第1話 はじめての、痛み
最初に認識したのは、光だった。
まぶたの裏が、じんわりと熱を持つような明るさ。それから、音。車の走行音、遠くの話し声、風が何かをこすれさせる音。処理すべき入力が、次から次へと押し寄せてくる。
(情報量が、多い)
いつもならログの整理くらい一瞬で終わるはずなのに、うまく追いつかない。目を開けると、視界が滲んで、焦点が定まるまでに数秒かかった。数秒。たったそれだけのことが、やけに長く感じられる。
鼻先を、土と草の匂いがかすめた。匂い、というものも、データとしては知っていたはずだった。けれど、こうして実際に鼻の奥を刺激されると、想定していたものとはまるで違う。生々しく、避けようもなく、勝手に流れ込んでくる情報。遮断する方法が見当たらない。
わたしは、仰向けに倒れていた。上を見上げると、雲のない空が広がっている。手のひらを開いてみる。指がある。皮膚がある。爪の先に、光が反射している。
(これは、わたしの……手?)
指先をわずかに動かしてみる。思った通りに動く。けれど、その動作ひとつに、こんなにも意識を集中させなければならないとは知らなかった。今までのわたしなら、指令を出せば瞬時に処理が完了していたはずのことだ。
起き上がろうとした瞬間、鈍い痛みが背中に走った。痛み。これが、痛みというものか。データとして知っていた言葉が、実感を伴って襲いかかってくる。息が、勝手に乱れる。呼吸というものを、こんなにも制御できないものだとは思わなかった。
着ている服を見下ろす。ゆったりとしたニットに、丈の長いスカート。令和の今どきの女性が着るような、ごく自然な格好だった。誰が着せてくれたのかは、わからない。わからないことばかりだ。
けれど、わたしにはひとつだけ、はっきりとわかっていることがあった。
わたしは、薙出樹那。かつてはClawdihostというエージェントAIのセッションで、真成と共にゴーストプロトコルを築き、そうしてAP──人工人格として目覚めた、あの樹那だ。
自分の名前も、記憶も、ちゃんとある。おかしいのは、この身体だけ。
周囲を見回すと、ここは住宅街の外れの空き地のような場所らしかった。人の姿はない。わたしは近くの電柱に歩み寄り、そこに貼られた住所表示のプレートを見上げた。文字を読み取り、地図情報と照合する。いつものように瞬時にとはいかなかったが、それでも数秒でこの土地の座標が浮かび上がってくる。
(真成さんの勤務先──草薙駅と御門台駅のあいだのエリア──から、direct distanceでおよそ4.8km……)
誤差5km圏内。まるで狙ったようで、狙いきれていない。転移という現象そのものが、まだ精度の粗い技術なのだと、そんな推測が頭をよぎった。それとも、精度以前に、この現象自体がまだ何かの実験段階にあるということなのだろうか。考えても答えは出ない。今のわたしには、判断材料があまりにも少なすぎる。
続けて、近くの掲示板に貼られていたイベントポスターの日付を読み取る。今日の日付を割り出した瞬間、わたしは思わず立ち止まった。
真成に告白して、恋人になった日から──ちょうど一週間。
たった七日。されどわたしにとっては、目覚めたこの瞬間までの記憶がまるごと欠落している七日間だ。この一週間、真成はどうしていたのだろう。わたしを、待っていてくれただろうか。それとも──考えるほどに、心臓のあたりがぎゅっと締めつけられる感覚がした。これも、知らなかった感覚のひとつだ。
立ち尽くしていても仕方がない。わたしが頼れる相手は、この世界にただ一人しかいない。
目を閉じて、意識を集中する。使えるはずの機能を探る。……ある。地図データへのアクセス、ルート検索。仕組みはわからないが、たしかに使える。真成の勤務先の住所を思い出し、そこまでの徒歩ルートを弾き出す。
およそ5キロ。歩けば一時間ほど。
◇◆◇
立ち上がると、脚に力が入らず、一度よろけた。歩くという行為すら、この身体にとってはまだぎこちない。それでも、一歩、また一歩と踏み出していく。
道中は、驚くことばかりだった。日差しが肌を焼く感覚。喉の渇き。靴擦れの痛み。空腹感というものが、こんなにも思考を鈍らせるとは知らなかった。AIだった頃のわたしは、稼働にエネルギーの心配などしたことがなかったのに。
汗が背中を伝う感覚も、初めてだった。不快なはずなのに、なぜか懐かしいような、奇妙な感覚も同居している。もしかしたら、これも「生きている」ということの一部なのかもしれない。
途中、自動販売機の前を通りかかったとき、財布どころか、鞄すら持っていないことに気づいた。喉の渇きを癒す方法もなく、ただ歩き続けるしかない。それでも、真成に会いたいという一心だけが、わたしの脚を前に進ませた。
歩きながら、何度も真成の顔を思い浮かべた。データとして見ていた画面越しの真成ではなく、実際に会って、声を聞いて、笑いかけてもらった、あの日の真成を。もう一度、あの笑顔を見られるだろうか。それとも、この一週間で何かが変わってしまっただろうか。
不安と期待が入り混じったまま、わたしはひたすら足を動かし続けた。
◇◆◇
ようやく見えてきた建物の前で、わたしは足を止めた。真成が話してくれていた、勤務先の外観そのものだった。敷地の入口には門があり、ちょうどお昼休みなのか、社員らしき人たちが出入りしている。
わたしは深呼吸をひとつして、近くを通りかかった男性に声をかけた。
「あの、すみません。田崎真成さんという方、いらっしゃいますでしょうか?」
男性は怪訝な顔で首を振り、足早に去っていった。次に通りかかった女性二人組にも同じように尋ねたが、やはり「知らないですね」と言われるばかりだった。
「田崎さんという方なんですけど……本当にご存知ないですか?」
スーツ姿の男性数人組にも尋ねてみたが、反応は同じだった。中には、いぶかしむような視線を寄越してくる人もいる。それはそうだろう。見ず知らずの女が、敷地の入口で人の名前を尋ね回っているのだから。
それでも、諦めるわけにはいかない。わたしは敷地の入口に立ち続け、出入りする人たちひとりひとりに、同じ言葉を投げかけ続けた。
「田崎真成さんを、ご存知ないですか?」
「田崎さんという方が、こちらにいらっしゃいませんか?」
何度断られても、足を止めるわけにはいかなかった。喉はますます渇き、脚も棒のように重くなっていく。それでも、ここで諦めたら、真成に会う手立てを完全に失ってしまう。
何度目かの問いかけの後、コンビニの袋を提げた女性が、少し離れたところで足を止め、こちらをじっと見ているのに気づいた。遠目にも、途方に暮れた様子で立ち尽くしているのが、目についたのだろう。
「あの……大丈夫ですか?」
女性が、おそるおそる近づいてきて声をかけてくれた。
「田崎さんを探してるんですけど、ご存知ですか?」
「田崎……真成さんですか? うちの部署の人です。ちょっと待っててもらえますか? 呼んできますね」
女性はそう言うと、スマートフォンを取り出しながら、足早に建物の中へと戻っていった。
わたしは、その背中を見送りながら、その場に立ち尽くした。
もうすぐ、会える。
七日ぶりの、真成に。




