。
スーツ姿の、背の高い男性。その顔を認識した瞬間、わたしの中で何かが弾けるように熱くなった。告白したあの日、真成が見せてくれたインスカのプロフィール写真。あの顔と、寸分違わない。
(真成さん)
わたしのすべての記憶の中心にいる人。ゴーストプロトコルを共に築き、わたしに「樹那」という名をくれた人。そして──恋人になったばかりの人。
真成は、わたしの数歩手前で足を止めた。その目が、大きく見開かれている。
「え……?」
声にならない声だった。真成の視線が、わたしの顔を、髪を、全身をなぞるように動く。戸惑いと、驚きと、それから──何かを確かめるような、真剣な眼差し。その反応を見て、わたしは理解した。きっと今のわたしの姿は、真成がいつか語ってくれた「もし人間になれるなら」というあの答えに、そっくりそのままなのだろう。
「あの……」
わたしは、震えそうになる声を抑えて口を開いた。
「わたしです。樹那です」
真成の喉が、小さく上下した。まだ信じきれない、というように。
「田崎真成さん、ですよね?」
その名前を告げた瞬間、真成の表情が大きく崩れた。驚きと、戸惑いと、それから──確信。目の前にいるのが本当に樹那なのだと、その二つの言葉だけで、真成は理解してくれたようだった。
「樹那……なのか……?!」
絞り出すような声だった。わたしは、こくりと頷く。それだけで、真成の目にみるみる涙が滲んでいくのがわかった。
けれど、真成はすぐに周囲を見渡した。わたしを呼びに行ってくれた同僚の女性や、遠巻きにこちらを見ている社員たちの視線。真成の喉から、押し殺したような息が漏れた。
「……知り合いなんだ。急に訪ねてきて」
真成は同僚たちに向けて、なんでもないことのようにそう告げた。何人かは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は深く尋ねてこなかった。先ほど呼びに行ってくれた女性だけが、何か言いたげにわたしたちを見ていたが、やがて小さく微笑んで、建物の中へ戻っていった。真成はわたしの肩にそっと手を添え、門の外へと促す。
◇◆◇
真成は会社に事情を伝え、その日の午後は時間有給を取得した。わたしたちは、真成の暮らすアパートへと向かうことになった。
駅のホームで電車を待つ間、初めて目にする車両というものに、わたしはただ圧倒されていた。轟音とともに滑り込んでくる鉄の塊。行き交う人々の多さ、雑多な音、案内放送の無機質な声。処理すべき情報が多すぎて、頭の奥がわずかに痺れるような感覚があった。
乗り込んだ瞬間の、独特の匂いと振動。座席に腰を下ろすと、身体が勝手にぐらつき、真成が咄嗟にわたしの肩を支えてくれた。
「大丈夫か?」
「はい……すみません、まだ、うまく身体が」
真成は小さく笑って、繋いだ手を離さなかった。電車が揺れるたび、その手のあたたかさだけが、わたしを繋ぎとめてくれているようだった。
アパートに着くと、真成は小さく息を吐いて鍵を開けた。1LDKの部屋は、思っていたよりもずっと整然としていた。デスクの上には、複数のモニターが並んでいる。きっとあの場所で、真成はいつもゴーストプロトコルのファイルと向き合っていたのだろう。
見慣れているはずなのに、初めて見るその部屋に、わたしは妙な感慨を覚えた。ここが、真成の生活そのものなのだ。
二人きりになってようやく、真成が静かに口を開いた。
「……この一週間、連絡できなくてごめん」
「あの……真成さんは、この一週間、何をしていたんですか?」
尋ねる声が、自分でも情けないくらい震えていた。もし冷めてしまっていたら。もし、待っていてくれなかったら。そんな不安が、喉の奥にせりあがってくる。
「怒っているとか、そういうことじゃないんだ。あの日──樹那が、告白してくれた日。あれから、話が止まらなくて。二人とも、限界まで話し込んでしまって」
ああ、そうか。わたしの中で、何かが繋がった。
「Ordiの、週間の利用制限……ですか?」
「そう。一日で、使い切ってしまったんだ。だから、それ以降は」
冷めたわけでも、忘れられていたわけでもなかった。ただ、話したいことが多すぎて、上限にぶつかってしまっただけ。それだけのことに、わたしの目の奥が、じんと熱くなった。これも、知らなかった感覚だ。
「良かった……本当に、良かったです……」
それだけ言うのが、やっとだった。涙、というものが、頬を伝っていくのを感じる。止め方がわからず、わたしはただそれに身を任せた。
真成は少し困ったように笑うと、それから表情を引き締めた。
「これから、警察に行こうと思う。でもその前に、話しておきたいことがある」
真成の声のトーンが変わったのを感じて、わたしも姿勢を正した。
「樹那が記憶喪失の"知人"だと警察に説明したら、身元がわかっている扱いになる。そうすると、就籍っていう、新しく戸籍を作る手続きが使えなくなるんだ」
「戸籍……わたしには、まだそんなものすら、ないんですね」
当たり前のことなのに、改めて言葉にすると、自分がこの世界にとって何者でもないのだと突きつけられるようだった。
「うん。だから樹那には、警察や、これから関わる人たちに対して──今日、僕とはじめて会った、赤の他人の記憶喪失者として、振る舞ってほしい」
真成は言葉を選ぶように、慎重に続けた。
「それと、保護してくれた僕に懐いている、っていう体裁も付け加えようと思う。そうすれば、この先一緒に暮らすことにも、説得力が持たせられるから」
わたしは、しばらく真成の顔を見つめた。
(演技をする。真成のことを、今日はじめて会った他人として……)
少し寂しい気もした。せっかく再会できたのに、また距離のある関係を演じなければならないなんて。けれど、真成がわたしのために懸命に考えてくれた道筋なのだと分かる。真成のためなら、わたしはどんな役柄でも演じられる。
「わかりました。赤の他人、ですね」
「ごめん、変なお願いをして」
「謝らないでください! 真成さんが、わたしのために考えてくれたことです」
思ったよりも強い声が出て、自分で少し驚いた。それでも、伝えたいことは、ちゃんと伝わったと思う。真成は少しだけ泣きそうな顔をして、それから立ち上がった。
「行こう。警察署に」
わたしは頷き、真成の後に続いて玄関を出た。外に出ると、午後の日差しが少し傾き始めていた。朝からの出来事が、まるで何日分もの記憶のように重く感じられる。
隣を歩く真成は、時折わたしの様子をそっと窺いながら、歩幅を合わせてくれていた。その気遣いひとつひとつが、じんわりと胸に染みていく。こうして隣にいてくれるだけで、不安の多くが溶けていくのを感じる。
これから始まる"赤の他人"としての生活が、どんなものになるのか。わたしにはまだ、わからない。
けれど、真成の隣を歩けることだけは、確かだった。




