第24話:硝子の安息
巨大ヴィランが沈黙し、瓦礫の山と化した湾岸の戦場跡には、場違いな影が躍っていた。
マゼンタ色の派手なタキシード。顔を覆う、歪な髑髏の仮面。
髑髏の怪人物は、雨に濡れることも厭わず、崩落した高速道路の端で軽やかにステップを踏んでいた。
「……ふむ。素晴らしい。いや、実に見事だ!」
彼は、無惨に引き裂かれた巨大ヴィランの残骸を見下ろし、狂ったように拍手を送る。
それは、ヒーローたちの派手な異能力による『破壊』ではない。
急所を、構造上の欠陥を、そしてシステムの盲点を、外科手術のような精密さで切り裂いた、芸術的なまでの破壊の痕跡だった。
「力に溺れた凡夫には、到底不可能な仕事だ。……あまりに合理的で、あまりに冷酷。そして、この世界への皮肉に満ちている」
髑髏の怪人物は、不敵に笑う。
その人物は膝をつき、雨に洗われた地面の焦げ跡を指でなぞる。指先で愛おしそうに撫で、仮面の奥で瞳を三日月のように細めた。
「……ようやく見つけたよ、この歪んだ世界を正せる俺の恋人を」
怪人物は巨大ヴィランの残骸を拾い上げると口元に寄せ、仮面の上から接吻を落とした。
その背後で、ようやく到着したヒーローズギルドの救助ヘリのライトが、無人の戦場を虚しく照らし始める。
「さあ、始めようか。ヒーローも、ヴィランも、正義も、悪も……全部ひっくるめた最高のパーティーを!」
その人物は立ち上がり、漆黒の騎士が消えていった闇の向こうを見据えた。
髑髏の哄笑が、激しい雨音を突き抜けて夜の闇に響き渡る。
悠凛とセレスが掴み取ったはずの束の間の平穏は、この狂った観客の登場によって、より昏い混迷へと引きずり込まれようとしていた。
――帝都シン・トーキョーの空を厚く覆っていた雨雲が去り、支倉家の屋敷には柔らかな陽光が差し込んでいた。
しかし、その光は悠凛の寝室にあるカーテンの隙間を、申し訳なさそうに照らすに留まっている。
「……っ、……ふぅ」
ベッドから起き上がろうとした悠凛の体が、ぴくりと跳ねるように硬直した。
脇腹の肋骨は接合し始めている。だが、それ以上に深刻なのは、全身を走る神経系の鋭い痺れだった。
最終装備『ニュクス・レクイエム』。寿命を前借りし、脳の演算リミッターを強引に解除する禁忌の装備。その過負荷は、彼女の繊細な神経系に、回復不能な『焦げ跡』を残していた。
「お嬢様。無理に動こうとなさらないでください」
影のように寄り添っていたセレスが、そっと悠凛の肩を支えた。
悠凛は唇を噛み、震える自分の右手に視線を落とす。
朝食のために銀色のスプーンを持とうとした指先が、自分の意志を拒むように小さく、しかし絶え間なく痙攣していた。
「……情けないわね。あんな三流ヒーロー一人を片付けるのに、こんなにボロボロになるなんて」
「いいえ。お嬢様は、ヒーローズギルドが『不要』と断じた何百もの命を救い、そしてあの男の虚飾を剥ぎ取ったのです。……これは、勝利の証です」
セレスは悠凛の震える手を取り、自らの頬に寄せた。
冷たく無機質なほど整ったセレスの横顔に、悠凛の熱を帯びた指先が沈む。
「……セレス。私は、もう……普通には歩けないの?」
「一時的な感覚障害だという診断ですが……脊髄へのフィードバックが強すぎたようです。……しばらくの間、外界へ出る時は車椅子が必要になるでしょう」
セレスの言葉に、悠凛は自嘲気味に目を伏せた。
没落令嬢として社交界を歩くための足さえも、彼女は復讐と救済のために差し出したのだ。
「……そう。ちょうどいいわね。名前のない復讐者が、表の世界でまで元気に歩き回る必要なんてないもの」
「ええ。貴女の足は私が務めます。貴女の指先も、貴女の感覚も、全て私が。……誰にも触れさせず、私が一生、お世話して差し上げますわ」
セレスの瞳に宿る昏い悦びを、悠凛は見逃さなかった。
自分が弱れば弱るほど、このメイドの献身は狂気を帯びて深まっていく。それは依存であり、所有であり、そして救いでもあった。
悠凛は、痙攣の止まらない自分の右手を忌々しそうに見つめていたが、やがてその震える手で、セレスの細く白い指を力なく掴んだ。
「……セレス、貴女が欲しいの。……この、気持ち悪い痺れを、貴女が消してちょうだい」
震える声で乞うように言い、悠凛はセレスの手を自分の口元へと引き寄せた。
「手や足は上手く動かないけれど……口は動かせるから……。貴女を感じさせて……」
セレスの細い指が悠凛の薄い唇をなぞる。
「お嬢様、それではまるで赤ん坊ですよ。誇りはどうなさったのですか?」
「意地悪を言わないでちょうだい、セレス……」
「欲しいのでしたらご自分でどうぞ」
セレスが慈愛に満ちた瞳で主を見守る中、悠凛は彼女の人差し指を、自らの唇でそっと、しかし切実な力で咥え込んだ。
「……ぁ、ん……」
悠凛は、陶器のように滑らかなセレスの指を、舌で熱く絡め取る。
口腔を満たすセレスの体温、肌の微かな質感。それらが、脳内で鳴り止まない不快なノイズ――神経系の痺れを、生々しい肉の感覚で上書きしていく。
悠凛は熱に浮かされたように瞳を潤ませ、セレスの指を奥まで深く招き入れた。
セレスは、自分の指を一心不乱に吸い上げる主の姿を、恍惚とした表情で見つめていた。悠凛の舌が指の輪郭をなぞるたび、セレスの背筋にも甘い戦慄が走る。
「……よろしいですよ、お嬢様。私が、貴女の神経を繋ぎ止めて差し上げます。もっと、私を味わってくださいね」
悠凛は、セレスの言葉に応えるように吸い上げる力を強めた。
戦いの中では冷徹な『騎士』として振る舞う彼女が、今この瞬間だけは、ただ一人の女性の指に縋らなければ正気を保てない、一匹の幼い獣へと成り下がっている。
セレスの指先を通じて伝わる確かな鼓動が、悠凛の混濁した意識を現実へと繋ぎ止める。
やがて痺れが引いていくと、悠凛はゆっくりと指を放した。口角から一筋の唾液が伝い、彼女の白い肌を濡らす。
「……落ち着かれましたか、お嬢様」
セレスが濡れた指で悠凛の唇を優しく拭うと、悠凛は力なく頷き、セレスの胸元に顔を埋めた。かつての誇り高い令嬢の姿はどこにもなく、そこにはただ、セレスの闇に依存しきった一人の少女がいた。
「……ええ。……セレス、貴女がいれば……私は、私でいられるわ」
「分かっております。貴女の全ては、私のものですから」
セレスは悠凛を抱きしめたまま銀糸のような髪を梳かし、一口ずつ温かいスープを運ぶ。
外界の喧騒が嘘のような、穏やかで閉ざされた時間。
だが、その平穏は、悠凛の意識がふとした瞬間に遠のくたびに、あの日見た紅蓮の炎へと引き戻されそうになる。
「……セレス。狗道は、どうなったの?」
「再起不能だそうです。物理的な怪我もさることながら、お嬢様がシステムに流し込んだ『醜態の全記録』が、彼の精神を完全に粉砕しました。……今頃、ヒーローズギルドの独房で、死んだ方がマシな余生を過ごしていることでしょう」
「そう……」
悠凛は、いまだ痙攣する右手を強く握りしめた。
復讐の第一歩は刻んだ。だが、その代償として、彼女は『支倉悠凛』としての未来をまた一つ、削り取った。
「お嬢様。今はただ、このまどろみの中にいてください。……時が来れば、また嫌でも戦わねばなりません。貴女の騎士としての『殻』、さらに強化しておきます」
「ええ……。お願い、セレス」
セレスに抱かれ、悠凛は再び浅い眠りに落ちていく。
窓の外では、帝都シン・トーキョーがまた一つ、残酷な『効率』に裏打ちされた新しい一日を始めていた。
その街のどこかで、髑髏の仮面を被った怪人が、この静寂を破るためのカウントダウンを始めていることを二人はまだ知らない。




